48 スケートリンク
「スケートリンクで滑りたい」
スケーターなら当然か。
実家の近くなら、1年中利用できるスケートリンクが1か所あるが、車でも公共交通機関を使ってもどちらも片道2時間以上かかる。それ以外だと他県になり、もっと遠くなる。
東京ならどこにある?
調べてみたら、都内には1か所だけでなくいくつもあった。隣県の神奈川、埼玉、千葉にも片道1時間ほどで行けるリンクがある。
東京駅の改札口を出て、タクシーの後部座席に3人で並んで座りながら、確認してみた。エリューシャの荷物はタクシーのトランクに「よっこいせ」と放り込んでいる。
「それって、スケートリンクで単に滑りたいだけ? それとも、フィギュアスケーターとしてトレーニングしたいということ? そのために、リンクを貸し切る必要があるレベルの?」
エリューシャに聞くと、彼女は考え込んでしまった。
スケーターとしての理想は、従来のアメリカの練習環境に戻ること。
だけど、日本滞在中は当然できないから代わりを、と望むわけだが、先行きの見通しが立たないことがネックになっている。
つまり、リーナさんの治療方針のこと。少なくとも、来年2月までは日本に滞在して治療を行うことが決まっている。
なら、その後は?
一応、アメリカで治療を引き継げられる医療機関は見つかったらしいが、リーナさんの家からは車で片道6時間かかる。他の交通手段、飛行機を使えば、時間は少し短くなるが、空港から医療機関までの交通手段がまた必要になる。
「さすが、アメリカ。スケールが大きい。だけど、通えるの、そこ?」
毎日通うことはなく、ある程度間隔を空けて、になるだろうが、どうだろう?
エリューシャは少し考えてから答えた。
「……通えなイことは無いと思いマすが、何年もトなると難しイ時もあルと思います」
「今なら、車で片道15分だもんな」
「なノで、баба(おばあさん)は日本で治療を続けルことも選択肢に入れてイます」
「大丈夫なの? 住み慣れた土地から離れて知らない土地で生活を始めるのは、ストレスがかかる、って聞くけど」
華鈴が他人事のように聞く。
華鈴も住み慣れた土地から離れて知らない東京に出て来ているのだが、もし、ストレスがかかっていない、ということは無くても、少しでも和らげられていたら、嬉しい。
「そレは大丈夫みたイです。『生まレ故郷のロシアを離れて、アメリカに移住したかラ、もう一度、住処を変えるノは気にならなイ』と言っていました。早速、コータのおばあさんに紹介さレて、コミュニティの仲間入りもしてイました。アメリカよりも、今の方が楽しそうに見えまス」
そうなると、逆にネックになるのが、エリューシャのフィギュアスケーターとしての活動拠点。
「そうなると、エリューシャがスケーターとしての活動を再開したら、一人でアメリカに戻る、ということになる?」
「……そうなりまス」
「出来るのか」「大丈夫なのか」と聞くのは、彼女の顔を見ていると出来ない。
「エリューシャも日本に移る、はできないの?」
「どこで練習すルか、誰が指導してくれルのか、他にも道具ヤ色々どうしたらイいのか、そうシたことが、日本では全く分かりマせん」
私も、そうした知識は全く持っていない。
だったら、持っていそうな人に聞いてみよう。
「は? 日本でフィギュアスケーターとして活動するにはどうしたらいいか、だって?」
私たちは、タクシーに一度マンションに寄ってもらって、エリューシャのスーツケースを置いた後、大会会場に向かった。
そこで落ち合った財部さんにエリューシャを紹介すると、財部さんは口をパクパクした後、私を引きずって場を離れて、
「どこで会ったのよ、あの子と! いや、むしろ、本物!? エレオノーラ・アレクサンドロヴナ・コチェルキナよ。アメリカの若手有力選手の一人! それが何であんたと一緒にいるの? アメリカで病気療養中じゃないの? え? しかも、日本語ペラペラ? なんで?」
半ば支離滅裂にまくし立てられた。
だから、財部さんの興奮が落ち着く魔法の言葉を口にする。
「簡単に言えば、祖母の紹介です」
これで、財部さんの顔からストンと興奮が抜け落ちた。そして、大きな溜息をひとつ吐いて、
「……やっぱり、あの子か」
一時、私たちの間を沈黙が覆う。
そして、再び、財部さんは大きな溜息を吐いた。先程のが生気が抜け出て行くような溜息だったら、今度のは自分を取り戻そうとする溜息だった。
「いいわ。簡潔に、だけど、もう少し詳しい説明をしてちょうだい?」
「まず、訂正しておきたいのは、病気療養中なのは、エリューシャではなく、唯一の肉親である彼女の祖母のリーナさんです。アメリカでは速やかな治療を期待できなかったようです。代わりに、受け入れ可能だった日本の病院で治療するために、二人は来日しました」
「分かった。そこをつないだのが、あの子なのね」
「その通りです。病院の評判を聞くために、友人である私の祖母にリーナさんが連絡を取ったら、その病院の先生も私の祖母の友人であったために……」
「トントン拍子に行ったと。あの子の周りにいたら、よく聞いた話よ」
「そして、財部さんからこの大会のチケットの話を頂いたので」
「ここに来たと言うわけかい」
「はい。ところで、病気療養について、エリューシャが療養していることになっているのですか? それだと、彼女がここにいて人目に触れると問題が起こりませんか?」
「ちょっと、待ちな。調べてみる。……確かに、アメリカの協会が出しているプレスリリースには、コチェルキナさんが今シーズンの活動を10月で終了する理由を、彼女の家族の病気としている。だけどさ、日本語のフィギュアスケートのファンサイトでは、いくつかが誤って、コチェルキナさん自身が病気としているね」
私の疑問に、財部さんは自身のスマホを取り出して、調べてくれる。
「まあ、だけど、あんたの心配は
と、ここまでは、財部さんの目は優しいものだったが、少し厳しいものに変わる。
「それで、彼女が日本語を話せる理由は?」
「そこは聞いていないので、エリューシャから直接聞かなければなりません」
「そう。まあいいわ、その件は」
財部さんは目をクワッと見開いて、私を睨みつけてきて、
「それよりも! 彼女、ロシア系じゃないか。しかも、エリューシャって愛称は家族の間でしか使わないのに、あんた、何をやったの!?」
「何をやった?」と聞かれても、それはこっちが聞きたい。とりわけ、エリューシャの場合、皆目見当がつかない。
しかし、こんな私の心を見透かして、ではなく、悪い方向に勘違いした様子で、財部さんの私を見る眼は「このスケコマシ!」と言わんばかりのものに変わる。眼だけでなく、口も、
「船山華鈴、早田光花、真野蓉子、倉野知永。そして、さらに、コチェルキナさんまで。本当に、ねえ」
正直、その眼も言葉も甘んじて受け入れざるを得ない状況に、現在進行形で進行中であるのは、
――大変不本意である。
けれど、誰も、私の本意を汲み取ってはくれない。察しが良い華鈴は気付いているだろうが、彼女は歓迎派だから、当然何もしてくれない。それはさておいて。
「まあいいわ。あんたがどれだけ手を広げようとも、トラブルさえ表沙汰にしなければ、こっちが口を挟むつもりはないよ。馬に蹴られる趣味はないからね」
と、ここで、財部さんは一回言葉を切って、
「それよりも、コチェルキナさんはいつまで東京に居る? サインをねだっても大丈夫かい?」
すでに色紙が取り出されているのを見ても、
「サインについては、彼女に直接聞いてください。それと……」
私は、気にせず、本題に入る。
「は? 日本でフィギュアスケーターとして活動するにはどうしたらいいか、だって?」
に戻る。財部さんの反応を見て、リーナさんの日本での長期治療のこととエリューシャのフィギュアスケーターとしての活動の関係を説明する。
私の説明が終わった後、財部さんは少し考えこんでから口を開いた。
「本当に大雑把に言えば、用意するものが3つ。最低でも年間2000万程度の金、コーチを始めとする指導スタッフ、練習できるスケートリンク。そのあたりかね。あと、日本、アメリカ両国のスケート協会への根回しも出来ればしておいた方がいいかもね」
「それだと、ネックになるのはスタッフとスケートリンクですね」
「おやおや、他は問題ないのかい。金は持ってんだね」
ニヤニヤした顔で財部さんが見てくるが、気にしない。
「私ではなく、エリューシャの祖母のリーナさんですよ。まあ、足りない分があれば手助けしますが」
として煙に巻くが、実際は私が出すことになるだろう。見て見ぬふりをするのは後味が悪い。
リーナさんの日本での治療は、保険が使えないと聞いているから、全額自己負担になる。となると、エリューシャのスケーターとしての活動費は治療費に回り、経済的余裕はほとんどないだろう。
「協会の方はどうだい」
「日本の協会で事務長を務められている三輪さんに祖母から引き合わせてもらっていますから、お願いしに行こうと思います」
「また、あの子かい。だけど、事務方トップの彼なら、ある程度アメリカの方にも口が利けるだろうから、いけるだろうね。あくまで練習拠点を変えるだけで、国籍を変更させて、引っこ抜こうと言う話じゃないからね」
ここまで言うと財部さんは、エリューシャの方に一瞬視線をやってから、声を潜めた。
「コチェルキナさんの前で言うのもあれだが、アメリカの協会から見れば、彼女は3番手、4番手クラスだからね。トップを連れてくるなら、どうのこうの言い出す
そう言って、肩をすくめた。
「なら、残るのが、スタッフとスケートリンクです」
「スケートリンクなら、三輪さんに紹介してもらうことができるんじゃないかい」
「聞かないと分からないですね」
「事務方トップなんだから、その位できるだろうさ。それとコーチなら、アタシが紹介できる子がいるよ。オリンピックで2大会連続の銅メダリストの橋場裕子が、指導者としてのキャリアを始めようとしているんだよ。その子は、ドリームアースのスポーツ部門でマネジメント契約を交わしているんだけどさ、指導できる場所を探している所なんだよ」
橋場裕子。私が小学生、中学生の頃に活躍していた選手だ。冬のオリンピックで2つ目のメダルを取った後、怪我で引退していた。フィギュアスケートには普段関心は無かったが、オリンピックメダリストの彼女なら覚えている。
そのことを思い出しながら、言葉を紡ぐ。
「エリューシャを受け入れれば、上手くすれば、場所も確保できる、と」
「もちろん、彼女はアシスタントとしてこれまでコーチの経験を地道に積んできたけど、独り立ちした指導者としては全くの新人だから、その点は経験あるコーチと比べると見劣りするだろうね。そもそも、コチェルキナさんクラス、つまり世界大会に出られる子を指導するなんて、今の彼女の頭には欠片も無いだろうさ。これから先、目が出るであろう金の卵を相手にするつもりだからね」
「だけど、一番は二人の相性、フィーリングではないでしょうか」
「それはそうだろ。だけど、フィギュアの世界でコーチを変えるのは珍しいことではないのさ。まあ、子供の間は親や周囲の考えが強く反映されるけどさ、大人になれば自分で選ばなきゃ。トップクラスならなおさらさ。選手として、今の自分に足りないものを補うためには何をするべきか、スケーティングの技術なのか、ジャンプなのか、表現力なのか。それをかなえてくれるのは誰なのか、自分で考えなくちゃね」
「なら、何人か候補を用意する必要がありますね」
私がそう言うと、財部さんはニンマリ笑った。
「おやおや過保護だねえ。そうやって、他の子たちも落としていったんかい?」
――その言葉は非常に不本意だ。
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