第1話 不吉の胎動

 首筋を舐めた風に、背中に鳥肌が立つのを感じた。全身がぶるりと大きく震えた。

 なんか面白いことねえかなぁ……。

 男はそんなことを考えながらフラフラと街を歩いていた。

 名は掛札稔かけふだみのる。二十四歳。無職。

 彼は社会では完全に負け犬だった。大学を卒業して就職した会社は、二ヶ月で退社した。仕事のキツさも嫌だったが、それ以上に周囲の人間にロクな奴がいなかった。

 ちょこっとミスしただけで口うるさく注意してくる上司や、やたらと煽ってくる先輩。数人いる同僚が少し距離を置いているも気のせいではないだろう。

 たまたま自分より早く入社していたり仕事ができるからってだけで、なんでそんなに偉そうなんだ?

 胸の中にムカつきが充満するのに、それほどの時間は要さなかった。

 定時にあがった日のことだ。会社近くにあり、以前から目をつけていたカレーショップで夕食を済ませた。食券を買いカツカレーを注文した。店内に満たされている食欲を増進させる香りに、カウンター席に座った掛札の期待は高まった。

 出されたカレーは、最初に甘さがあり段々と舌を刺激する辛さが追い掛けてくるもので、掛札の好みのものだった。

 料理を平らげた時には、目をつけていた店で美味い料理に巡り合えたことに満足していた。良い気分で帰路に就こうと駅近くまで来た時、視野の端に見知った連中を見つけた。

 同僚や先輩が笑い合いながら、居酒屋に入っていったのだ。いつの間にそんな約束を交わしていたのか、掛札は声も掛けられていなかった。今回は偶々タイミングが合わなくて誘う機会を逸したのだと、己の心を納得させようとしたが無理だった。これまでの連中の接し方を顧みても、自分を省いて集まっていたことは想像に難くなかった。誘われても乗ったかはわからないが、自分だけ誘われなかったという事実が重要なのだ。

 カレーを詰め込んだばかりの胃がチリチリと痛んだ。浮かれていた気分は急速に萎み、なにもかも馬鹿らしくなり、翌日から出社しなくなった。

 ごちゃごちゃとうるさい電話が何度か掛かってきたが、退職する旨だけを伝えて、必要書類などは郵送で済ませた。すべてが面倒臭かった。

 当然、両親から事情の説明を求められたが「うるさい」「俺の勝手だ」で押し切った。部屋から出るのも億劫になり、気がついた頃には、世間で言うところの引き篭もりの仲間入りを果たしていた。

 社会に復帰する気は起きなかった。かと言って、深刻な悲壮感もない。気の向くままにゲームやインターネットにのめり込み、ズルズルと生きるだけの生活となった。

 そんな生活を三ヶ月ほど続けた。さすがにゲームだけでは刺激が足らなくなる。

 退屈しのぎの漫画でも買おうと、掛札は久し振りに外に出た。もちろん、金は親の財布から黙って抜き取った。いつもはネットで注文するのに、今日に限って外出する気になった。理由は説明できない。気まぐれとしか言いようがない。

 駅ビルのテナントで健気に営業を続けている、森下書店という店舗が一軒ある。掛札がネット以外で購入する際は、大抵ここを利用する。品揃えが良いわけではない。電車やバスに乗って遠出をする気力が湧かないから、地元で済ましているだけだ。

 決して広くない店内をうろつき漫画を物色していた時、掛札の頭の中に直接声が響いた。


『おまえ、いい感じに濁ってるな……』


 思わず振り返ったが、背後には誰もいなかった。不審に思うと同時に快感も走った。心臓をくすぐられるようなゾクゾクした感覚は、生まれて初めて味わうものだった。

 少し気味が悪かったが、深く追及する気にはならなかった。結局、月刊誌を一冊、単行本を六冊買って帰路に就いた。平日なので人通りも疎らだ。


「ん?」


 道端に一冊の本が落ちていた。中身を知りたいとも思わない、汚れきったみすぼらしい本だ。


「なんだ? 汚え本だな……」


 そう思ったのに、掛札はその本を手に取っていた。

 なんだ? なんだって俺は、こんな小汚いもんを拾っちまったんだ?

 自分は他人のことなど見もしないが、他人からの目はひどく気になる。

 ばつが悪くなり視線を泳がせたが、周囲には誰もいない。いつの間にか一人になっていた。それほど人通りが激しい通りではないが、人っ子一人いないとは……?

 掛札は急に怖くなり、拾った本を元の道端に捨ててその場を走り去った。

 滅多に走ったりしないので、自宅に着いた時には激しく息が切れ、汗が大量に流れ出た。扉を開ける前に背後を振り返り、誰もついてこないことを確認して家に入った。

 ようやく人心地ついたのは、自室に戻って鍵を掛けてからだった。飲みかけのペットボトルの中身を、一気に流し込んだ。


「いったい、なにを怖がってたんだ? 俺は……?」


 カーテンを開き、隙間から表を覗き見た。なんの変わりのない、いつも通りの眺めだ。ちゃんと通行人もいる。


「……いつも通り、だよな?」


 安心したところで、さっそく買ったばかりの漫画を読もうと、袋から取り出してぱらぱらと捲った。


「あっ!」


 掛札の手が止まった。


「角が折れてやがる。さっき走ったせいだ。クレーム入れて取り替えてもらうか? でも、もう一度駅まで行くのはかったるいな」


 少しだけ気分がムカついたが、どうせ暇つぶしに買ったもんだと自分を納得させて漫画を読み始めた。


『幼稚で自己中心的。いいな。おまえのようなクズなら、理性や良心なんか関係なく暴れてくれそうだ』


 掛札は漫画を落として立ち上がった。


「なに? なんだよ?」


 自分の部屋なのに、入社初日の会社員みたく落ち着かない気分で室内を見渡した。自分以外誰もいない。いるはずがない。


『鈍い野郎だな。ここだよ』


 ここと言われても、声が頭の中に直接響くので方向がわからない。しかし、導かれるように彷徨う視線は一点で止まった。

 散らかし放題のパソコンデスクに、それは置かれていた。さきほど道端で手にした汚れた本だった。確かに捨てたはずなのに……。


「えっ? なんで? なにが……?」

『なんで? なんて考えなくていいんだよ。これからは俺が導いてやっからよ。おまえは欲望を満たすことだけを考えりゃていい。これからはな……』

「う……う……」


 掛札の意識がぼんやりと輪郭を失っていく。

 それが義務であるかのように、彼は手を伸ばして本を手に取った。


『これで、おまえは俺と契約を交わした。もう悩みはない。たっぷりと楽しませてやるぜ』


 頭の中の声さえも不明瞭になっていく。

 掛札は、今までに感じたことのない恍惚感に包まれながら気を失った。

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