47 エレオノーラ・アレクサンドロヴナ? エリカ? エリューシャ?

 リーナさんの治療はギリギリのところで間に合ったらしい。


 祖母の友人で、リーナさんの日本での主治医となった先生曰く、


「あと2か月、いや1か月遅かったら、もしかすると治療が間に合わなかったかもしれません。……3か月? ……手の施しようがない状態にまで至っている可能性が高いでしょう」


などと言われたらしい。その場にいなかったため、又聞きである。


 そして、最短4か月の通院治療が決まった。

 そこから先は、アメリカでのリーナさんのホームドクターと相談して、向こうで治療を継続できる病院を探すことになる。

 見つけることが出来たら、4か月の日本での治療後帰国できる。帰国できても、数年は治療が続くらしい。

 見つけられなければ、日本滞在が延長される。


 日本滞在中、二人は私の実家に滞在することになった。つまり、検査入院を終えたリーナさんも、エリューシャがいた私の実家に転がり込んだ、ということ。


 最初は二人暮らしをするつもりだったが、


「一緒に住みましょう」


と祖母が言って押し切った。母も諸手を上げて賛成。


「そうよ。見ず知らずの異国の地で暮らすのは大変よ。それが、ただ暮らすだけな

らまだしも、病院に通いながら身体を治す必要があるとなると、もっと大変なんだから。そう! ホームステイと考えたらいいわ」


と言って。


 代わりに、父が押し出されて、勤め先の近くのマンションの一室を借りて、一人暮らしを始めた。


「いやいや、一人暮らしは気楽さ。歩いて出社できるし、晩酌していても誰かに取られることも無い」


 そんな感じで晴れやかな表情で話していた。

 そういえば、前回も「一人暮らしは気楽でいいな」と東京で一人暮らしをしていた私に愚痴をこぼしていた。その時は、会社勤めで家のことになかなか手が回らず、料理家事諸々をしてくれていた母の有難さの方が上回っていたから、「ふーん」と聞き流した。

 単身赴任が長かった父は一人暮らしが体に染みついてしまったのだろうか。

 それはともかく。


 今、エリューシャは東京に出て来ている。


 きっかけは、財部さんからの一本の電話。


『あんた、フィギュアスケートに興味があるかい? 今度、東京で国際大会が開かれるんだけど、そのチケットが余っているんだ。興味があるなら譲るけど、どうだい?』


 チケットが余っている理由を聞くと、


『いやね。あたしは昔からフィギュアスケートのファンでさ。ちょっとした伝手が向こうにあるんで、比較的大会のチケットを入手しやすいのさ。なんで、時々、余った分を知り合いに配っているのよ。もちろん、あたしの知り合いの中で手に入れていないのがいたら、そっちに優先的に回しているんだけどね、今回は入手出来ていたから、あんたに声を掛けてみたのさ。どうだい、あの子を呼んで一緒に見てみるのは。婆孝行になるよ』


 長い前振りを聞かされて、少し呆れてしまった。つまり、私の祖母にチケットを回したかった、ということ。

 なのに、直接、祖母に聞くことなく、遠回りの私経由で伺いを立ててきたのだ。


「分かりました。ちょっと、祖母に聞いてみます」


『いやいや。別にあの子が来れなくてもいいんだけどさ』


などと言っているが、声は「会いたくてたまらない」と伝えてきている。


 ――ツンデレか!


 と内心突っ込みを入れていた。


 ♪~。


 隣にいた光花のスマホから着信音が鳴る。

 実は、私のスマホをスピーカーモードにしていたために、財部さんとの会話を全て彼女は聞いていたのだ。そして、光花が自身のスマホの画面を私の方に向ける。

 祖母からのメッセージが記されていた。


「祖母から返事がきました。残念ですが、その日は別の予定が既に入っているそうです」


『……そうかい』


 電話越しに聞こえる声が一気に意気消沈したものに変わる。

 そこには触れずに、祖母からのもうひとつの伝言を伝える。


「それともうひとつ。今晩、祖母が財部さんに電話を差し上げたいとも言っているのですが、時間を確認させてもらってもいいですか」


 すると、向こう側の空気が急浮上するのが感じられた。


『そうかい! そうかい! 今晩だと夜の8時以降ならいつでもいい、と伝えておくれ。その頃には、自宅に帰って、手が空いているだろうから』


 8時までには何があっても帰り着いてみせる、時間を作る、と意訳してもいいだろうか。


 それはさておいて、祖母と財部さんがその晩何を話したかは分からないが、後日、小沼さんを経由して、国際大会のチケットが送られてきた。


 1枚多く入っていたチケットに首を傾げていたら、そのタイミングで母から、


母 : エリューシャちゃんがフィギュアの大会を見に行くから

    康太、エスコートしてあげなさい


というメッセージが届いた。


 頬が引きつるのを感じた。真野さんの話にすら、まだ結論を出していないのに。


 ――どうしよう? どうしたらいい? どないしよ?


 こんな感じで、頭の中で言葉が勝手にリフレインする。

 当然、答えは出そうにない。


 だから、放置することにした。問題は先送り。


 そして、当日。

 新幹線で来るエリューシャを迎えに、東京駅の新幹線ホームまで迎えに行った。


 この時の私の同行者は華鈴。光花は仕事で不在。


「ああ! もう! 私も行きたいのに!」


 もうすぐ始まる舞台の稽古が大詰めを迎えているのに加えて、年明けから始まるテレビドラマの撮影が始まっていて、どうしてもスケジュールがあかなかった。


「ようこそ、東京へ」


 スーツケースを重そうに転がしながら新幹線から降りてきたエリューシャを見つけて、私はそう彼女に声を掛けた。私の左手には華鈴の右手が絡んでいた。


 エリューシャは私に目を止めると喜色を浮かべるが、すぐに華鈴の存在に気付いた。

 視線が私の左手に行き、そして、華鈴の左手にも向かった。

 その表情がキュッと引き締まった。


「私のフィアンセ、船山華鈴を紹介するよ。それと、華鈴、彼女がエレオノーラ・アレクサンドロヴナ・コチェルキナさん」


「初めまして、華鈴と呼んで」


 そう言うと、華鈴は私の左手を放し、一歩前に進んで、右手を前に差し出しながら言った。華鈴の表情が私からは見えない。


「エレオノーラ・アレクサンドロヴナさんと呼んだらいい? あるいは、エリカ? それともエリューシャと私も呼んでもいいかしら?」


 後で知ったのだが、ロシア系の人は名前を呼ぶ際の呼び方で親しさが分かる。

 名前に名と姓の間の父称を付けて呼ぶのが一番改まった呼び方で、次いで、通称だと友人同士、さらに愛称だと家族や恋人の間で使う。

 リーナさんは通称になり、エリューシャは愛称になる。


 華鈴はこの順番でエリューシャに呼び名を確認した。つまり、「あなたエリューシャ華鈴とどんな関係を築きたいのか」と言外に問いかけたのだ。


 その答えは、


「エリューシャと呼ンでくだサい」


 一瞬、視線を外した後、力強く華鈴の目を見据えながら、言い切った。


「ふふ。そんなに構えなくてもいいわよ。少し話したいことがあるんだけど、いいかしら」


「ハい」


「じゃあ、場所を移動しましょう」


 華鈴はそう言って、一歩足を踏み出したのだが、すぐに止まって、


「あ、ここは人が多いから、はぐれないように、康太に手をつないでもらって、エスコートしてもらうといいわよ」


 悪戯っ子のように言う。


 私は困惑してしまったが、エリューシャの方を見ると、彼女はキラキラと顔を輝かせて、こちらを見ている。


 ――これを見て、NOと言ったら、私の方が悪者だ。


 と思ってしまったほどの、キラキラさ。犬好きなら、彼女の後ろにブンブン振られている尻尾を幻視できてしまうかも。


 ――なぜ、彼女はこんなに好意を私に向けられるのだろう?


 そんな考えはとりあえず頭の奥に押し込めて、エリューシャに向けて右手を差し出した。


「じゃあ、行こうか」


「ハい!」


 彼女のキラキラはさらに激しくなった。


 と、それから思いついた言葉をそのまま口に出したら、後から考えると、少し流れを変えることができた。それがどんな効果を及ぼしたか、はさっぱり分からないが。


「あ、その前に、荷物を持つよ」


 私の言葉にエリューシャは少し考えた後、


「いイえ。自分デ持ちます。そノ代わりに、左手は華鈴サんのために取っテおいてください」


 その反応に肩をすくめたくなった。見た目からして、明らかにキャパをオーバーしていそうな重さのスーツケースであっても言い張る、その頑固さに。


 右手をさらに伸ばして、彼女のスーツケースを少しだけ持ち上げる。


 見た目以上の荷重がズシリと腕にかかる。


「なあ、この重さ、何が中に入っているの?」


「スケート靴とおバさまに託サれたお米と野菜でス」


 思わず天を仰ぎたくなった。家に帰ってから中身を確認すると、5kgのお米と大きな白菜、カボチャが1個ずつ、さらにエトセトラ、ケースの中に入っていた。

 あとで、母に電話をかけて、


「程度というものがあるだろ」


とクレームを付けたら、


『だって、折角、ご近所さんからもらったんだし。エリューシャちゃんも「大丈夫」と言ったんだもの』


 閑話休題。


「このスーツケースは重すぎるから、私が持つ。だから、華鈴、エリューシャのエスコートは君がしてくれ」


「いいよー」


 私たちの様子を見ていた華鈴は、そう言うとニコニコな表情を浮かべながら、エリューシャに近づき、


「楽しみを邪魔してごめんね。薄情な康太の代わりのエスコート役を務めさせてね」


と言って、腕を絡ませた。エリューシャは残念そうな顔から一変、華鈴の急な接近によるものか、目を白黒させている。


 そして、新幹線ホームから改札につながるエレベーターで降りるために、カゴが上がってくるのを待っていると、


「それで、エリューシャはこれからどうするの?」


「あ、カリン……サマに」


「ちょっと止めてよ。様をつけるなんて。華鈴だけでいいよ」


 華鈴の問いかけへのエリューシャの反応に、華鈴が慌てて止めに入る。


「むしろ、なんで、様を付けようと思ったの?」


「康太ノ正妻……さンだから」


「ああ、そういう。さっき康太はフィアンセって言ってくれたけど、その認識は違うよ。私は正妻ではなくて、『2番さん』。エリューシャの言い方だと、一人目の『妾』」


「えッ?」


 エリューシャが驚いた顔をしている。母か祖母から聞いていなかったのか。


「あと、今日はお仕事でいないけれど、『3番さん』の光花ちゃんがいて、この間会っている蓉子さんが、今、『4番さん』に立候補中。それと『5番さん』に知永さんが立候補しようか考え中。だから、エリューシャが、今、入れるポジションは、『6番さん』か、『1番さん』つまり『正妻さん』の2つ。どっちにする?」


「えっ? エっ?」


 華鈴の言葉に、エリューシャは完全に混乱しているように見える。


「うん。今すぐ、答えを出す必要はないから。考えておいてね」


「あ、……ハい」


「だけど、誤解しないでね。『何番さん』と言って、順位付けしているわけではないの。ただ、康太を愛していて、私たちが康太のそばにいるのをOKする。それだけで十分だから」


 エレベーターのカゴが来たから、3人とも乗り込む。幸い、一緒に乗り合わせる人はいない。


「それで、さっきの話に戻るけど。これからどうするの? という話。あ、これも誤解しないでほしいんだけど、エリューシャが東京に来て、フィギュアスケートの大会を見る以外に、何をしたいか、を聞きたいの」


 それは私も確認したいことだった。「エリューシャが来る」以外、何も聞いていなかった。


 東京観光をしたいだったら、あちこち連れて行く必要がある。

 どこに行きたいだろうか。海外の人が行きたい場所として挙げそうなのは、渋谷のスクランブル交差点? 浅草? 豊洲市場? 皇居?


 けれど、エリューシャの返事はシンプルなものだった。


「スケートリンクで滑りたイです」

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