第2話 強情な茜色
雲もなく、晴れ渡った日。
それは、卒業式の翌日、俺と祖父ちゃんの誕生日。
俺は毎年、祖父ちゃんに誕生祝の贈り物をしていた。
その日も、例外ではなかった。
祖父ちゃんに出かけると言って家を出て、都心部に向かい、贈り物を選んでいった。
お金の使い方を覚えろと言われ、毎月渡される三万円のお小遣い。しかし、一年間手をつけずに溜める。それを唯一、祖父ちゃんのために使うのだ。残ったお金は、また来年のために置いておく。
何かあったときに、きっと役に立つ。祖父ちゃんのためになれば、嬉しいと思っていた。
そして、あまりに高いものを選ぶと怒られてしまうから、抑えめに、それでも贅沢に選んで、俺はいよいよ帰宅しようとしていた。
信号機が、赤から青になる。
駅近くの大きな道。車両の通りも、もちろん人の通りも多い。
そこに、異変があった。まだ離れたところ、揺れる大きな影。
横断歩道を渡ろうとした時、正体に気づいた。
トラックだ。それも、大型。信号は赤で速度を下げるべきなのに、明らかに不安定な様子で走行している。あれではすぐにでも事故が起きるとわかった。
トラックから前の車まで、まだ距離が、猶予がある。
「トラックが突っ込む、事故になるぞ!! 渡らないで、離れて!!」
横断歩道を渡らず、すぐに声を張り上げた。血管がはちきれそうだ。
「キャァァァ――!!」
俺の声を聞いた人たちが気づいて逃げ出し、その騒ぎで、更に他の人たちも離れていく。
トラックが走っている道路側、向かいの歩道から渡ろうとしていた人たちも、渡らずに引き返して離れていった。
どうやら、俺の声は届いたらしい。
「もっと離れて!!」
また一押し。これで、大丈夫だろう。そう思った時、立ち止まったまま、一人取り残された女の子を見つけた。
トラックを見つめて、思考が止まっているようだった。このままでは、事故に巻き込まれる。
周りに人がいない。彼女を見る人たちも、恐怖で動けない。
その中で、俺は気づいた。だけど今から走って、間に合うのか。俺も、一緒になって。俺も、怖くて動けない。
「あああああああぁぁぁぁぁぁぁ――!!」
違う。俺が死んでも、死なせない! 怖いのは、本当に怖いのは、俺が何もしないせいで、目の前で、最悪の結果になることだ!
祖父ちゃんなら、きっとこうする。
叫んで、鼓舞して、走り出す。
間に合え、間に合え、間に合え!
俺が女の子を抱きかかえた時には、横から衝突音が聞こえた。それを見ている暇はない。
もっと、もっと離れないといけない。それなのに、人一人抱えて走ることになって、動きが遅くなったのを感じた。
そして俺は、よりにもよってつまずいたのだ。せめて、あと少し。そんなところで、俺は失敗した。
――諦めるな、お前ならできる。
温かく、強く、何かに背中を押されたような感覚。馴染み深い感覚が、俺に選択を迫る。
諦めるのか、踏ん張るのか。
もっと、あと少し、そうすれば、意地でも守るさ。
踏ん張って、少々のタイムロス。それを埋めるように、歯を食いしばる。暇な足を前に出して、また走り出す。
悲惨な音を背後に、俺は駆け抜けた。
そんなことがあった。歩行者の皆も、女の子も無事だった。俺は、それがとても嬉しかったはずだ。
それでも今の今まで、忘れていた。できごとを思い出しても、あまり、感情は思い出せない。
なぜならその後すぐに、祖父ちゃんの訃報を聞かされたから。
俺は誰かを救ったその日、最も大事な人を亡くした。
***
「秀さん、すみません!」
「どうして謝るんですか?」
テーブルを挟んで向かい合っていると、明音さんが頭を下げた。
「婚姻のお話、実は、私から父に提案したことなんです」
「……?」
「覚えていないようですが……私、あなたに命を救われたんです」
「俺に?」
「はい、秀さんに」
身に覚えがないことと、明音さんの言葉から偽りのなさを感じることとで、俺の思考はちぐはぐだった。
「秀さんのお祖父様に私の父を助けていただいた日、私は秀さんに助けられたのです」
俺の顔を見て、明音さんがとある記事を見せる。
「玉突き事故……ぁ――」
間一髪のところで、誰かに背中を押されて助けられたような感覚が忘れられない。そんな記憶の中に、たしかに、一人の女の子がいる。
「残念ながら乗車していた方々は重傷に、中には亡くなられた方も……しかし、秀さんが一早くトラックに気づき対応したおかげで、歩行者は早く動けて大事にはなりませんでした」
俺はその子を助けたいと思って、走ったのだ。
けど、俺はその日、大事な人を亡くした。
「あの時は、お礼を言えずすみませんでした」
明音さんは姿勢を正して、また頭を下げた。
「命を救っていただいて、ありがとうございます」
「そんな、俺は……」
困る俺の顔を見て、明音さんが柔らかく笑みを作る。
「秀さん、人を好きになったことはありますか?」
「家族のことは、大好きですよ」
「なら、この人に自分の全てをあげたい、そう思ったことは?」
「……ない、かもしれないです」
「私はあります」
その笑みは、少し寂しそうで、どこか強がったもののように感じた。
「あの日、ご葬儀で」
明音さんは立ち上がって、俺の横に座った。
小さな手で俺の手を握って、真っ直ぐに見つめてくる。俺は逃げられなかった。
「情けない姿を見せまいと涙を堪えるあなたを見て、私は思いました」
だから、と力を込める。温かさが、強くなる。
「私の全てであなたを一度でも笑顔にできたのなら、とても幸せだな、と」
「……それで、あの話を?」
「ええ、父には無理を言いました。私じゃないと嫌だったから」
困った笑みに、胸が驚いた。
「秀さんは父の恩返しだと思っているようですけど、これはただ、私のワガママなんです。そもそも父は、別の方法で恩返しをしようとしていましたし、今もそのつもりのようですから」
「別の方法……?」
「ええ。父は
清正学校といえば、全国的な名門学校だ。幼稚園から大学院まで一貫になっていて、その卒業生は著名人ばかり。
そんな場所で理事長をしている人だったなんて。驚きを隠せない。
「学校を卒業したその後まで、形はどうなるにせよ、不自由はさせないと言っていましたよ」
それより。そう言って、ぐっと膝が近づいた。
「えっと……」
「私、嫌なんです。とても醜いことを言っているのはわかっています。けど、嫌なんです」
「その、何が嫌なんですか?」
「あなたの横に、私がいないこと。あなたの支えに、私がなれないこと。たくさんあります」
大きな気持ちが正面から飛んでくる。それでも、目を逸らすことはできなかった。
「でも、そんな気持ちの押しつけであなたを困らせてしまっているのですから、本末転倒ですね」
俺の手を握ってくれる小さな手が、だんだんと遠ざかっている気がする。
この胸の中で、蠢くものがあった。それが、向き合えと言うのだ。
「佐伯さん――」
「秀さん」
この人は、やっぱり強情だ。
「婚姻の話、大人しく引き下げます。代わりに、父とお話をしていただけませんか。そして、清正学校に通ってください」
この時ばかりは俺にだって、強い眼差しの裏に隠れた気持ちに気づけたのに。
***
「秀様、到着いたしました」
「ありがとうございます」
車のドアが開かれて、外に出る。
あれから、佐伯さんと話をした。
俺の考えを読み切っていた佐伯さんは、清正学校の入学試験を受けるよう提案してきた。
どうやら新一年生で、外部の枠が空いていたようだ。
そこで、佐伯さんは俺に提案した。
筆記試験と面接試験を受け、学校の定めた合格基準を満たせば受け入れる。仮に不合格であれば、仕事を紹介する。
そして、俺は受験を承諾した。仕事の紹介については流した。
全国的な名門校である清正学校の試験をそう易々と通れるはずもないし、これで不合格なら佐伯さんも諦めるだろうと、そう考えてのことだ。
加えて、明音さんのこともあった。後ろめたさのようなものが、胸の中にあったのかもしれない。
「そう緊張しなくても平気ですよ」
「緊張なんて、してないです……」
「ふふ、そうですか」
ネクタイを整えられる。崩れていたみたいだ。
「……ありがとうございます」
「じゃあ、行きましょうか」
明音さんの笑顔に複雑になりながら、清く正しい学校の門を通る。
そう、祖父ちゃんのためにやってきた努力が、こんなところで結果に出たのだ。
まさに祖父ちゃんが示した、遺した道。
俺は、その道を歩まねばならない。
私立清正学校高等部。そこが、これから俺が学ぶ場所の名前だった。
「クラス、同じだといいですね」
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