5-2 亡霊

「ぶっ殺してやる!」

 宿の一室に少女の尋常ではない声が響いた。

 刹那、少女―――ヘレナ・レノーアは打って変わって目を丸くし、周囲を見渡した。すぐ真横にベッドがあり、正面には窓があり、その窓から見える景色はとても穏やかで、外からの喧騒はなかった。ヘレナはキョトンとし、それから背後を振り返った。そしてそこに立つ者の姿に目を見張り、飛びついた。

「イレーネ!」

ヘレナは死んでしまったと思っていた妹を抱きしめ、その目に涙を湛える。

「生きていたんだ。良かった……良かった」

 ヘレナとは対照的に、イレーネは落ち着いていた。落ち着いているというよりもむしろ姉の無事を喜ぶ余裕さえもないかのようであった。その様子にヘレナは気付き、そしてそこに生まれた疑問を口にした。

「父さんと母さんは?」

「……私だけ」

イレーネが絞り出すようにぽつりぽつりと呟く。「二人を助ける余裕なんてなかった」

 イレーネの言葉を聞き、その声に触れ、彼女を抱きしめるヘレナの力がより強まった。

「イレーネが無事で良かった。それだけで……」

ヘレナの言葉は一度そこで途絶えた。

 彼女は奥に見えるもう一つの部屋に人が居るのを見た。見知った顔だ。

「……ナノ、フロレンツィア」

 ヘレナは警戒の目を向けてくるナノを見、そして彼女の後ろから驚愕の表情を浮かべるフロレンツィアを見た。

 誰よりも先に動いたのはイレーネであった。彼女はまっすぐナノのもとに行き、彼女の胸ぐらを掴み上げようとするかのように彼女へと手を伸ばした。しかし、その手がナノに触れるよりも早く、イレーネは組み倒された。

 ナノがイレーネを横ばいに押さえつける。

「うっ!」

イレーネはナノを睨むように見上げた。「何をしていたんだ!お前はチセを助けに行ったのだろ!」

「チセ?」

「チセがあの兵器の中にいた!」

「イレーネ」

 ヘレナが落ち着かせるようにイレーネに声をかける。「私たちに責める権利なんてない。それにあそこにチセが居ようと居なかろうとあの兵器はやって来ていたと思うよ」

「……分かっている」

「ナノ」

 それまで傍観していたフロレンツィアがナノに声をかけた。「イレーネを離してあげて」

ナノはフロレンツィアを見上げ、イレーネを見下ろし、それから数瞬考えるような間の後、イレーネから離れた。

「チセって誰?」

 ナノが言った。その声や表情にふざけた様子は一切なかった。ヘレナは瞬時固まり、そして確かめるように問いかけた。

「本気で言ってる?」

ナノが頷く。ヘレナは続けてフロレンツィアを見て、同様に問いかけた。

「フロレンツィアは?チセを知らない?」

 フロレンツィアが首を横に振る。

「そうか」

 ヘレナは小さく呟くと、フロレンツィアに向かって一歩踏み出した。直後、彼女はカチリという奇妙な音を聞き、音がしたと思われる左後ろを振り返った。

 開き戸の扉の陰に隠れるように男が立っていた。彼の手には拳銃が握られており、その銃口はヘレナを向いていた。

 ヘレナは瞬時に体を分厚い魔力の膜で覆った。

「何をしに来た」男が言う。

「あなたは?フロレンツィアたちに何をした」

「まずこちらの質問に答えろ。お前たちはあの隔離空間の魔女だな。ここには逃げて来ただけか、それとも……」

「避難しただけ」イレーネが答える。「咄嗟の事だったから、移動先を精査する余裕なんてなかった。私が今移動できる座標で、咄嗟に飛んだ先がここ、ナノの近くだっただけだ」

 言い終わるが早いかイレーネは瞬時消え去り、男の真横に出現した。彼女は男の持つ拳銃を握り、銃口を天井に向けるようにして、その銃を奪おうとした。

 ナノが素早く反応し、イレーネが男から拳銃を取り上げる前に彼女の横腹を蹴り飛ばした。イレーネは勢いよく部屋の中央に置かれたテーブルにぶつかり、そのテーブルとともに床に倒れ込んだ。

 イレーネに半ば奪われかけていた拳銃もまた床に転がる。

「待って」ヘレナがナノへと慌てて声を上げた。「戦う気はない。ただいくつか聞きたい事がある」

「聞きたい事?」

 男は床に転がった拳銃を一瞥し、それからヘレナを見た。

「あなたは何者かという事、フロレンツィア達に何をしたのかという事、そしてあの兵器は何なのかという事、この3つだ」

「話す前に君達が何者かであるかを聞いておきたい。それによって話が変わってくる」

「私達はあの隔離空間で人間の協力者の一員だった。だからナノが何者であるかといった事情などは多少知っている」

「やはりそうか」男は一人得心したように呟き、続けて言った。「私はナノの管理者だった者だ」

「だった?」

「私は組織を裏切り、ナノを連れ出してここに逃げて来た。もうこの子の管理者などという立場ではない」

「それが本当なら多少は安心できる」

「本当ならね」

 イレーネが立ち上がり、服の埃を払いながら言った。「ナノとフロレンツィアの記憶をいじっている」

「やったのは私ではない。チセだ」

「どうしてチセがそんな真似をする」ヘレナが問う。

「二人を危険から遠ざけるためだ」

 ヘレナはナノを見た。チセを助け出そうと必死になっていたはずなのに、今はもうチセの名すら忘れ、不思議そうに男を見ている。

「イレーネはチセがあの兵器の中に居たと言った。彼女は何故一人であそこに居たんだ。ナノとフロレンツィアと接触はしたという事だろう。二人を危険から遠ざけるだけなら共に逃げても良かったのではないか?」

「チセは隔離空間を、君達を殺すあの兵器自体を破壊するためにナノ達とは別れた。外部からの破壊は困難だが、内部からなら十分可能性があった。だが、君達の話を聞く限り上手くいっていないようだ」

 ヘレナはフロレンツィアを見た。初めて自分から仲良くなった友人の事を忘れ、ただ不安げにこちらばかりを見てきている。そのフロレンツィアの態度にヘレナは僅かに顔を顰めた。それはフロレンツィアに対する苛立ちからではない。自分を含め、彼女をここまで追いやったあらゆる者への苛立ちからである。

「無知を強要させられる事程辛い事はない」

 ヘレナは言うが早いか、フロレンツィアの手を取った。いきなりの事にフロレンツィアが体を強張らせる。

「少しじっとしていて」ヘレナがフロレンツィアにだけ聞こえる程の小さな声で言った。「私はフロレンツィアの能力をコピーしてある。最後に会ったあの日のフロレンツィアの状態も保持している」

 それを聞き、フロレンツィアはこれからヘレナがやろうとする事を察したようにヘレナの目を真っ直ぐ見て、そして彼女に握られている右手に視線を落とした。

 ヘレナは集中するように目を閉じた。

「何をしている?」

 男が尋ねてきたが、ヘレナは答えなかった。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 フロレンツィアがゆっくりと顔を上げる。

「ナノ」

彼女はナノを見て淡々と話す。「私はあなたとはそこまで仲良くはなかったですよね。あなたは私に苦手意識を持っているかのように振る舞っていたし、私もそんなあなたとどう接すれば良いのか分からなかった」

「フロレンツィア?」ナノが不思議そうにフロレンツィアを見返す。

「私とあなたを繋いでいたものがあるとするならそれはチセだけだった」

 フロレンツィアが一歩ナノに向かって踏み出した直後、男―――デニスが、床に転がった拳銃を拾い上げ、その銃口をフロレンツィアに向けた。

 フロレンツィアは立ち止まり、彼を侮蔑の目で見た。

「ナノはここに残る」デニスがその目に答えるように言う。「隔離空間の事は隔離空間の魔女で対応しろ。もうナノは関係ない」

「それはナノが決めることよ。あなたではない」

 フロレンツィアがナノに向かって更に一歩踏み出す。

 デニスが引き金を引きかけた刹那、再度、彼の真横に俄かにイレーネが出現し、そして誰も反応できない内にまた消えた。今度はデニスも共に消え去っていた。

 遅れて銃声が響いた。隣の部屋からであった。

「イレーネ!」

 ヘレナの悲鳴が上がる。が、すぐに「大丈夫」と返事が返ってきた。

 その声を聞いて、ヘレナとほぼ同時にナノが隣の部屋へと駆け出した。ナノを追うようにフロレンツィアも動く。

 ヘレナは隣の部屋に入る直前、視界の端で、フロレンツィアがナノの手を握るのを見た。

 ヘレナ達が最初に現れた部屋の中の片隅にデニスが居た。彼はイレーネが生成したであろう魔力の縄で拘束されており、彼が持っていた拳銃は、彼の横に立っているイレーネが握っていた。

「何故、助けたの?」

 ヘレナがイレーネを見て言った。

「ヘレナは家族。助けるのは当たり前でしょ?」

「私の事じゃない。フロレンツィアだ。イレーネはフロレンツィアも排除しようとしていたでしょう」

「それはヘレナもじゃないの」

「私は私がわからない。フロレンツィアもナノも友達だ。それなのにそれ以上に父さんと母さんに言われたことを大事に思っていた」

「ヘレナが居ない間に私は母さんに真実を聞いた。母さんも魔女としての能力を持っていたらしい。その力は端的に言うなら洗脳と言っていたよ。フロレンツィアの姉さんの能力ほど強力に人を操れるようなものではないらしいけど、それでも、時間をかけて暗示を刷り込んでいくことで、どんな者の思考もある程度誘導できるらしい。私もヘレナも、そうやって友達さえも簡単に裏切れる屑になったわけだ。だから、こういうことも簡単にできてしまう」

 イレーネは拳銃を傍らの男の額に突き立てた。

「イレーネ!」

ヘレナが慌ててイレーネへと手を伸ばした。

「なぜ止める?」イレーネは引き金から指を離し、ヘレナを見た。

「その人はナノにとっては大事な人みたいだから。それに人殺しはして欲しくない」

「母さんも似たようなことを言っていたよ。私たちに人殺しはさせたくないのだと。自らそう仕向けておきながら、実際にそうする可能性に直面してから怖気付く。自分勝手な屑だ。こいつもナノを散々利用しておきながら、ナノを助けたと勘違いしている屑だ。私たちの人生はこんな屑共に良いようにされてきた。見ているだけで腹が立つ。私は母さんたちを見殺しにしたけど、どこも痛まない」

 拳銃の銃口がゆっくりと床をむき、イレーネの手からするりと床に落ちていった。ヘレナはつられて床の拳銃に視線を落とした。

「どこも痛まない」

イレーネが独り言のように繰り返した。「悲しくないのが辛いんだ」

 ヘレナは顔を上げ、そして妹の瞳が濡れていることに目を見張った。イレーネが泣くところなんて久しく見ていない。ヘレナは数瞬呆気にとられたが、ぐっと何かを噛み殺すように歯を食いしばり、そして口を開いた。

「私たちはそう育てられた。そうでしょ。大人の都合に私たちの人生は翻弄されてきたし、私たちはそれに甘んじて自分たちで考えることもしてこなかった。でもこれからは私たちの人生を生きるんだ。私はただ悲しいことを悲しいと思える普通が欲しい。その普通にはイレーネが居て、その隣にはナノが、そしてその横にはフロレンツィアが居て、フロレンツィアの隣にチセが居る。そんな普通の中に生きたい」

「叶うと良いな」

 言ったのは、イレーネの隣で捕縛されているデニスであった。彼はヘレナをまっすぐと見上げていた。ヘレナはその目の中に僅かな嘲笑と憐憫とを見た。

「だが、難しいだろう」

「それはどういう意味だ」

「少なくともそこにチセは居ない。彼女はその普通を君達に与えるために消えていく」

 デニスは言った直後、俄かに顔を顰めた。彼の視線が僅かに動いた。その視線の先を見るようにヘレナは後ろを振り返った。そこにはフロレンツィアとナノが立っていた。

「どうやったらチセを助けられるの?」

 ナノがデニスをまっすぐ見て言った。彼女の目には、裏切り者に向けるような侮蔑と嫌悪の陰があった。デニスは半ばその目から逃れるようにナノの隣に居るフロレンツィアを一瞥した。

「ナノも記憶が戻ったのか」

「フロレンツィアのおかげで。それでチセを助ける方法はあるの?」

「ない」

「そう」ナノは小さく呟くと、続けてイレーネに向かって言った。「イレーネ、さっき彼にやったのと同じように私を別の場所、チセが居るところに飛ばす事はできる?」

「チセの居る兵器の中には飛ばせないけど、その近くになら連れて行けるよ」

「何をするつもりだ」デニスが尋ねる。

「やれるだけの事をやる。無理ならチセと一緒に死ぬだけだ」

「お前が生きていること、それがチセの願いだ」

「私の願いではない」

 ナノはイレーネの眼前まで行き、そしてその傍らのデニスを一瞥し、それからまたイレーネを見た。

 イレーネが小さく頷き、手を差し出した。ナノがその手の上に自らの手を載せる。

「適当に魔力を発散させて。私の魔力量を上回っているものは飛ばせない」

「私も行きます」

フロレンツィアもまた、イレーネの手のひらに置かれたナノの手の甲の上に自らの手を重ねた。ヘレナもまたその後に続く。

「待て」

 デニスが焦りを覆い隠したような低い声で言った。

「その縄は暫くすれば消えるよ」

イレーネが彼を捕縛している縄に視線を落として言った。

「違う」

 デニスは背を壁にもたれかけながら立ち上がった。

「一つだけチセを助けられる可能性がある。ただそれもチセにかかっている」

「どういうこと?」ナノが尋ねる。

「チセは内側からあの兵器、エスペランサを破壊しようとしている。そこの娘の話ではそれも上手くいっていなかったようが、もしチセが持ち直し、エスペランサの機能を内部から乱す事に成功したなら、外部からの攻撃通るようになる。エスペランサが完全に落ちる前に、またチセがエスペランサからかかる負荷に耐えきれず、自壊する前に彼女を引き出す事ができれば、彼女の命を助ける事ができるかもしれない」

「可能性はあるという事ね」フロレンツィアが言う。

「可能性があるかどうかも、またチセにかかっている」


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 チセは自分の意識と他者の意識が混ざり合う渦の中にあった。エスペランサに搭乗している他の魔女の思考や感情、記憶が流れ込んでくる。皆が一様に苦しみの中にあった。また同時に皆が一様に一つの夢の中にあった。それは悪魔の子ども達と呼ばれた彼女たちが共通して持つ記憶の断片から成る夢であった。

 暗く広い部屋の中、等間隔に並べられた椅子に座った子ども達が氷のように冷たい目で、ある一点だけを見ている。そこには巨大なスクリーンがあり、スクリーン上には殺戮を楽しむ魔女のおどろおどろしい映像が流れている。映像が消えると、子ども達は一斉に立ち上がり、魔女への憎悪を叫ぶ。

 チセもその子ども達の一人であった。怒れる子ども達は各人が一個人というより、それ全体で一個の個体となっていた。個人が持つ性質が消え失せ、熱狂的な集団の狂気に埋没させられる。集団精神に飲み込まれ、魔女に対する強い怒りに支配される。集団を形成する部分として熱せられた群集に溶け込んでいく。個人としての自己主張的傾向が希薄になり、全体への帰属的傾向が強固となる。

「オースタシアの魔女は欲張りな魔女」

 エスペランサに格納されている魔女達の声が重なり合うようにチセの頭の中にこだます。

「魔女はなんでもほしがります。魔女はある日、隣町のアルノーの話を聞きました。隣町のアルノーはとても頭が良くてみんなに頼りにされています。魔女はアルノーの頭が欲しくなりました。まじょは どうしても アルノーのあたまがほしくてしかたなかったので アルノーが よる ねているときに かれの へやに こっそりしのびこみました。まじょは むしみたいに ちいさくなって アルノーのくちのなかに はいってしまいました。それから あたまのほうまで のぼっていって そこにある のうみそを ちゅうちゅうちゅうちゅう すいました。これでアルノーのあたまは まじょのもの」

 自分という存在の輪郭が消えていく。他者との境界が溶けていく。ただエスペランサを動かすための動力として溶けて、他の者と存在が混ざり合う。

 深い無意識の底に沈んでいく。

 気がつくと、チセはまた別の者の記憶の中に居た。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 薄暗い部屋の片隅に置かれたベッドの上にブロンドの女性が横たわっていた。彼女は大事な何かが抜け落ちた人間の顔をしていた。まるで魂だけ何処か別の所に置いてきた抜け殻のような印象を見る者に抱かせる。変わり果ててはいたが、それは記憶の魔女であった。

 突如として記憶の魔女が咳き込み始めた。口を覆った手の隙間から血が漏れ出る。

 部屋の扉が開かれ、車椅子に乗った男が入ってくる。記憶の魔女は慌てて血のついた右手を掛け布団の下に忍ばせた。

「大丈夫か?」

 男は尋ねながら、急いで彼女の側までやって来る。

「少し咳き込んでしまっただけ」

「そうか……何があったんだ?今まで何処にいた?どうやって今の私の家、ここが分かった?」

「あまり覚えていない」

 記憶の魔女はゆっくりと上体を起こす。「ずっと光の壁の向こう側に居た」

「隔離空間か!」

 男が彼女の肩を俄かに掴んで声を荒げた。「どうしてあそこに」

「分からない。ただ逃げていた事は覚えている。あそこでは皆が私を殺しに来た。

いつ殺されるか分からない日々だった。怖かった事だけは覚えている」

 膝の上に置かれた男の手は、強く握られ、震えていた。

「これは?」

 男は呟き、掛け布団に手を伸ばした。そこには血の跡があった。男の目が大きく見開かれる。彼は再びベッドの上の女性の顔を見た。彼女はどこか罰の悪そうな顔をし、掛け布団の上に視線を落とした。

「もう長くない」

 記憶の魔女は、死の直前、ベッドの傍らの父の顔を見た。そこには悲しみを覆い隠してしまう程の憎悪があった。刹那、彼女の目が僅かに揺らいだ。彼女は父の背後を見ていた。彼女とチセの目が合う。記憶を覗いているだけのチセを認識できるはずはない。

(記憶?)

 ぼんやりとして、もやがかかったような頭でありながら、チセのうちに疑問が浮かんだ。

(誰の記憶?)

チセはその考えとともに後ろを振り返った。

 そこにはゴーストが佇んでいた。ゴーストは何を思っているのか分からない無表情で死にゆく記憶の魔女を見下ろしていた。

 チセは目を見張り、そしてまた記憶の魔女へと振り返った。

 記憶の魔女は何かを言おうと口を開こうとしたが、結局それは叶わなかった。彼女はゆっくりと目を閉じた。

 直後、チセの中に強い悔恨と強い憎悪がないまぜになったような感情の濁流が流れ込んできた。頭が割れるような痛みに襲われる。頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられているかのような苦痛と不快さにチセは支配された。

「あああ…あああああ!」

 二つの叫び声が重なる。一つはチセの、もう一つは車椅子の男のものであった。

 真っ黒な憎悪がひたすらに頭の中で渦巻く。全ての些事を霞ませ、未来への待望や正義心などなくとも、ただその憎悪だけを動力として如何なることもできてしまいそうな強い感情がチセの心をかき乱す。

 あまりの不快さにチセは目を閉じ、助けを求めるように手を虚空に伸ばした。暗闇の中、何者かに引っ張り上げられるような感覚を覚え、彼女は目を開く。

 目を開けても、そこには暗闇が広がっていた。刹那、チセの体は先刻とは比べ物にならない、全身がぐちゃぐちゃに引き裂かれてしまいそうなほどの激痛に襲われた。暗闇の中にチセの絶叫がこだまする。

 チセはリアルな激痛に、今居る場所は夢でも記憶の中でもなく、現実であることを悟った。

「私、は……」

彼女は痛みで朦朧とした意識を保つように、ぽつりぽとりと呟き始めた。「過去を……清算するため、過去を殺すための道具として……作られ、使われている。あの男にも、お前にも。それでも……良い。私は、もともと存在するはずのなかった……魔女だ。過去の……亡霊だ。私は……過去を葬る。私は、私がなすべきことを、お前はお前のすべきこと、やり残したことをやる。そのために、お前は……私を使う。私も……お前を使う」

 チセは暗闇の中にゴーストの存在を見ていた。半ば意識を保つために、半ば自らを奮い立たせるためにチセはそれに向かって叫んだ。

「行くんだ」

 チセの居るキューブの中からゴーストの気配が消える。

 チセは痛みに顔を歪ませながら、椅子から立ち上がろうと力を入れたが、拘束を抜けることはできなかった。魔力で拘束を解くための何かを生成しようとしても、上手く魔力を扱えない。代わりに目をつむり、ゴーストへと意識を向ける。

 ゴーストが捉えている景色がまぶたの裏に浮かび上がる。ゴーストはコックピットとなっている中心のキューブに居て、操縦席の後ろからスクリーンを見つめていた。そこには死にゆく羽虫の如く、地面へと落ちていく多くの魔女の姿があった。エスペランサを壊しにきた者たちであろう。その誰もが為す術なく地上へと落ちていく。

 さらに向こうには、その光景を見てエスペランサから逃げていく者たちの姿があった。辺り一帯の地上は黒く焼け焦げ、死の大地と化している。その死の底に吸い込まれていくように次々とエスペランサに近づいた魔女たちが消えていく。

 ゴーストの視線が僅かに動き、操縦席の男を捉えた。充血した目はいっぱいに見開かれ、口角もいっぱいに上がったまま固まっていた。口から緩やかに血がこぼれ落ちる。

「死んでいる」

 チセは暗いキューブの中、今にも遠のいていきそうな意識を保つためにもあえて口にした。ゴーストは悪魔の笑みのまま固まったその死の彫像をじっと見ていた。チセもゴーストの目を介してそれを見つめる。

「自らの死期を……悟っていたのか。だからナノを、不確実性を排除することもせず、なにより先にこの兵器を起動させたのか……?何故止まらない!もう操縦者はいないのに……!」

 チセはゴーストを介して、コックピットからエスペランサを止めようと試みた。しかし、ゴーストを動かすことすらできなかった。

「なぜ動かない!お前のせいだと言うのなら、今動け!自らの行動の結果に報いてみせろ!」

 刹那、チセの声に反応するかのようにゴーストが動き出した。それは操縦席の上で冷たく固まった男の上に重なるようにして座り、操縦桿へと手を伸ばした。

 ゴーストの手により、操縦桿の天辺にあるボタンが押される。直後、進行方向のキューブの前に光の球体が現れた。

「なにやってんの!」チセが焦りに満ちた叫び声を上げる。「取り消せ!今すぐ!」

 エネルギー体が発射されるであろう方向にはエスペランサに背を向け逃げていく魔女が多くいた。チセはゴーストの目を介して、コックピットのスクリーンに映る魔女の一員の恐怖の表情を見た。

 直後、その魔女の前に四つの影が現れた。

 ヘレナにイレーネ、そしてナノとフロレンツィアであった。

 ゆっくりと流れる時間感覚の中、チセは、彼女たちに向かってエスペランサが先刻作り出した光の球体から成る巨大な光線が放たれるのを見た。全てが光の中に飲み込まれていく。

 光線の輝きが消えた時にはもうそこには何も浮かんでいなかった。

「ああ……ぅあああああ!」

チセの絶叫が暗いキューブの中に響く。

「私は何のために!」

 チセの頬に涙と血とが混ざり合った液体が流れていく。

「ぁああああああああ!」

 叫びとともにチセの居るキューブは強烈な光に満ちた。その光はチセから放たれたものであった。光が消えても、キューブ内部に完全な暗闇が戻ることはなかった。

 キューブ内の壁面が、熱せられ、溶解炉の中の鉄のように赤い光を帯び、半ば溶けていた。その熱が発せられた中心にいながら、チセの体はなにかに守られていたかのように大きな損傷は見られなかった。しかし徐々に、高熱により溶けかかった椅子に服と皮膚とが溶かされはじめる。服と皮膚、体と椅子との輪郭が曖昧になり、溶けた鉄の放つ匂いに、焼けた肉の臭いが混ざる。幸か不幸かチセは意識を失っていた。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 まっすぐ直進していたエスペランサの動きが止まった。さらなる攻撃をするでもなく、一所に浮遊し続けている。山の向こうに沈みかかった斜陽の光がその黒々とした球体を照らしていた。

「止まった?」

 焼け焦げた大地から僅かに中に浮かび上がった状態でエスペランサを見上げながら、ナノが言った。彼女の周囲にはヘレナとイレーネ、そしてフロレンツィアが同じように僅かばかり宙に浮いてエスペランサを見上げていた。

「今度こそ死ぬかと思った」イレーネは荒くなっている息を整えるかのように胸を押さえながら言った。

「なんであんなところに飛ぶの!」ヘレナが声を荒げて言った。

「空間を越える時にノイズがあったんだよ。意図してなわけないじゃん!」

「チセがあの機械の動きを止めたのでしょうか?」

 口論になりかかっている双子を他所にフロレンツィアがナノに向かって言った。

「ここからだと何とも言えない。近づくしかない」

ナノはそう言うなり、エスペランサに向かって飛び上がった。しかし、フロレンツィアがそれを止めるようにナノの手を掴む。

「待ってください。あれ……」

 フロレンツィアの視線の先をナノも見た。そこには空を覆い尽くすほどの黒い人影があった。まるで鳥の大群のように赤く染まった空を埋め尽くしながら一斉にエスペランサに向かって飛んで来ている。

「もしかして……!」

ナノは何かを察したように呟くと、その大群めがけて飛んだ。フロレンツィアも後に続く。

 魔女の群勢が一斉に巨大な魔力の刃を生み出した。

 ナノはその群勢の中心に到着するなり、周囲の魔女を覆い込むように、自身を中心として球形に魔力の膜を展開させた。

 直後、エスペランサの方角へと魔女の群勢によって生み出された無数の魔力の刃が同時に発射された。そのほとんどはエスペランサから僅かに逸れ、虚空に消えていったが、内三本がエスペランサの前面のキューブに直撃した。

「くそっ!」

 エスペランサを振り返ったナノが小さく吐き捨てるように言った。

 刹那、周囲の魔女が何かに統率されているかような一糸乱れぬ動きで、ナノとその隣に浮かぶフロレンツィアへと一斉に顔を向けた。

「なっ!」ナノが驚きの声を漏らす。「私の能力が上書きされた!」

「これって……」

 フロレンツィアが言いかけた言葉は、彼女達を取り囲んでいる魔女達の続く行動によって途絶えた。周囲の魔女はナノとフロレンツィアに向かって先刻エスペランサに放ったのと同様の刃を生成し始めた。

 二人はほとんど同時に攻撃の兆しを察知し、互いに言葉を交わすことすらなく、その場からできる限り離れるべく地上に向かって出せるだけのスピードで降下し始めた。その逃げ道すらも塞ぐように魔女達が雨のように一斉に刃を降らせる。

 背後を振り返った二人の目には迫りくる死が映っていた。死を予感した直後、彼女達は何者かに手を取られるのを感じた。次の瞬間には地上に降りていた。数メートル先の地面に無数の刃が突き刺さっていく。

「イレーネ」

 ナノが友人の姿を隣に見て、安堵の声を漏らす。

「ありが……」

安堵も束の間、彼女の表情が俄かに強張った。その時の彼女の瞳には自分の命を救ってくれた友人よりも、その背後に俄かに出現した魔女を捉えていた。

 ナノの手が虚空を切る。

 先刻まで確かにそこに居たはずのイレーネとその背後の魔女が瞬きすらする間もない一瞬で消えた。イレーネの瞬間移動の能力が使用されたかのようだったが、イレーネ自身がその能力を行使したとも考え難かった。

「イレーネ!」

ナノとヘレナの叫び声が重なる。

 フロレンツィアがその声に二人を振り向く。

「なに!?」

「イレーネが消えた!」

 ナノが素早く答える。それよりも早くヘレナまでも姿を消した。しかし、今度は他の魔女の姿は近くに見られなかった。

「ヘレナ!」

「何?どういうこと?」フロレンツィアが困惑の声を漏らす。

「ヘレナはイレーネの能力をコピーしていた?」ナノは答えるより先に尋ねた。

「分かりません。けどコピーしていてもおかしくはないと思います」

「そんな……」

 ナノの口から溢れたその呟きはフロレンツィアが言ったことに対してではなかった。彼女は空を見上げていた。そこにはその一帯の空を埋め尽くさんばかりの無数の刃があった。ナノもフロレンツィアも次に起こる事態を悟り、表情を失った。

 雨の如く刃が落ちてくる。

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