第3話 二つのクッション
明音さんがいない教室で、窓際最後列の指定席へ向かう。
妙な心持ちで指定席を目の前にして、ふと、隣席に座る女子生徒が気にかかる。
他人の視線など気にもせず、俺の前席に座る男子生徒をじっと見つめているのだ。
人によっては幼稚園から続く関係もあるのだろう。俺の隣人もまた、そういったふうなのか。
「どうかしたか?」
何気なく、まるでそうなることが当たり前みたいに、当の男子生徒から話しかけられる。
たしかに、ずっと横に立たれていれば疑問に思うのも当然だ。
しかし用意していた言葉もなく、俺は口も開けられずに詰まってしまう。
そんな俺を見つめていると、何やら掌に握り拳を乗せた。そうやって納得の様子を見せてから、はにかむのだ。
「そっか、悪い!」
仕切り直しとばかりに、明るく笑う。
そしてこちらに身体を向け、その大きな手を差し出してきた。
「初めまして、
なんとも、笑顔が眩しい男だった。胸の曇りを晴らすような、そんな笑顔を見せられる。
手を握り返すと、予想に反しない硬い触れ心地が返ってきた。
「山宮秀です、よろしく」
「はは。緊張するな、こういうの」
指定の席に着いて、最上くんの言葉に首を傾げる。
「最上くん、緊張してるの?」
「メチャクチャ緊張した。こういうときって、意外と自分の名前って言い慣れてねえんだってわかるだろ? 噛まないかとか、変じゃないかとか考えちゃってさ」
ぐっと距離が近づくような感覚がした。
「改まって自己紹介するの、すげぇ難しいなっ」
最上くんは、人間味に溢れた人なのかもしれない。少し、口角が上がった気がする。
「この学校には、いつから?」
「俺は初等部から、小学校受験だよ。親に言われるがままだったけど、今じゃ良かったって思ってる」
「凄いね、そんなに早くから」
「そうか? ただ早かっただけだろ。結局、ずっと頑張ってる奴が凄いんだよ。山宮だって、頑張ってこの学校に来たんだろ?」
「……そうだね」
こういうとき、決まって浮かぶのは祖母ちゃんや、祖父ちゃんの顔だった。
けど、今は二人だけじゃないことに気づく。
「ところで」「なあ」
お互いに訊きたいことがあったようで、声が重なる。
少し見つめ合って、小さく笑い合ってから俺が切り出す。
「はは……何? 最上くん」
「いや、山宮からでいいよ。そっちの方がちょっと早かった気がする」
「それじゃ」
横を気にする素振りを見せて手招くと、耳を寄せてくれた。
「やっぱり、隣の子も仲いいの?」
小さな声に応えて確かめると、最上くんは首を横に振ってみせる。だが、すぐに俺の耳に口を近づけた。
「特別仲がいいわけじゃないけど、知ってはいる。俺たちの代じゃ有名だからな」
「そうなんだ」
「気になるなら自分でいけよ?」
「いや、そういうことじゃないから」
「そうか? じゃあ今度は俺の番な」
「うん」
「山宮って、佐伯と仲いいの?」
「……やっぱり、気になる?」
「そりゃそうだろ、この学校にずっといて気にならない奴はいないと思うぞ」
「そんなに、か……」
「私も気になる」
「「え?」」
いや、最上くんも驚くのか。
「藤枝も、こういう話気になるんだな……」
どうやら、俺の右隣に座る女子生徒は「藤枝」というらしい。切れ長の目や落ち着きのある雰囲気から、理知的な印象を受ける。
「……」
「っ――それで! どうなんだよ、山宮」
藤枝さんの可愛らしい反応に困ってか、最上くんは俺を利用した。
けど、二人の目は興味で輝いている。何も話さないままでは、解放してくれなさそうだ。
「佐伯さんは、俺がここに通うのを後押ししてくれた人、かな」
「それって、仲がいいってこと?」
「どうなんだろうね……どちらかというと、一線引かれてるような気がする」
「あれでか?」
「あれでって?」
「ほら、佐伯さんがネクタイ整えてたでしょ」
「あぁ、まあ……なんていうか。今どんな関係なのかって、俺が一番知りたい、みたいな」
「「……」」
「私、なんとなくわかった気がする」
「俺もわかった」
「どういうこと?」
「自分で考えた方がいいと思う」「そのうちわかる」
これだけはわかった。
この二人は仲良しだ。
「ねえ、訊いてもいい?」
すると、藤枝さんが最上くんを見て切り出した。
切れ長の目が鋭い印象を与えるが、最上くんの目を真っ直ぐ見ることができないところなんかは、とても可愛らしい。
「おお、どうした」
「最上くんは、何で佐伯さんのことを聞いたの?」
思わず唾を飲んだのは、最上君ではなく、藤枝さんでもなく俺だ。
「あの佐伯と仲良しな男子とか、俺じゃなくても気になるだろ。藤枝もそうだろ?」
「最上くんは、佐伯さんのこと……」
「好きとかそういう話ではないぜ。初恋もまだだから、俺」
意外だと思いながら、横目に藤枝さんの様子を確かめる。その手に持っていた本で口元を隠していた。
「ふーん」
「何だよ」
藤枝さんのわかりやすい反応、最上くんの困った返し。それらを見つめて、胸の内が温まる感覚がする。
どうやら俺は、隣人に恵まれたのかもしれない。
「繋がりを、大事に……」
祖父ちゃんの言葉が蘇る。
今日は入学式を主に午前までの内容で、その短さが、とても惜しく思えた。
***
入学式が終わった。
その後は担任の
自己紹介では、藤枝さんの名前が雅だとわかった。
学級役員は、最上くんが級長に、藤枝さんが副級長になった。
そんな内容で、一日は、あっと言う間もなく終わったのだ。
そして今、俺は走る車の中で外の景色を眺めていた。
「秀さん」
「はい」
隣に座る明音さんに呼ばれて振り返る。
「なんだか嬉しそうですね」
「そう、見えますか?」
「はい」
「……佐伯さんは、どうだったんですか?」
「私は、その……――その、すみません。やっぱりっ、恥ずかしくて言えません」
「でも、ほら。代表挨拶とかとっても良かったじゃないですか」
入学式のこと。明音さんは新入生代表として、皆の前で立派な挨拶をした。
皆が明音さんを見ていた。俺も、見ていた。
「いえ、ちょっと拗ねてしまって……」
「拗ね……?」
俺が首を傾げると、明音さんはみるみるうちに顔を赤くしていった。
「何でもありませんっ、秀さんが意地悪です!」
「何で――ぅわ!?」
クッションを投げられて、とても嫌がられているのを知る。
けれどもう一つのクッションを抱きしめて隠れ、困る俺を睨む様子は、なんとも新鮮だった。
不満を溜めさせていたのだと、わかる。
清正学校の受験が決まってから、明音さんはいっそう支えてくれた。
俺は明音さんの前では強がって、泣くこともせず、勉強に集中できた。
だがその反面、明音さんはきっと、いろいろな気持ちを押し殺していたのだと思う。俺もわかっていて、その上で目を逸らして、甘えていた。
約一ヶ月。精神的な距離も、物理的な距離さえも近づいて。
それでも、俺は言い出せない。
俺よりも堪えている明音さんが、例えお互い寄り添っても、一定の線を越えまいとするから。
きっとそうしないと、この関係が崩れるのだと。
そう、感じるから。
「すみません。でも、佐伯さん」
だからこそ、言えることは言わなければいけないと思う。
「あの時に俺の背中を押してくれて、ありがとう」
「……意地悪ですよ、秀さん」
明音さんは、すっかりクッションに隠れてしまった。
それから少しして、車が停止する。
「到着です」
「ありがとうございます」
ドアが開かれ、家に帰ってきたのを認める。
何度見ても立派な門を前に思い出すのは、最上くんと藤枝さんの顔だった。
「言えない、よな……」
明音さんとの関係を尋ねられて、ちゃんと答えた。嘘はついていない。けど、隠していることはある。
「どうしたんですか?」
「何でもないです」
明音さんと一緒に門を通る。
その門に付いた表札には、「佐伯」の文字が刻まれている。
まさか明音さんと同じ屋根の下、一緒に暮らしているとは言えないだろう。
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