第2話 本好きの少年
夜はひんやりとした風が肌寒いくらいだが、日中はまだ汗ばむ日もある。十月も半ばに入った初秋の金曜日。通り過ぎる風が髪を梳かし、頭皮から秋が本格的に近づきつつあると感じ取れる平穏な日だった。
高校生活の二年目も既に後半を過ぎた。煩わしかった中間テストがようやく終わり、
追い抜いていった一人のサラリーマン風の男が、スマートフォンを片手に伊与たちを一瞥していった。大人たちからすれば「社会の厳しさははこんなもんじゃない」と説教でもしたくなるかもしれないが、学生にとっての試験はまさに戦いそのものだ。歩調が遅くなるくらいの余韻に浸らせてくれても罰は当たらない。あんな、なにかに急き立てられるような歩き方をしなければならない大人にはなりたくなかった。
「どうだったよ? 今回の試験は」
隆太が間延びした声で訊いてきた。日向ぼっこをして微睡んでいる猫みたいだ。完全に呆けて油断している。
伊与は首を捻って、歩いてきた道を振り返った。
「なんだよ?」
「いや……、隆太の耳の穴から、試験中に覚えた知識がポロポロと道端に零れ落ちてるんじゃないかと思って」
「ふざけんな。仮にそうだとしても困らねーけどな。どーせ対試験用の知識だし。それよりどうだったんだよ」
「んー……。ドンピシャの手応えはなかったけど、すげー外したってのもない感じかな。赤点を取った教科はないと思うけど」
「マジか? 俺なんてヤバそうなのが二つ三つはあるぞ。勉強した範囲は大体同じはずなのに、なんでだよ?」
「なんでって言われたって……、隆太そんなにヤバいの?」
「ヤバいってばよ。社会の時事問題とかよ、総理大臣がどうとか中国との関係がどうとかって、そんなのわかるわけないじゃん」
「常識問題ばかりだったじゃないか」
「そうは言ってもよ。自分の生活に直結してないことには興味持てないから、頭に入ってこねーっていうか、バカな大人たちがバカなことで騒いでるだけで、どうでもいいっつーか」
「隆太は幸せだな」
「なんだよ。それ」
「無知は最大の罪であると同時に、最高の幸福でもあるんだ」
「おー、思いっきり上から目線だな。おまえのそういうすかしたところが人を遠ざけてる原因だぞ」
「べつに遠ざけてるつもりは……」
伊与は言い返そうとしたが、言葉は尻つぼみになった。
隆太の一言は的を射ていた。彼は伊与の数少ない友人、というよりも友と呼べる唯一の人物だ。伊与は積極的に交友範囲を広げようとはしなかった。小学生の時も中学生の時も、クラスメイトと会話はするが、一緒に遊びに出掛けたり買い物を楽しんだことがない。周囲の人間もそんな伊与の淡泊な性格をなんとなにし感じ取るのか、一定の距離を置いての付き合いに終始していた。担当の教師ですらもだ。
けっして人嫌いというわけではないのだが、いわゆる孤独癖があり、衣食住さえ保証されていれば一生誰とも接さなくても平気とさえ思っている。人づきあいなどなければないで構わないと考えていた。
そんな彼に、隆太はなぜか打ち解けていた。出会ったのは高校に入学してからだが、一年の時から同じクラスになったのが縁となった。
きっかけは些細なことだったと思う。人懐っこい隆太は周りの席のクラスメイトに話し掛け、彼の周りにはたちまち人の輪ができた。入学初日の高校生活が始まって誰もが緊張していた時、社交的な彼の性格は安心感を与えたのだろう。
好きな漫画がなんだとか、面白い芸人は誰だとか、そんなくだらない会話が始まりだった。伊与としては、教室内でも会話程度の交流で留めるつもりだったが、帰りが偶然一緒になった。会話の流れで帰りに本屋に寄ることになり、それから付き合いが始まった。その時に購入した本は、伊与は当時話題になっていたホラー小説で、隆太は現在も連載が続いているバトル漫画だった。
「試験も終わったことだし、ラーメンでも食ってくか」
「これから? 晩飯が食えなくなるぞ」
「なに言ってんだよ。俺たちは健全な高校生だぞ。食欲も性欲も人生で一番溢れてる時だろうが」
「表現が下品だぞ」
「いいから行こうぜ。胃がもたれるくらい脂ギトギトのチャッチャ系ラーメン」
「うええ……」
肩を組まれて強引に誘われるも、伊与は抵抗しなかった。人づきあいはなくても良い。なくても良いが、この友人との気の置けない時間は嫌いではなかった。
二人が入ったのは地元でも有名な背脂チャッチャ系のラーメン屋で、隆太の話では、チャーシューメンが人気とのことだった。
伊与は普通のラーメンを、隆太はチャーシューメンをたいらげた。隆太にお勧めだと連れられて初めて入った店だったが、確かに美味かった。大粒の背油がスープの表面を覆うくらい浮いていたが、けっしてくどくなくスルスルと喉を通った。麺は太めで魚介ベースのスープは上品な甘さがあり、伊与好みだった。
隆太が所望した通り、脂ぎったラーメンで空腹を満たしカウンター席を立った。
「あー美味かった。やっぱりここのラーメンは最高だな」
「おまえ、チャーシューメンだったろ。晩飯食えるのかよ」
伊与は呆れ口調だった。なにしろ、隆太が注文したチャーシューメンには角煮みたいな分厚いチャーシューが三枚も乗っかっていた。
「晩飯は別腹だよ。おまえだって、スープまで飲み干しといてよく言うよ」
「食べ物を残すのは良くないから」
「マジメか」
隆太はすこぶる機嫌が良く饒舌だった。テストから開放されたのが、余程嬉しいのだろう。
「んじゃ、帰るとしますか」
二人肩を並べて駅まで歩いた。
すれ違う人で、歩きスマホをしている者が何人もいた。その度に、伊与はほんの少しだけ心に波を立たせた。なにがどうというのではないのだが、すれ違う直前にタッチパネルを凝視していた目を動かし、上目遣いに前方をチラ見する仕草が嫌いだった。
伊与たちの学校は墨田区N町にあり、通学路からはそびえ立つ電波塔が見え、時折変な店が存在感を示す住宅街をのんびり歩くと、十分程度でJR錦糸町駅に到着できる。
駅前に着いた。買い物客や駅を利用する人たちで賑わっている。駅周辺は治安が悪いイメージが定着しているが、実際にガラが悪かったのは相当昔の話だ。少なくとも伊与は妙な連中に絡まれたことはない。
改札口を通過したところで、伊与は神保町に行くと告げた。
「神保町? また本か。好きだねぇ」
伊与は本をよく読んだ。小説も読むし漫画も読む。情報雑誌や画集。嗜好はあるがジャンルは多岐にわたった。
いつから本好きになったのか、伊与自身も覚えていない。物心ついた時には、常に読みかけの本が部屋に置いてある感じだった。独りでいても孤独を感じないのは、本に囲まれている環境が無関係ではないのだろう。
ホームで電車を待つ間も、取り留めのない会話は続いた。
「神保町に行くなら、メトロ使った方が良かったんじゃないか?」
「それでもいいけど、腹ごなしを兼ねて御茶ノ水駅からブラブラ歩くよ」
「御茶ノ水ってあんま降りたことないから、どんな駅なのか頭に浮かばないな」
「うーん……。そうかも。隣の秋葉原はオタクの街だし、神保町は本の街ってさっと言えるけど、御茶ノ水ってなにがメジャーだったかな」
御茶ノ水を表す上手い表現が思い浮かばず二人の会話が止まった時、二番線に下りの電車が到着した。
「おっ、じゃあ俺はこいつで帰るから」
「うん。また明日……じゃない。月曜日か」
「ああ。月末辺りにどっか遊びに行こうぜ」
伊与は了解のサインに手を挙げた。
隆太は歯を見せて電車に乗り込むと、手すりに摑まって早々にスマートフォンを弄り始めた。歩きながら弄っているわけではないので、あれは気にならない。
隆太が乗った電車がホームから出たのと入れ違いに、一番線に上り電車が滑り込んできた。
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