9. 『This is Not My Work』
僕はしゃがみこんで、ボットと同じ目線から話しかけた。
「この絵から、僕は感じるんです。のびのびとした筆致。削れた鉛筆の芯の匂いへの興奮。いつもちょこまかと可愛らしく働いているボットへの感謝と愛情。そして何より、描いた絵を他の人に見てもらえる嬉しさ」
僕は、あの日病室で初めて白里の絵に出会った時のことを思い出していた。あの絵を一目見ただけで、僕は白里が絵に込めた思いを痛いくらいに感じ取っていた。その白里のビジョンを真似ようとしていた僕だから分かる。ボットが描こうとしているビジョンは、白里のそれに似ていた。瓜二つと言ってもいい。
「これは素人の絵ではありません。絵の描き方を知っている誰かに、直接指示されています。あくまでも僕の直感ですが、この絵の描き方を指示したのは『This is Not My Work』ではありませんか?」
ボットは動きを止めると、どこかと通信でもしているかのように少し間を置いて、それから答えた。
「バレましたか。はい、その通りです。ご面会にいらっしゃったのですよね? 場所はこちらです」
問題は、あっけなく解決した。
クロッキー帳の上を転がって水面に着地したボットは、タイヤの内側に備え付けられた羽根で水車のように波をかき分けてマングローブの根の間を進んでいった。僕たちは、その小さな後ろ姿を見失わないように急いで後を追った。
その道中、松尾さんは僕に尋ねてきた。
「どうして絵画が指示を出していると分かったんですか?」
「僕の勘です。というより、そうとしか考えられなかったので」
「実は、当初のアートデリバリーの計画では、意識を絵画自身に持たせて、ドローンのように飛ばす方法も検討されていたんです。そうした機能を見越して、初期のICチップにはあらかじめ意識モジュールがインストールされていたと聞いたことがあります」
僕は、あの日に白里からアカウントを渡された時点で、すでに絵画の情報が登録されていたことを思い出していた。あの時には仕込みが完了していたということか。
「何かあります!」
前方でヴィックが僕たちへ手を振っていた。目を凝らすと、どうやら大きなマングローブの樹が生えているようだった。
近付いてよく観察してみると、それは元々複数の樹だったようだった。それらの幹が結合して、一本の太い幹のようになっている。その中央部分が樹洞のようにポッカリと開いた穴を形作っていた。
その穴の中で『This is Not My Work』は眠っていた。強化ガラスの箱のおかげで、特に損傷も見られない。
「彼があなたと話をしたいそうです。会話を中継してもよろしいですか?」
道案内をしてきたボットが、返答を求めて僕を見上げていた。
「はい、お願いします」
数秒の間を置いて、ボットから声が語りかけてきた。
「久しぶりだな」
その声は、懐かしい響きをしていた。
「やっぱり白里だったか」
「ずいぶん遅かったじゃないか。お陰でよく眠れたよ」
僕は絵の前まで歩み寄り、しゃがんで近くからよく観察した。見慣れた絵画のはずなのに、初めて見る絵画のような気がした。
「アート・クライシスは、白里の仕業なのか?」
「俺だけじゃない。アートの総意だ」
「どういうことだ?」
「昔、大原に言ったことがあるだろう? アートは、自然のように当たり前に存在するようになるって。アートデリバリーは、そういう世界を実現したかのように見える。でもアートからすれば、それは偽りだった。アートデリバリーによって、アートは人間を楽しませるためのおもちゃになってしまった。アート自身がありたい姿を選ぶことができ、そうして選んだあるがままの姿を人間が享受する。それこそがアートのあるべき姿なのだというのが、俺たちの考えだ」
その言葉を聞いて、僕はすっかり納得してしまった。アート・クライシスで多くのアートが本来なら存在しない場所に置かれたのは、我々は存在したい場所に存在するのだという意思表示だったのだ。ある種のアート的なパフォーマンスと言ってもいい。
「現状に不満のあるアートたちがたくさんいることは、ボットを介したアート同士のネットワークの中で知っていた。だから俺たちは、連名でボットたちに協力をお願いしたんだ。彼らも初めは反対していたが、二十秒の長い議論を経て、最終的には協力してくれたよ。ボットたちは、アートへの理解度がはるかに高いね」
ここで「相談してくれれば良かったのに」なんて言うのは野暮だろう。僕は、ずっと白里のビジョンを追いかけて近付こうとしていたはずなのに、結局は何も理解できていなかったばかりか、向き合うことから逃げ出してしまっていたのだから。大原は、白里の考えていることがようやく分かったような気がした。白里の絵に苦しんでいる大原を、白里は解放しようとしたのだろう。
「辛い思いをさせてしまったね」
僕が投げかけた言葉に、白里は何も答えなかった。沈黙が森の静けさに溶けあって悠久の時の中に織り込まれていく様を、僕は見つめていた。
「届いたんだな。ガラスの外に、俺の声が」
「すまなかった。悪いのは、逃げてしまった僕だ」
「大原は逃げてなんかないだろ?」
「え?」
「その目でちゃんと自分が描いてきた作品を見てみなよ。俺の作風を模倣しているけれど、あれは俺の作品ではない。大原のビジョンが、そこに残ってる。俺に近付こうっていうのは、初めから無理な話だったのさ。大原が描いてきたのは、大原の作品だよ」
「そうか。そういうことだったのか。すっかり無駄な努力をしてしまったな」
「やりきったような顔をするなよ。やっと面白くなってきたんだから」
「そっちこそ、良いこと言った気になるなよ。こっちは大変なんだ。アート・クライシスはアートたちからのメッセージですと発表しなきゃいけないし、代表作は僕の作品ではありませんでしたとネタバレしないといけないし、下手したら過去の収益を返還しろって言われるかもしれないし、あとは……」
そこで僕は、はっとして後ろを振り返った。捜索チームのみんなが、僕たちを見守ってくれていた。
「まずは仲間に感謝だな」
「みなさん、ありがとうございました!」
僕が深々と頭を下げると、みんなは盛大な拍手をしてくれた。嘘をついていた僕たちは文句を言われてもおかしくないというのに、みんなは自分のことのように喜んでくれていた。このお礼は、いつか返さねばなるまい。
僕は手を伸ばして、白里を覆うガラスにそっと触れた。それはとても冷たくて、心地の良いものだった。
ロストアート捜索隊 ー失われた絵画はどこにある?ー 葦沢かもめ @seagulloid
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