3. ヌサンタラ
――三ヶ月後。インドネシア、首都・ヌサンタラ。
半日の空の旅を終えて、僕はヌサンタラ国際空港に降り立った。自動運転タクシーをつかまえて外へ出ると、僕の目に飛び込んできたのは近未来的な都市だった。
青々と茂る熱帯雨林のところどころが切り拓かれて、そこから生えた摩天楼が日時計のように黒い影を落としている。その下では森をヘラでえぐり取ったように道路が敷かれ、自動車が列を成したアリのように走り回っている。緑とコンクリートが混ざり合った街は、調和を保っているように見えて、どこか危うい均衡をはらんでいるように感じられた。
赤道直下の国、インドネシアが先進国の仲間入りを果たしたのは、この十年のことである。今やインドネシアの人口は、アメリカを越えて世界第三位となった。その中で、ボルネオのジャングルを伐採して造られた新首都ヌサンタラの存在は大きい。
この異国のどこかに『This is Not My Work』があるらしいとエルフアーツ社から連絡が来たのは、一ヶ月ほど前のことだった。親切なことに捜索チームを手配してくれるという。それに、僕が希望すれば、捜索に参加することもできるということだった。
『This is Not My Work』は、あの日以来、行方不明となっていた。もう目にすることがないという点では都合が良かった。しかしあの後から、僕は何も描けなくなっていた。何も考えずに絵を描いていたはずなのに、絵筆を持っても右手はピクリとも動かない。それに僕の頭の中にこびりついていたはずのあの絵が、最近はぼんやりとしたイメージしか浮かんでこないのだ。あの絵を見つけることができれば、何かが変わるかもしれない。僕がインドネシアの土を踏んだのは、そういう漠然とした理由からだった。
大きな駅に到着した僕は、待ち合わせ場所に指定されていた時計台に向かった。スーツケースを引きずる僕を待っていたのは、紺色のパンツスーツを着た一人の女性だった。
「ようこそヌサンタラへ、大原さん」
彼女とはウェブ会議で一度顔を合わせていたが、直接会うのはこれが初めてだった。僕は人の顔を覚えるのは苦手だったが、赤いフレームの眼鏡が印象的なので、なんとか同一人物だと認識できた。襟元には、ボットをデフォルメしたキャラクターのバッジが輝いている。
「改めまして、エルフアーツ社の松尾ミナミと申します。よろしくお願い致します」
彼女からテキパキとした動きで差し出されたのは名刺だった。こういうビジネスマナーが、僕は苦手だ。
「ありがとうございます。大原です。すみません、僕は名刺持ってなくて」
「いえいえ、構いませんよ。それよりも、まずは弊社のシステムトラブルについて、改めて謝罪させてください。この度は大変申し訳ございませんでした」
松尾さんは深々と頭を下げた。
「気にしないで下さい。エルフアーツ社さんには色々とお世話になってきましたし、補償も頂いていますから」
「お優しいお言葉、痛み入ります。何はともあれ、アート・クライシスで失われた大原さんの作品『This is Not My Work』については、我々が責任をもって捜索致します」
アート・クライシス。あの事件は、そう呼ばれている。
あの日、ボットたちは突如として不自然な動作を起こした。数時間後にはシステムが停止されたものの、時すでに遅く、一部のボットたちは制御を外れ、「野生化」してしまった。ボットたちには、太陽光で充電する機能と、破損した場合に相互に修復する機能がついている。それらは高品質なサービスを提供するためのものだったが、結果的にボットが自立できる条件を満たしてしまっていた。
アート・クライシスの原因は、今もなお謎に包まれている。何にせよ、あの日、多くのアートが道路のアスファルトの上で灼かれ、プールの中に沈み、畑の土の上に転がった。風力発電の風車のプロペラに括り付けられたものすらある。
いや、それだけならまだ良かった。アマゾンの密林の林冠。あるいは光の届かない深海の底。酸素の薄い岩山の頂上。吹雪に閉ざされた南極のクレバスの狭間。曲がりくねった鍾乳洞の奥。そうした人類が未だ開拓しきれていない世界の秘境にも、アートはお届けされてしまった。今もまだ行方不明のアートは多い。その中に、『This is Not My Work』も含まれていた。
「発車時刻も近いので、急ぎましょうか」
そう言うやいなや、松尾さんはさっさと駅の雑踏の中へ突っ込んでいった。僕は慌てて松尾さんの背中を追う。
真新しい駅舎を進み、自動改札を抜けてエレベーターを降りると、ホームには乗車予定の電車がすでに停まっていた。発車のベルに急かされながら、僕たちはなんとか飛び乗った。
予約していた座席にようやく腰を下ろすと、僕の体を疲れがどっと襲った。日頃、運動していないせいだろう。慣れないことはするもんじゃないなと思ったが、後悔しても遅い。
やがて車窓には、ヌサンタラの街並みが映し出された。荘厳なモスクが佇んでいるかと思うと、次には繁華街の街頭ビジョンが現れる。僕の目には、それがとても魅力的に映った。
「東京と雰囲気は違いますが、ヌサンタラの街並みは見ていて楽しいですね」
「私はこちらに来て一年ほどになりますが、街に活気が溢れているように感じますね。」
そう言いながら松尾さんは自らのタブレットを鞄から取り出し、僕にも見える位置に置いた。
「さて。ちょっとだけお時間いただいて、捜索プロジェクトの計画について確認いたしますね」
タブレットには、カリマンタン島の地図が表示されている。
「現在、私たちがいるのがカリマンタン島の東海岸に位置するヌサンタラ。ここから高速鉄道に乗って、北に位置する都市、サマリンダへ移動します。ここで現地にいる捜索チームのメンバーと合流します。そこからスピードボートに乗り換えてマハカム川を下り、その河口にある村へ行きます」
「そこが目撃情報のあった水上集落ですね?」
「はい。この河口に広がるマングローブ林のどこかに、大原さんの作品があるはずです」
松尾さんは力強く断言した。きっと僕を安心させる意味もあるのだろう。
「マングローブ林ということは、基本的にはボートで捜索するんですか?」
「行ってみないと分かりませんが、場所によっては浅瀬になっていてボートが入れないので、歩いて捜索するものだと思ってください。胴長などの必要な用具は、捜索チームが準備してくれています」
「承知しました」
涼しい顔をして答えたものの、僕は肉体労働をする可能性に震えていた。何か言い訳を考えねばなるまい。
「そういえば僕は船酔いしやすいんですが、薬を忘れてきてしまったんですよね。もしかしたら戦力になれないかもしれません」
「それなら大丈夫ですよ! 私が酔い止め持ってますから」
「……準備万端で何よりです」
どうやら逃げ道はなさそうである。
「どうかしました?」
「いえ、なんでもないです」
「そうですか。何かご質問がなければ、ゆっくりおくつろぎください。サマリンダからはボートですから、『快適な船旅』の前に休んでおいた方がいいですよ」
「お言葉に甘えて、休ませていただきます」
飛行機の疲れもあったのか、僕は目を閉じるとすぐに眠りに落ちていった。
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