絶対に幸せにするラブコメ
稲月 見
第1話 空っぽのシンク
『もしも、お前と一緒にいることを選んでくれる人がいたら、そのときは、絶対に幸せにしなさい』
祖父ちゃんの言葉が、俺の心を駆け巡っていた。
今日は、とても雨が強い日だ。
俺は独りの家の中、祖父ちゃんの遺影をその手に、ただ、泣いていた。
俺がまだ物心つく前、両親が亡くなったそうだ。
まだ小さく、しかし身寄りのない俺を引き取ったのは、祖父ちゃんと祖母ちゃんだった。
二人は、時に厳しく、だがやっぱり優しく、俺を立派に育ててくれていた。
小学校を卒業するまで、祖父ちゃんと祖母ちゃんと、三人で暮らしていた。
だけど、中学校に入学するのを待たずに、祖母ちゃんは天国へ旅立って行った。事故でも、病気でもなく、穏やかな旅立ちだったのを覚えている。
祖父ちゃんは、俺の前では泣かなかった。
泣きわめく俺の背中をさすって、心を支えてくれた。
そんな祖父ちゃんも、俺が寝ると、こっそり泣いていた。それは、偶然見てしまったからわかったことだ。
祖父ちゃんは、同じことを言って泣いていた。
『必ず、秀を立派に育てる!』
強い声を震わせていた。それは、天国の祖母ちゃんに届いているとわかってしまうくらいに、実直なものだった。
俺もたまらず泣いた。祖父ちゃんにばれないように、こっそり泣いた。
それから、祖父ちゃんと二人で暮らして、中学校を卒業した。
卒業後、俺は働く気でいたのに、祖父ちゃんはそれを許してくれなかった。
『しっかりと勉強をして、好きなことをできるようになりなさい』
祖父ちゃんに背中を押されて、必死に勉強した。おかげで、公立の難関校に合格することができた。
だけど、俺は四月になっても、高校に入学しない。
もう、意味はないから。
働かないと、やっていけないから。
なぜなら卒業式の翌日、俺と祖父ちゃんの誕生日、祖父ちゃんが、交通事故で亡くなったのだ。
勇敢に、見ず知らずの人を救ったらしい。
救ったらしい。
立派だ。流石、俺の祖父ちゃんだ。凄い。誇らしくて、誇らしくて。
でも、嫌だ。
俺は、まだ祖父ちゃんに、何も返していないのに。
祖母ちゃんにも、返せていないのに。その分も、祖父ちゃんに、って、思っていたのに。
嫌だ。違うんだ。違う。
返すとか、そんなこと、どうだっていい。
俺は、祖父ちゃんと一緒にいたかった。まだ、もっと。もっと、ずっと。
「なぁ……じぃちゃんっ……!」
笑う祖父ちゃんの遺影が、とても眩しい。
だから今日も、祖父ちゃんがいなくなって独りになった部屋で、俺はずっと古びた畳を濡らしているのだ。
「秀さん、明音です!」
目元を拭って、身体を起こす。
玄関を覗けば、人影が一つ。
俺はドアを開け、彼女を迎え入れた。
「こんな雨の日に来なくても……」
「いいじゃないですか。濡れていませんよ?」
俺の名前は、
彼女の名前は、
彼女は、祖父ちゃんが命を賭して救った人の、愛娘だ。
そして、祖父ちゃんとの約束で、俺の婚約者になるという、女の子だ。
***
葬式が終わっても、いや終わって参列者がいなくなったからこそ、この時の俺は泣いていた。
「山宮秀くん」
「んっ……ぁぁ、はいっ、すみません!」
まだ、人が残っていたのか。慌てて目元を拭い、鼻を拭って声の方へ向き直る。
そこにいたのは、思わず言葉が喉に詰まってしまう相手だった。
「佐伯さん、どうしたんですか……?」
祖父ちゃんが助けた人こそ、俺の目の前に立つ
「山宮秀くん、我が家に入ってはくれないだろうか」
「え……家に入る? それって、どういう……」
この時、俺は佐伯さんの言っていることがわからなかった。
「私は山宮様、君のお祖父様が亡くなられる際に、君のことを頼まれた」
わかっていたのは、祖父ちゃんが最後の最後で、俺に何かを遺そうとしてくれたこと。
そして、それに甘えることができる選択肢が、俺の中にあるということ。
「いえ! 結構です。人様に迷惑はかけられません。自分は、大丈夫なので。なので、気にしないでください!」
「いいや、命の恩人とした約束だ。違えたくはない」
佐伯さんは、強い眼差しで続けた。
「私には娘がいる。大事な一人娘だ。秀くんには、私の娘と婚約してもらおうと考えている」
この時、痛いくらいに力を入れて握り拳を作っていたことを覚えている。
「ダメですよ! 娘さんの気持ちはどうなるんですかっ……祖父と約束をしたのだとしても、自分は大丈夫なので! 一人でやっていきます、だから、もう、大丈夫なので……! 今日は、参列していただいて、ありがとうございました。祖父も、貴方に会えて嬉しかったと思います。今日は、ありがとうございました。もう、時間も遅いですから。雨も降りそうだとありましたし、お早く帰られた方が、いいと思いますっ」
冷静ではなかった。
だが今であっても、俺は同じように応える。それだけは、決して、間違いではない。
人の弱みに付け込んで、いい思いをするみたいで、嫌だったのだ。
佐伯さんを助けたのは祖父ちゃんで、俺ではない。
俺は、何もしていない。だから、佐伯さんの提案を受け入れることは、できない。
しかし、この時は取り乱す俺に気を配って帰ってくれた佐伯さんだったが、翌日、再び現れた。
今度は、話に出た「娘」と一緒に。話を聞けば、葬式に参列していたようだ。
「秀くん、これが私の娘の明音だ」
「初めまして、佐伯明音と申します」
「山宮秀です」
「秀くん、どうかな。我が娘ながら明音は良い相手だと思うし、君が家族の一員になってくれたら、私はとても嬉しい」
「昨日のお返事の通りです。佐伯さんを助けたのは祖父であって、自分ではありません。なので、そちらが自分のことを気にかける必要はありません」
「君のお祖父様は、最後まで君のことを案じていた。そんな顔色の悪さで、暗い表情でいたら、お祖父様も不安になってしまうと私は思う。だから――」
「お帰りください。自分は、大丈夫です」
「……今日はこれで失礼するよ。せめて、これは受け取ってほしい」
「佐伯さん、ダメですよ、受け取れません!」
「いいんだ。それと、明音は今春休みでね。せめて友人としてでも、付き合ってはくれないだろうか」
困った顔、いや申し訳なさそうな顔をして、佐伯さんは、明音さんとお金を置いて家を去った。
思えばこの日、初めて佐伯さんの顔を見た。
「あの――」
その背中は、実際には俺よりも大きいはずなのに、とても、小さく見えて。
お茶の一つも出さずに、俺は、追い返して。
「あのっ――」
何が、「大丈夫」だろうか。
こんなことでは、心配されて当然だ。
「あのっ!」
「!? はいっ、えっと……」
聞き馴染みのない大きな声に驚いて、俺は僅かに退いた。
「あの……秀さんとお呼びしても、いいですか?」
だけど、どこか緊張した面持ちで一人我が家に残った女の子を見て、情けなくなって。
「どうぞ……」
こっそりと姿勢を正しながら、気まずくて顔は見られないながら、短く返した。
これが、俺と明音さんの出逢いだ。
***
激しい雨音の中で、キッチンの方から料理をする音が聞こえる。
祖父ちゃんが亡くなってから、二週間。
明音さんがこの家に通うようになってから、一週間。
この一週間は、泣く時間も減った。人前では、ましてや彼女の前では、泣くわけにはいかない。
笑う祖父ちゃんの遺影を見つめながら、思う。
俺の心配なんて、しなくてもいいから。
「お待たせしました」
テーブルに昼食が置かれる。俺の分と、明音さんの分が、向かい合うように。
「春野菜たっぷりのクリームパスタです。あ、待ってくださいね! 一緒に食べましょう」
エプロンを片してから向かいに座る。その様子を見ていたせいで、目が合った。
明音さんは微笑んで、手を合わせる。
「それじゃ、いただきましょう」
「……いただきます」
「いただきます」
最初は料理なんてしなくてもいいと断っていたのだが、作られてしまえば食べるしかない。
明音さんには、やや強情なところがあった。
だいたい午前十時頃にやって来て、掃除や洗濯といった家のことをするなり、こうして昼食を作る。
午後六時頃に帰るが、その前には夕食と、次の日の分の朝食を作っておいてくれる。たまに、夕食を一緒に食べてから帰ることもある。
それらを断ろうとしたり、やらなくてもいいなんて言ったりすると、鋭い言葉で返されてしまう。
『それなら、私が手を付けるところがないくらい、家の事をやってください。ごはんも自炊してください』
洗濯も掃除も、全てある程度溜まってからやろうとしているだけで。料理だって、できないわけじゃなくて。
実際に、明音さんが来る前に家事をしたこともある。
だけど結局、俺の「やった」は、彼女にとっての「やった」ではなかった。
『勘違いしないでくださいね。私は、料理を作るのも、掃除や洗濯をするのも、好きだからやっているんです』
「……美味い」
「ありがとうございます」
泣かない日が増えると、この先のことを考えることも増えた。
仕事を、探さないといけない。
いつまでも、祖父ちゃんが遺してくれたお金を食い潰すわけにもいかない。
「ごちそうさま」
食べ終わって、皿を片づける。
「お願いします」
皿を洗うのは許してくれた。
水から、冬の刺々しさが感じられなくなっている。まだ冷たいが、どこか春らしい、丸みのある冷たさだ。
俺が洗った皿を、明音さんが拭いていた。
「秀さん」
「はい……」
「そろそろ、お話しませんか」
洗う皿もなくなって、俺は、空になったシンクを見ることしかできなかった。
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