5. テングザル
目の前で、雄のテングザルが僕を見つめている。顔面に鎮座する腫れ上がった鼻に、僕の視線は釘付けになった。
「最近のボートは速いですね。乗り心地はいかがですか?」
そう尋ねるテングザルの眼下では、僕たちが乗っていたボートが川を下っていた。
「船酔いがひどいですよ。電車の方が快適です」
「電車とやらも、早くお目にかかりたいですね。あなた方はいつも私たちを楽しませてくれて、ありがたい限りです」
「楽しませる?」
テングザルの口ぶりに、僕は口に砂利が入ったような違和感を覚えた。
「私たちは、いつもあなた方のパフォーマンスに釘付けです。そういえば踊りの時に使うカシャカシャと音の出る箱が、最近は板になってしまったのですが、もう箱ではやらないのですか。うちの子供は、箱が好きなんです」
「その箱はカメラといいます。踊りではなくて、思い出を記録しているのです」
僕の説明に、テングザルはなるほどという顔をした。
「これは失礼しました。あれは神様のようなものなのですね。興味深い。とすると、あなたは神の使いですか?」
「とんでもない。ただの絵描きです」
いや、絵描きではないな、と思ったけれど、訂正するのも面倒なので、そのままにした。
「嘘ですね」
そのテングザルの鋭い言葉に、僕は返す言葉を失った。
「あなたは、自分で自分を騙している。見えていないふりをしているだけ。探しものは、あなたの足元にあります。あなたは、それを拾い上げればよいのです。あとはそれを見ようとする勇気だけ」
僕の心を見透かしているかのように、テングザルは微笑んだ。
その瞬間、僕は目を覚ました。
「大原さん、大丈夫ですか?」
僕はボートの上に横たわっていた。みんなが僕の顔を覗き込んでいる。
「気持ち悪い……」
「酔い止めの効果が切れたんでしょう。薬、飲んでください」
やけに鮮明な夢だったなと思いながら、僕は薬をミネラルウォーターで流し込んだ。もう少しタイミングが遅ければ、僕はテングザルになっていたかもしれない。
やがて岸辺のマングローブ林が途切れて、水上集落が姿を現した。木の板を釘で留めただけの桟橋が、縦横に張り巡らされている。比較的水深の浅い場所には、トタン屋根の家屋が建てられていた。その集落が僕たちの目的地だった。これから数日間、この場所が捜索チームの前線基地となる。
僕たちは一人ずつ桟橋に降りた。いくらか気分は良くなっていたけれど、僕はまだ足元が揺れている気がした。
それから先導するヴィックに続いて、集落の長老の家へ挨拶に向かった。優しい目をした長老は、僕たちを喜んで迎え入れてくれた。
そこには漁師をしているという若い男が同席していた。ヴィックが、彼の言葉を通訳してくれた。
「彼は、アート・クライシスが起きた次の日に、絵を運ぶボットたちを見ました。でも野生化したボットたちは、あまり見たことない。きっと森の中に隠れているんだと、彼は言っています」
「それは、確かにこの絵だったんですか?」
松尾さんはタブレットに『This is Not My Work』の画像を表示させて、漁師へ渡した。ヴィックがインドネシア語で尋ね、返答を日本語に訳す。
「遠くから見たけど、多分そう」
「『多分』か……」
松尾さんは眉間にシワを寄せた。ここまで来たというのに、捜索は肩透かしに終わってしまうのだろうか。
すると長老が、何の前触れもなく滔々と語りだした。まるでお経を読んでいるお坊さんか、あるいは神話を歌う吟遊詩人のような、リズムの良い語り口だった。
「長老によると、この前も絵を探している人たちが来たらしいです」
「え!?」
その瞬間、松尾さんの表情が強張った。混乱に乗じて、絵画泥棒が増えているのだろうか。
「でも彼らは見つけられなかった。長老が嘘を教えたから」
「なんと! それはありがたい! でもどうしてそんなことを?」
「長老は、絵の声が聞こえたと言っています。彼らに渡してはならないと。絵は、オーハラさんを呼んでいるそうです」
「僕を?」
僕が長老へと視線を移すと、長老は静かに笑みを浮かべて僕を凝視していた。
「ヴィックは、大原さんが作者だって教えたんですか?」
「いいえ。でも長老は分かってた」
ヴィックも困惑して首を傾げていた。
「まさか……ね?」
「ほら、大原さん有名だから、きっと前から知ってたんですよ。うん、そうに違いない」
一同は苦笑いを浮かべながら、長老には絶対に失礼がないようにしようと心に誓った。
その後、僕たちは集落の方々に歓待の料理でもてなされた。宿泊場所として割り当てられた家屋で眠りについたのは、夜遅くのことだった。
ベッドの上に寝そべりながら、僕はあの白里の絵のことを思い出そうとした。画像は毎日見ているのに、頭の中のイメージは日に日に薄くなっていた。僕は、あの絵のことを忘れてしまうのだろうか。ずっと忘れてしまいたいと思っていたはずなのに、こうして手のひらから零れる砂粒のように消えていってしまうと、あの絵から逃げていた自分に苛立ちすら感じてしまう。
人間は、忘れる動物だ。都合のいいことも、よくないことも。それでも僕の記憶の中に留まっている思い出というのは、一体何なのだろう。
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