グリモワールの死神

雪方麻耶

プロローグ

 いつもは優しく滲む月明かりが、今日はやけに明るい。まるで「おまえに隠れる闇なんか提供しないぞ」と言っているようだ。それでも、男は青く輝く月を美しいと思った。


「見失ったぞ」

「探せ。あの怪我じゃ、そんなに遠くへ行けっこない」


 奴らの声が聞こえた。こちらに迫ってきている。あと数分のうちに俺を発見するだろう。だが、もう遅い。奴らが俺を発見した時は、「ざまあみろ」と思い切り見下してやる。


「……くっ」


 コンテナに背を預けて座り込んでいた男は、堪えきれずに吹き出した。

 あの書物は日本行きの船に紛れ込ませた。書物自体に施された魔力に守られ、日本に到着した後は誰にも発見できなくなるだろう。まさか、味方の中にまで反乱分子が紛れ込んでいるとは思わなかった。敵は思った以上に勢力を拡大しているということか。こうなった以上、あれはもう、どこにも属してはならない。いや、元々が孤立した存在だったからこそ、今まで発見されずに済んだのか……。

 そこまで考え、男は自らが隠した書物の数奇な運命に思いを馳せた。

 だからか。だから、あのグリモワールは……。あれに棲む者は歴史の闇に紛れて表舞台には現れなかったのか。それを俺が見つけた。迂闊だったのは、あれを探していた者が自分一人ではなかったのに気付かなかったことだ。


「いつもそうだ。……俺は詰めが甘いんだよな」


 こんなやばい状況にも関わらず、やり遂げた充実感で体中が満たされている。

 やばい状況。

 男は背中から流血しており、一向に止まる気配はない。生温かい血が腰を伝わり尻まで湿らせている。このままじっとしていても、もって数分の命。まさに風前の灯火だ。奴らが俺を探り出すのが先か、命が燃え尽きるのが先か……。

 ……いいさ。とっくに受け入れている。この世界に足を踏み入れた時、安らかな死を迎えられるなんて考えは捨てた。これが俺の運命だったのなら、そんなに悪くない人生だった。……ただ一つだけ心残りなのは、日本に残してきた家族のことだ。妻と息子、それにそろそろ生まれるはずの二人目。家族に危険が及ばないように、連絡は一切していないし写真一枚も持っていない。

 妻にはもっと優しくしておくんだった。息子の成長を見られないのが悔やまれる。二人目は男の子だろうか、それとも女の子かな。俺が死んだら、親父は烈火の如く怒るだろうな。もしかしたら、少しは悲しんでくれるかもしれない。しかし……わかってほしい。すべてはこの世界の秩序を守るために行ったことだ。自分の行いは間違いなく『正義』なのだ。誇りを抱いて死んでいける。

 船の汽笛が月に照らされた夜空を割った。骨の髄まで響く重たい音色だ。これで、もう奴らには手が出せない。俺の勝ちだ。


「おいっ、いたぞ。こっちだ」

「あれの隠し場所を聞き出すんだ」


 スーツ姿の男たちが駆け寄ってくる。それなのに、おかしい。近づいてくるのに反比例して声がどんどん遠ざかっていく。  


「きさまっ、あれをどこに隠したっ」

「……幸せに、なってくれ」


 男が口にしたのは、追手たちに浴びせてやろうと思っていた台詞ではなかった。

 なんだか、やけに暗いな。月が雲に隠れたかな……。

 奇妙な安心感に包まれ、男の視野が徐々に暗くなっていった。

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