第1話② 幼少にして大黒柱の男の子 後編


📞📞回答パート📞📞



「金は?」

 ドアに片足突っ込んで、わたしは訊いた。アンパ〇マンの、やたら能天気な歌が応じた。

 玄関のすぐ先はリビング・ダイニング・ベッドルーム。むろんベッドなど置いてあるはずなく、あるのは卓袱台に、どこから拾ってきたのかテレビが一台。つまりは六畳一間に三人のガキがひしめいてすべてをそこで済ませているというわけだ。


 テレビにかじりついているふたりの弟妹からわたしへ視線を戻して、男の子は肩をすくめた。この年頃の子供がとるポーズではない。


「渡せるものはないんだ、ごめんだけど」

 バイキ〇マンの勝ち誇った声が聞こえた。わたしはためいきをついた。弟妹たちは固唾を飲んで、アンパ〇マンの復活を祈った。

「そんなわけねえだろ? 今日は支給日だ」

 言うまでもなく、生活保護の支給日のことだ。そこから搾りとれば、毎月わずかずつにしろ金は入る。顧客訪問するならこの日をのがすなってのはわれわれの世界の常識だ。おかげでわれわれの仕事が忙しい日はいつも、パチンコ屋が賑わっている。まったくおめでたい仕組みだ。


 だが男の子はゆっくり首を振った。ぜんまいのゆるんだ人形みたいにゆるゆると。

銀河ぎんがの靴を買ったから。明日は銀河の誕生日なんだ」

 銀河というのは弟の名だ。妹の方は満月みつきで、この子の名前は流星りゅうせいだ。闇夜を照らす希望のような名を子供たちにつけておいて、こいつらの親ときたらほんとの希望や光なんてものはひとかけらも与えようとしない。

 流星の目を落とした先には、黒ずんでかかとのつぶれた靴が転がっている。その傍らの箱のうえには、真新しい靴がたいせつに飾られてあった。そんな年に一度の祝いの日の前夜に借金取りだと。この瞬間なにもかもが燃えちまえばいいのに。

 言葉を出す気力も失せて、わたしは六畳間に踏みこみ、奥の襖を開けた。そのときだけ銀河も満月もテレビから目を離し、怯えた目をわたしへ向けた。


 襖の向こうの四畳半の部屋はうす暗く、敷かれっぱなしの蒲団に女が寝ている。うしろから流星が追いついた。

「母さんは寝かしといてあげて。さっき寝ついたばかりなんだ……話はぼくが聞くよ」


 こいつらの母親はなんの病気か、いつ来てもたいてい寝こんでいる。仮病ではない証拠に、見るも無惨なやつれようだ。これでは売っぱらったところで金にならない。夜の世界に沈めても客なぞつかないし、臓器だって売れるような上等なもんじゃない。むしろ臓器を買い足してやらなきゃ明日の命も知れないんじゃねえかと心配になるほどだ。


「病院へは?」

「一昨日行った」

「タクシー代はちゃんと請求したんだろうな?」

 実際にタクシーに乗ったかどうかは問題ではない。この子には偽の領収書を渡してある。偽といっても本物のタクシー会社から脅しとった正式の領収書だから、よほど下手を打たなければバレないはずだ。

「したけど……うまくいかなかった。ケースワーカーのひとにすっごい説教されて。つぎやったらぜんぶ取り消すからもうぜったいやるなって」


 しっかりしているようでも、まだ子供だ。ケースワーカーを欺くのは荷が重かったか。うなだれた流星の背中はあきれるほどにちいさく、本来わたしの相手をする立場でないのはもちろんだ。だが母親があのていたらくである以上、この子にはいつまでも子供でいてもらうわけにいかない。テレビのなかのバイキ〇マンが吹っ飛ばされる。ドキ〇ちゃんがあわてて追っかける。正義が勝つってのは幻想だ。毒にも似た。

「薬は?」

「これでいい?」

 と流星はいくつもの袋を並べて訊いた。こっちはうまくやったようだ。生活保護のおかげで薬はいくらでも無料で手に入れることができる。そして、処方なしでは手に入らないような薬は裏ルートに流せば金になるのだ。薬包の説明書をたしかめ、本当に母親に必要な薬は返して、残りをポケットに入れた。


「ふん。これっぽっちじゃ利息分にもならねえぞ。一生借金背負って利息を払いつづけるつもりか? いい子だから隠してある金も出しな」

「ないんだって」

 流星はまっすぐ見てくる。強情に踏んばった顔の頬がふるえている。アンパ〇マンがエンディングの歌を無神経に流す。わたしはためいきをつく。もっと上手に嘘をつくことだ。父親を見習って。


 そもそもこの子の父親がいけない。

 本来借金の責任を負うべき父親の方はとっくに姿を消して、もう三か月も戻ってこない。同業者が追い込みをかけているのだと噂に聞いた。いまごろどこぞの海の底に沈んでいるか、かたっぱしから臓器を抜き取られて残骸だけ山に埋まっているか、あるいはまだうまく逃げているのか――わたしの知ったことではないのだが、あのろくでなしが罷りまちがってもこの家に戻ってこないこと、能うならばもうこの世に存在していないことを、柄にもなく祈ってやっている。この子たちのために。

 顧客のために祈ってやるなどまったくばかばかしいが、これはわたしの仕事をむだに増やさないためでもある。万一奴が戻ってこようものなら、一円たりとも稼ぎはしないくせに借金だけは夏のボウフラみたいにまたつぎつぎ湧いて出るとは目に見えている。

 ちかごろ子供たちの生活が安定し、わたしへの返済もわずかとはいえ進みはじめたのは、奴がいなくなったおかげなのだ。

 にもかかわらず、この子は父親の帰りを信じて待っている。口には出さないが、再び会える日を待ちわびているとわかる。信じてもらう価値も愛される価値もない男であるのに。


「……なあ流星。有り金ぜんぶ出せって言ってんじゃねえんだ。毎月こつこつ返して、すこしでも借金減らしていけってんだよ。おまえのために言ってんだ。いい子だから出しな。今日のところは、そうだな……1万でいい」

 さっきから流星がちらちら目をやるのは、四畳半の奥の衣裳棚(どうせこれも拾ってきたモノだ)。まったく嘘のつけないガキだ。こんな環境で生まれ育ってまだ心の汚れないのは誉めてやっていいが、それではこのさき生きていけない。


「……1万円?」

 流星はまだ迷っている。

「ああ。1万円」

 わたしは指を一本立ててうなずく。銀河と満月は兄とわたしのやりとりをじっと見ている。

 アニメの時間は終わって、いま流れているのはつまらないニュースだ。贈収賄とか減税だとか。そんな話をいくらしたって、この子たちが救われるものか。


 ゆっくりと、流星の表情が変わった。わたしに背を向けまっすぐ衣裳棚へ向かう。わたしはうしろをついていく。棚の中、くたびれた衣服の下の方から取り出した封筒を、わたしはさっと横取りして中から2枚、1万円札を抜いた。

「あ……!」

 流星は手を伸ばすがもう遅い。

「2万だな。それと、薬は5千円で買い取ってやる。まめに医者には連れてけよ。そんで薬はたっぷりもらえ」

 恨めしそうな目は見ないようにして、ちぎった紙きれに「2万5千円受領――海棠かいどう」と書いた。夕方6時の鐘が鳴る。紙きれを流星に押しつけ、他人をかんたんに信じるな、と胸のなかで言った。つぎは瞞されるんじゃねえぞ――わたしにも、ほかの大人たちにも。

「今月はもう来ない――たぶんな。こんどはうまくタクシー代をぶんどってこいよ」

 返事がわりになにかの空箱が飛んできて、靴を履こうとするわたしの背中に当たった。投げたのは銀河だ。わたしは気づかないふりして、外へ出た。歩きだす前にもういちど振り返ると、ぼろアパートの扉に貼ってある紙が目に入る。学校でもらってきたプリントの裏に、子供の字で、「お父さんはいません。お金はありません」。書いたのは流星だ。


 この世に神なんていない。いるとしたら、よほど無慈悲で、無責任で非情で尊大で、かよわい人間を弄んで平気なろくでなしだ。そんなものを崇める連中の気が知れない。

 わたしが信じるものは、血の通わないものだけだ。例えばカネのように。非難したいならするがいい。哄笑をもって応えてやる。なにもかもくそったれだ。

 胃薬をくれ。体も心も壊すほどの強烈なやつを。



(第2話へつづく)


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