嘘つきのあめ。

久遠と楼躱が初めて逢ったのは,単なる偶然であった。

久遠と楼躱が二度出逢えたのは,楼躱が祈った必然であった。

三度目の出逢いを,人は運命と呼んだ。


「…………ん」


 夕暮れの張り付く様な暑さに“精神”那狼は目を覚ました。

 仄かに香るは鼻にツンとくる消毒液の匂い。花瓶一つもない殺風景な白い壁は,当然の如く那狼の気を唆らせる材料にはならなかった。

 病棟の看護時が生気の薄い那狼に情をかけ開けてくれた窓からは,皮肉というべきか初夏の生暖かい風がやわらかく吹いてくる。精神によくみられるヒヤシンス色の髪色が靡いた。夏が齎した奇跡は,どうやら日常にいつの間にか移ろったらしい。行き場の無い感情をぶつける様に,那狼は其の白い壁を睨んだ。


「……」


 涼味。

 樟若葉。

 朱夏。

 まさしく其の言葉が似合う様な風貌に身を包んだ少女斑雪は,那狼を気にする事無く殺風景な白い景色に足跡と云う彩りを付け足していった。腕に取り付けられた包帯と点滴が,其れは夢では無いと那狼に訴えていた。

 流石の那狼もこればかりには驚いたのか,紺青色の瞳をしばたかせている。


「…夏は,まだ嫌い?」


 一瞬にして那狼を呑み込んだのは,一年前の想い出であった。朧げな其の輪郭が崩れない様,何度も何度もなぞっては想いを馳せ,何時も記憶の片隅に存在していた想い出だった。夏の夕方,荒れた病室,滴る鮮血,煽る様なタバコの香り。其の全てがどうしようも無く那狼を掻き立てて──そして,飴玉が急速に擦り減る感触も覚えていた。

 数えられるくらいしか無い対話のうち,抜き出たのは斑雪が即答した夏に対する思いである。


『…夏が好きなのか?』

『…夏は嫌いです。夏の紅掛色が好き…それだけです』


 斑雪の内部から拒絶している様にも見えたその言葉は,那狼の忘れられない言の葉のうちの一つだった。だからこそ,突拍子もなく現れた少女を引き留めようと出た言葉だったのだろう。


「…はい。嫌いですよ」


 斑雪は,夕立の後に起きる夏霞を連想させる寂しそうな微笑みを浮かばせた。消え行きそうな存在を放ちながらも,一年前と同様,はっきりと言葉を紡ぐ。


「なんにも変化がないみたいでよかった」


 一方で那狼は,雨曝しの様な儚い雰囲気を醸し出して居た。消えても誰も気付かないし,引き留めようともしない,哀しいなにかを連想させる。痩せこけた頬と色白の肌が,消えゆく彼等に拍車をかけていた。


「…貴方は病人らしい風貌になりましたね」


 それから瞳に心配の色を浮かばせた。

 暖かさの無い冷たい微笑みを落とす。

 何が真実であるのかは敢えて汲み取られない様にして,その意図は斑雪のみにしか分からない。


「死ねば逢えると思ったから」


 なんて自分勝手な願いなのだろうと,那狼はこの時初めて気が付いた。斑雪を彷彿とさせる夏が嫌になって身を投げ出した,なんて到底言えたものでは無い。

 醜い真実を隠す様に,口先だけは斑雪を想う綺麗事ばかりが飛び出てくる。


「…死んで逢える,だなんて。空想でしかありませんよ」


 意識せずとも,斑雪の脳内には患者服で誤魔化された自身の肉体の悍ましさが溢れ出てきて居た。

 重力に身を任せ堕ちてゆく,何度やっても慣れない心臓がヒュッと吹き抜ける感覚。慣れないし,怖いとも感じるのに,もう何度目かも分からない。その度に,肉体がまだ生命を維持し続けようと血を巡らす。


「そんな空想に囚われて死んでみるのもいい気がした。元々俺は生きていても死んでいても変わらないんだから。──いや,其れは精神皆か」


 那狼の肉体が一度死にかけた事を証明づける様に,細い腕から伸びる点滴は絶えず那狼の生命を保持し続けようとしていた。その栄養分を見ているうち,あの時捨てたはずの欲が姿を現す。

 ──“久遠斑雪”と逢いたい。


「夏の…夏の,紅掛色はまだ好き?」 


 斑雪もその視線を辿る様に点滴を見つめた。

 自身に逢う為だけに犯した自己破壊が,その真実が,真っ直ぐと心の臓を突き刺す。


「…はい。あの色は嫌いになれませんから」


 青春を享受するべきときに荒れていたからこそ,宵と黄昏を混濁した様な空色は,斑雪を照らす事無く存在してくれる。だから好きなのだろうと斑雪は感じていた。


「また,したの?其れとも,ずっと?」


 見つめる先は一年前と変わらない斑雪の点滴である。


「…常習犯ですから」


 生命を維持し続ける事に酷く抵抗がある斑雪にとって,食事を摂るという行為は生命を促進する事に変わりない。出されるものが次第に酷く気持ち悪く悍ましいものに思えてきた頃には,点滴だけで無く,目に見える全ての肉体に傷を付けていた。

 その癖に生命は維持をし続け,自身は其れを無意識に受け入れている。


「したんだ?」


 唇に浮かべる挑戦的な瞳は,数え切れない女性を虜にした前世を彷彿とさせる。


「…しましたよ」


 斑雪の繕わない自分は,僅かに拗ねたような空気を病室内に漂わせた。


「…タバコか飴。どっちが欲しい?」


 脈略の不安定な那狼が徐に懐から取り出したのは,ウィストン・キャスター・ホワイトのタバコである。対して逆の右手にはみぞれ玉より一回りか二回りほど大きな飴玉。

 一見すれば何の関連性もない二つだが,一年前,斑雪と那狼,そしてもう一人の男性を引き合わせたきっかけとなるべくするものだ。

 斑雪は瞬時にその共通点を理解した。

 何故なら斑雪は記憶力が良い。


「茜空が藍空に変化する中でのタバコは非常にエモーショナルに思えますが…未成年ですので,飴ですね」


 ──どちらも口が寂しくなった時に口に含むもの。

 ──どちらも過度な摂取は身体に害を及ぼすもの。


 記憶の何処かに共存したもの。


「…死にたがり?」


 窓の下は,地獄の果てまで続きそうなくらいに深い。

 此処から落ちたら確実に死ぬだろうな,と呑気な事を那狼は思考していた。一時の迷いであったはずの願望がまた湧き上がってくる死にたい,死にたい死にたい死にたい死にたい。

 突如として死ねる,と思った自分に俄かな恐怖を覚えた。


「可能性,なきにしもあらず…ですね」


 ずっと立っていたからだろうか,色白な肌を更に蒼くさせ,斑雪はそう呟いた。なんの気なしに那狼の隣に腰掛ける。斑雪の体重を受け止めて,僅かにベットが軋んだ。


「…なんで死にたいの」


 窓から夏の生暖かい風が,やわらかく吹いてくる。呼応するように那狼のヒヤシンス色の髪も靡く。

 紅掛色の空模様をバックに,ヒヤシンス色の髪色はよく映えて,斑雪は少しだけ目を細めた。


「…“久遠斑雪”という人間に需要を感じないから」


 不運というべきか,斑雪の儚げな表情は桜色の髪により遮断された。

 まるで彼女自身が,彼女自身を拒むかのように。


「でも…“偶然”逢えたのは嬉しい…と,俺は思う」


 一年前を思い出す。


 一度目。

 生と死の狭間で生まれたのが久遠斑雪という少女だった。偶然だった。

 二度目。

 擦り減る飴玉のリスクを,タバコが緩和していた。必然だった。

 三度目。


 久遠斑雪は,綺麗だった。3回以上重なる偶然を,人は。人は──。


「運命だと呼ぶ。──覚えてる?」


 斑雪は記憶力が良い。


「──────覚えてますよ」


 望まぬ生を享受していた。

 無意識に受け入れている自分がいた。

 けれど欲は強く醜く,曖昧な具合に変えてはくれなかった。


「───次は,彼岸と此岸,どちらで逢えると思います?」







「…彼岸」







 喩え那狼が死のうと,誰もその死を嘆くことは無いだろう。

 喩え那狼が死のうと,地球は回転を変えることは無いだろう。

 誰にも生を望まれず,死ぬ意味も生きる意味も無い。


「次逢う時は彼岸ですよ。約束です」


 小指を差し出す。


「約束」


 小指と小指を絡め合わせるだけの口約束。

 その瞬間,頬に張り付いていたザラメが急速に溶けていった。頬に張り付いていた嫌な感触がなくなる。飴玉の甘さがなくなる舐める感触がなくなる。


「すぐ逢いに来てくれるんでしょう?


 少女那狼が優しく笑った。窓のサッシに手を掛ける。重心が後ろに傾く。自己破壊しかけた時に感じた,喉元がヒュンと吹き抜ける感覚。

 初夏の暑い太陽が目をさして痛かった。


「はい。逢いに行きますよ。那狼くん」


 今日ほど,爪を伸ばしていて良かったと感じたことは無いだろう。いつの日か病が治り,綺麗なネイルをする為に伸ばし続けていた,鋭い爪。

 包帯の上に鮮血が滲み始めた。不思議なことに痛みはなかった。

 舐めていた飴玉が小さくなっていく。


 生命の灯火が,ようやく消える。


「運命を“生”で終わらせるなんて,勿体ないもんね」








 三度目の出逢いを少女らは運命と呼んだ。

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