6. 回想

――回想。十年前。


「その絵、大原にあげるよ」

 白里が病室のベッドに横になりながら発した言葉に、僕は耳を疑った。白里の描いた油絵『絵を描く自分』は、これまで僕が見てきた中でも一番の傑作だった。額縁の中では、絵筆を握る白里がキャンバスの前に佇んでいた。

「要らないよ。僕の部屋には飾る場所ないからな。そんなことより白里は早く病気を治せよ」

「そういう意味じゃない」

「?」

 首を傾げる僕を見て、白里は笑っていた。

「アートデリバリーって知ってる?」

「最近、海外の会社が始めた怪しいレンタルサービスみたいなやつだろう?」

「そこに大原のアカウントを作って、この絵を登録しておいたから」

「どういうこと?」

「つまり、この絵の利用料金が大原の懐に入るってわけさ」

「バカにするなよ。どうして僕が白里の絵で稼がないといけないんだよ。白里が自分のために使ってくれ」

 しかし憤慨する僕に対する白里の返事は、力のないものだった。

「俺は、もうじき死ぬ。お金なんていらない。それなら大原の利益になった方が嬉しい」

 白里が入院してから、一年が経とうとしていた。頻繁に見舞いに来ていた僕の目にも、白里の命がもう長くないのは明らかだった。白里の魂の炎は消えつつあった。

「死んでから評価された画家だって山ほどいるんだ。諦めるなんてまだ早い」

「俺はね、青い壜の中に生きているような気がするんだ。憂鬱に染まった歪んだ世界に包まれているような感じ。ガラスの外の世界の声は俺に届かないし、俺の声はガラスの外の世界に届かない。冷たいガラスは心地良いんだけどね」

 この世に生きているようで、どこか違う世界を眺めている白里が、僕には羨ましくて堪らなかった。

「何が言いたいかというと、俺の作品を見てくれる人は、ほとんどいないってことさ。でも、このアートデリバリーというサービスに登録していれば、いつか誰かが見つけてくれる気がするんだよね」

「だったら白里の名前で登録すればいいだろう?」

「俺が死んで更新されなくなったら、アカウント消されちゃうからさ。大原に託したいんだ」

 僕は、しばらくためらっていた。僕が頼まれたら断れない性格だということを、白里は知っている。だから白里が僕に頼み事をすることは少なかった。そんな白里が、こうして僕に頭を下げている。断るなんて、僕にはできなかった。

 僕が頷いて承諾の意思を示すと、白里はにこりと笑った。

「アカウントの情報を送るから、確認してみて」

 言われるがままに、僕はスマートフォンでアートデリバリーのアカウントにログインした。すると、その絵には『This is Not My Work』という新しいタイトルが付けられていた。

「面白いでしょ?」

 白里はニヤけた顔を抑えられない様子だった。

「マグリットの『This is Not A Pipe』のオマージュか。これがやりたかっただけだろ?」

 『This is Not A Pipe』は、『イメージの裏切り』というマグリットの作品に記された言葉である。絵にはリアルなパイプが描かれているが、そこに『これはパイプではない』と記すことで、「絵に描かれたものは虚構に過ぎず、実物とは異なるものである」ということをメタ的に表現していると言われている。

 要するに、僕が白里の作品を『自分の作品ではない』というタイトルで僕の作品として公開することに、芸術的意義があると主張したいのだろう。

「大原もマグリット好きだろう?」

「それはそうだけど」

「デュシャンの『泉』もさ、ただの工業製品である便器を横に倒してサインを入れただけで、アートとして成立してるんだよね。だったら、他人の作品を自分の作品として発表することも、見方によってはアートになると思うんだ」

「両者が合意している場合に限るけれどね」

「そういう著作権みたいな考えも、古いものになっていくと思う。アートが共有され、自然のように当たり前に存在する世界になれば、それを誰が作ったかなんて重要じゃなくなるんだよね。大胆に言ってしまえば、アートは『作品』から解放されるんだ。何を創ったかなんてどうでもよくて、創るという行為そのものに価値の重点が移ると、僕は思う。何を表現しようとしたのか。どんなビジョンを夢見ていたのか。それがアートなんだ」

「言いたいことは分かったけど、そんなことを主張したって誰も受け入れてくれないんじゃないか?」

「おいおい、コンセプトを公表しちゃったら、つまらないだろ? だからさ、作者が何も明かさないままにするのがいいと思うんだ。二人とも死んだ後になって『調査してみたけど作者が違うんじゃないか?』って誰かが気付いてくれるのがいいよね」

「一日中ベッドの上で横になりながら、そんなくだらないこと考えてたのかよ」

「いいじゃん。やってみたいだろ?」

 僕は深い溜め息をついて腕組みをした。

「端的に言って、作品コンセプトの論理が飛躍しすぎだと思う。それに、もしそういう世界があり得るとしても、誰が得をするのか分からない。あと炎上しそう」

「手厳しいな」

 苦笑いをしている白里に、僕は向き直った。

「『作者が白里だとバレたら終わり』という条件でどうだろう?」

「じゃあ交渉成立ということで」

 いつになく楽しそうにしている白里の姿が、印象的だった。

 翌日、白里は息を引き取った。

 それから数カ月後、僕はネットニュースでアートデリバリーが人気になっていることを知った。僕の気付かぬうちに『This is Not My Work』へのチップも増えていた。

 僕も後から調べて理解したのだが、アートデリバリーは、アートを提供されたユーザーのチップによって運営されている。金がなければ払わなくていい。一方、金を払いたい人間は、いくらでも金を払っていい。そして高額のチップを払ったユーザーの名前は、そのアートに組み込まれたICチップの中にブロックチェーンで半永久的に刻まれる。富豪は後世まで残るスポンサーの名誉を金で買うことで、欲求を満たすのである。そしてアーティストたちには、そうした売上が公平に配分された。実際にはチップが少ないアーティストであっても、頑張れば生活はできる程度の収入になるようだった。

 次第に白里の絵はSNSでも話題になり、新作を求める声が上がるようになった。そこで僕は白里の作風を慎重に模倣しつつ、自分らしさをほんの少しだけ取り入れた新作を、アートデリバリーに登録した。僕はその作品がどう評価されるのか、気が気でなかった。しかしそんな心配をよそに、新作はすぐに人気となった。

 やがて、インタビューの依頼も舞い込むようになった。アートデリバリーで人気の画家の一人として特集されたのである。徐々に僕の画家としての人気は高まっていった。至るところで『This is Not My Work』が僕の代表作として紹介された。美大を卒業する頃には、アートデリバリーの収入だけで生活できるようになっていた。

 いつしか僕は、真実が明らかになることを恐れるようになっていた。塗りの癖や筆の使い方を丁寧に観察すれば、疑いを持つ人は出てくるはずだった。『This is Not My Work』を話題にされるたびに、僕は生きた心地がしなかった。あの絵を見るのが、怖かった。だから僕は、自分らしさを完全に消すことに心血を注ぐようになった。白里の作風を完璧に真似た作品を次々に世に送り出し、その不安を拭い去ろうと努力した。

 そうしてアート・クライシスは訪れ、『This is Not My Work』は行方不明になった。僕は天罰が下ったのだと思う。

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