4章 私ではない私より

4-1 私ではない私より

 カーテンを締め切った薄暗い部屋。静かで沈鬱な空気に満ちている。隅のベッドの上の膨らみが僅かに動く。

 寝ていた少女が起き上がる。彼女は薄暗い部屋の中を横切り、ユニットバスルームに向かった。用を足し、それから寝巻きを脱ぎ、浴槽に入る。シャワーカーテンを閉め、蛇口をひねる。軽く体を洗い、バスルームを出ると、ブラウスとフレアスカートを着て、髪を乾かし、整える。カーテンの隙間から漏れ出る陽光が彼女の洗いたてのブロンドの髪にきらめきを与える。

 その一連の行動を監視室で見ていた男が、手持ち無沙汰を慰めるように呟いた。

「昨日は早く眠りについたらしいが、相も変わらず、同じ時間に起きて、しょんべんして、シャワーを浴びる。いつも通りだ。全て見られているなんて俺なら半日も経たず、発狂してしまう」

「彼女たちには監視カメラの存在を教えていないからな」隣の同僚がその呟きに呼応する。「知っていたとしても、刷り込みの作用で気にすることはないだろう」

「恐ろしいことだ」

 

・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 チセは平静を装い、いつも通りの朝の振る舞いをした。全て見られることも知っている。とりわけ用を足すところや裸を見られることには強い嫌悪と恥辱を覚えていたが、それでも魔法で誤魔化すことをせず、全てをありのまま、いつも通りに見せた。僅かな動揺も見せていないし、部屋に隠すように仕込まれている監視カメラの存在に気づくような素振りも一切見せていない。

 髪を梳かし終えると、チセは食堂へと向かった。そこには彼女と同じ子どもたちが各々に長テーブルの好きな席に着き、端の配膳台から各自取ったパンやらサラダやらを黙々と食べていた。チセも配膳台から適当にパンとスープとサラダを取り、空いている席に座る。

 他の子どもたちと同様に黙々とパンを口に運びながら、チセは過去にこの場で起こった惨劇を思い起こした。あの時、ゴーストの記憶操作の能力が暴走した。意図した形での大規模な記憶の書き換えは魔力量の高い魔女にしか効かないが、意図しない形であれば、その限りではない。ナノの能力の覚醒と暴走が相まって、その結果が最悪のものとなった。しかし、今度は逆の結果を得られるかもしれない。一瞬その考えが彼女の頭をもたげたが、すぐに惨劇の記憶がその希望的観測を塗り潰した。チセは自らの罪悪と怯懦とともにパンとサラダを咀嚼し、スープを飲みこんだ。

 朝食を食べ終えると、チセは再び自室へと戻り、ベッドへ入ると、掛け布団を頭まで被った。それから目を閉じ、記憶の魔女の記憶を覗く―――ただその一点に意識を集中した。

 記憶の魔女はチセに自身の記憶を埋め込んだ。チセはその事を知ってから、その記憶を掘削することに注力していた。何も知らず、何かを成そうとする事程怖い事はない。彼女はこれまで何者でもなかった。ただ言われた事をやり、期待される行動のみをとってきた。あたかも操り人形のような振る舞いを強制され、許容し、そのようにあり続けた。自らの意思がなかったわけではない。ただそれは漠然としていて、彼女に課された規範から逸脱するものではなかった。彼女は無知で純粋で、そして愚鈍であった。何も知らず、何かを成すために行った行為は打撃として返ってきて、何も知らずに他者に向けた愛は虚しい喪失感だけを残した。故に彼女は知ろうとした。


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 記憶の魔女の全てを知ることは不可能であった。見る事ができた記憶のほとんどが強く焼き付いて消えることのないであろう記憶であった。

 彼女の能力は強力で、他者のあらゆる記憶を覗くことができ、またあらゆる記憶を書き換える事もできた。ただし、人間に対しては直近の記憶の書き換えしかできず、また人間に対して記憶操作の能力を使用すれば、自らの記憶が消えるという欠陥があった。失う記憶に法則性はなかった。些細なものから大切なものまで消え去る。しかし、本人は忘れた事実さえ覚えていられない。彼女はそれと知らず、人間に対して記憶操作の能力を使った。最初は父に対してであった。無意識であった。彼女が犯した家族殺しの記憶を奪った。それからも幾度か能力を人間に使った。そして忘れ去りたかったことを忘れた。家族の記憶である。家族との記憶を失っても、彼女はその温もりを忘れ去る事はできなかった。

 彼女の中には二つの衝動と欲とが混在していた。人間に対する殺人衝動と、それと相対する、人に愛されたいという欲である。誰にでも愛される曇りのない者になりたいわけではなかった。彼女の望みは、ひとえに一人だけであっても誰かに愛され、その幸福の記憶の中にあることであった。しかし、魔女故の人間に対する殺人衝動がそれを許さなかった。彼女自身が彼女の望みを拒絶した。魔女としての生が彼女を人の社会から弾き出した。自らを人間と偽り、彼らと共にあろうとも試みた。だが、魔女の血が、それを許さなかった。魔女と人間が共にあれば、親切は虚偽に、喜悦は哀傷に、愛は憎悪に変わった。帰る場所も行く場所もなく、彷徨った。自分を愛してくれる者は皆、消えた。消したのは他でもない彼女自身であった。彼女は自らの境遇を呪った。魔女である事を呪った。同時に、魔女である故の罪を見、それに対する永罰を受け入れようとさえした。

 彼女が始まりの魔女と呼称する少女と出会ったのは、そんな時であった。始まりの魔女は、彼女と同じ地の生まれであったが、互いに顔も名前も知らない者同士であった。だが、不思議と惹かれあった。孤独という相似が、彼女たちをくっつけた。彼女は次第にその少女の中に自らの望みを求めるようになっていた。

 ある日、始まりの魔女は彼女に、魔女だけの世界を作る話を持ちかけた。

「突然の別れや孤独に怯える必要もない。温かく、豊かで、殺しも殺されもしないそんな地を作るんだ」

始まりの魔女は彼女にそう言った。

「一体どうやって?」彼女は尋ねた。「この世界にそんな場所を一体どうやって作るっていうの?」

「場所は決めてある。私たちの生まれ故郷だ。あそこは良い場所だっただろう。気候は穏やかで、水も資源も豊富、豊かな土地だ。あそこに私の力で人間が入ってこられない巨大な隔離空間を構築する。仲間の中に他者の力を増幅できる者や、あらゆるものを元通りに復元できる者もいる。私が生きている限り、隔離空間は維持され続ける。いや、私が死んでも維持できるシステムを隔離空間に組み込むつもりだ」

「確かにあなたの力と、あなたが言っている仲間の力があれば実現できるかもしれない。でも今、あそこにいる人たちはどうするの?」

「私達と同じ魔女にする。できない者は殺すしかない」

「そんなの……」

「できる。私の仲間は皆、強い。心配する必要はない」

「……私はそんなことしたくない」

「そうでもしなければ私たちは安息の地なんて手に入れられない。あなたがやらなくても、私たちがやる。同じことだ。もし私の提案を断るなら、あなたは誰からも思われず、一人孤独に死んでいくだけだ。それは記憶の魔女なんて言われているあなたが一番恐れていることなんじゃないの?」

始まりの魔女は、それからさらにもう一つの計画を彼女に話した。それは彼女が作り出そうとしている隔離空間内で魔女がもつ人間に対する攻撃本能を徐々に殺していくというものだった。

「人の意思に関わらずあらゆる者を支配し、コントロール下に置ける能力を持つ魔女が居る。彼女の能力や他の幾人かの魔女の能力を合わせれば実現可能だ」

 人間に対する攻撃本能、殺人衝動が消え去れば、たとえ隔離空間が消え去っても、人間社会に紛れて生きていける。始まりの魔女はそう言った。それは彼女、記憶の魔女がずっと望んでいたことでもあった。だから彼女は始まりの魔女に消極的に協力した。そこに住む人間を消すことを受け入れた。


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 チセは、最初こそ記憶の魔女の記憶を見ているという意識が強かったが、次第にまるで実際にその場に居るかのような感覚に陥っていた。記憶の中に溶け込んでいく。


 辺りは炎に包まれていた。闇夜の中、パチパチと音を立てながら、そこにあるもの全てが崩れ去っていく。チセはその火の海のなかに呆然と佇んでいた。すぐそこに燃え盛る建物があるのに全く熱を感じなかった。逃げ惑う人の悲鳴が耳の奥まで響いてくる。

「私たちは隔離空間を作るにあたってそこに暮らす人間のほとんどを魔女に変えた」

 突如の背後からの声にチセは振り返る。そこには記憶の魔女の能力を転写したゴーストが佇んでいた。

「魔女がばら撒くウイルスに対するワクチンの効果により魔女に変えられなかった人間たちは殺した」

 燃える家屋から逃げ出してくる女性が、助けを求めるようにチセの方へと走ってきた。恐怖に歪んだ顔がチセの目に焼き付く。その女性はチセの体をすり抜けた。チセが女性を振り返った刹那、女性の上半身が弾け飛んだ。血飛沫がチセへと降り注ぐ。が、それらは彼女の体をすり抜け、地面に赤黒いまだら模様を作る。倒れゆく女性の下半身の向こうには先には記憶の魔女が居た。記憶の魔女と目が合う。

 記憶の魔女は、目を見張ってじっとチセを見つめていた。強い衝撃を受けたかのような無表情であった。その足元にはグロテスクな肉塊が転がっていたが、彼女はそれを一瞥だにせず、チセだけを見ていた。

 チセは動けなかった。自分を見ているはずがない。自分は今彼女の記憶を覗いているだけで、そこには居ないはずなのだ。頭の冷静な部分でそう考える一方で、胸の内には強いざわめきがあった。

 記憶の魔女のさらに後ろに始まりの魔女が飛び去っていくのが見えた。逃げる人間の悲鳴が遥か遠くにあるように聞こえた。何もかもが分厚い膜の向こうの出来事のようであった。記憶が頭をもたげる。その時、忘れていた罪を思い出した。

 家族との記憶を取り戻した。思い出したのは記憶の魔女であるはずなのに、まるで自分のことのようにチセにもその感覚が伝わってくる。母と妹を殺し、父の記憶と歩行機能を奪った事実を思い出した。

「私は……」

記憶の魔女とチセの口から同時に言葉がこぼれ落ちる。目の前には死にゆく人々の姿があった。「何だ」


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 隔離空間での暮らしは記憶の魔女がずっと希求していたものであった。彼女を慕ってくれる者がいて、それらを失う心配もない。

 彼女は幸福の中にあった。だが満たされてはいなかった。影絵のように、幸せの温かな光が、彼女の過去の罪をまざまざと照らし出した。家族を殺した罪、なんの罪の無い人間の虐殺を止めもせず、ただ見る事で、自らの手を汚さず、今の暮らしを享受している事実、それらが彼女を絶えず責め立てた。

 楽しげに公園で遊ぶ子どもは、彼女を慕っていた妹の記憶を呼び起こし、腹に大きな穴が空いたその死体を思い出させ、赤々と燃えるような夕焼けは、母と共に家に帰りながら、たわいの無い話をした幼き日の思い出を蘇らせ、そして首が捻じ切れた母の死体を思い起こさせた。

 夜、床に着いて目を閉じると、その瞼の裏に最後に見た父の困惑と絶望の無表情見た。夢の中では、隔離空間を作るために殺された女性の恐怖に歪んだ最後の表情を見た。

 彼女の苦悩とは裏腹に、隔離空間の社会は不自然な程上手く回っていた。その社会はあたかも古くから存在し、長い歴史の蓄積の上に成り立っているかのようで、誰もその土地を人間から奪い取ったものであることさえ覚えていないかのようであった。誰もが隔離空間が生まれる以前の記憶を失っているようで、また同時にその失った記憶は、隔離空間内の社会における偽の記憶によって補完されているらしかった。それはまさに彼女の記憶操作の能力であった。だが、彼女によるものではなかった。

 それは始まりの魔女が構築した隔離空間のシステムの作用によるものであった。空間内の個々の魔女の能力を吸収、使用し、全体に効果を及ぼす―――そうすることで、空間自体の維持と、そしてその中の秩序の構築維持を実現するシステム。能力の欠点を補い合う形でより強力な影響を与えるシステムである。始まりの魔女は、記憶の魔女である彼女の能力を借りて、隔離空間の秩序を構築するにあって不純物であり、異物となり得る外の記憶を皆から奪い、書き換えた。

 しかし、この記憶操作は、記憶の魔女である彼女には作用しなかった。忘れたくとも、過去を忘れる事ができず、過去から逃れることはできなかった。また彼女程ではないものの、脳に作用するような能力を持つ一部の魔女もまたこの記憶操作の影響を多少免れた。

 半端に残った記憶はその者達に、始まりの魔女への不信感を植え付けた。さらにその中に、始まりの魔女の能力の欠陥を知った者が居た。その者は殺された。

 殺されたのは彼女の友人であった。


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 日が沈みかかった頃、薄暗い部屋の中。窓の側に置かれた椅子に記憶の魔女が腰掛けているのを、チセは正面から見ていた。隔離空間が生み出された時よりも身長は伸び、顔立ちからも子供らしさが消えていた。

 記憶の魔女は深い穴の底を見るかのように俯き、じっと床を睨みつけていた。窓から差し込む斜陽の橙色の光がその様を照らし出す。背後からの光により強く陰ったその顔には強い憎悪が滲んでいた。

 チセのさらに後ろには記憶の魔女の能力を転写したゴーストが佇んでいた。ゴーストが口を開く。

「私もまた、始まりの魔女の能力の欠陥を知っていた。殺された友人から聞いていたからだ。

 そもそも始まりの魔女の能力は、特殊な領域を作り出し、その領域内に存在する魔女の、力の一部を吸収し、その能力を領域内のどこに対しても使用することができるといったものだった。

 始まりの魔女の能力の欠陥は、領域内の魔女をその領域を維持するシステムに否応なしに取り込んでしまう事にあった。彼女のその能力によって生み出された隔離空間は、その中の全ての魔女の魔力を僅かずつ吸い取ることで維持されており、隔離空間を維持する以上、始まりの魔女自身でさえこの機能を止める事はできなかった。

 隔離空間の全ての魔女が、隔離空間という領域のシステムと繋がっていた。そして、魔力を吸引されている時は、始まりの魔女以外にも、そのシステムに干渉できた。始まりの魔女が他の魔女から記憶を奪った主たる目的は、この脆弱性を隠すためだった。彼女は隔離空間のシステムが悪用されることを最も恐れていた。そのために彼女は、この欠陥を知る者、気づき得る者が生まれないように、人々から隔離空間の存在自体の記憶を奪った。

 隔離空間そのものを認識できていなければ、たとえ体内の魔力の微量な減少に気づき得てもその原因まで行き着かない。隔離空間の創造にあたり、始まりの魔女が私に声をかけたのは、私を思っての事ではなかった。彼女は私の能力の利用価値だけを見ていた。

 彼女は私の能力に価値を見ると同時に、私を恐れてもいた。私だけが唯一、隔離空間の存在を認識し、そしてその欠陥までも知ってしまっていたからだ。彼女は隔離空間を生み出して以降、異常なまでに他者に対し懐疑的で臆病になっていた。彼女は私に接触しようとしなかったし、私が彼女に近づこうとすることも許さなかった。そして、私の友人を手にかけてからは彼女の私に対するその怯懦はより大きくなったらしかった」

 ゴーストが部屋の外に通じる扉を指差した。直後、魔力で作られた細長い刃がその扉を突き破り、チセの横腹を掠めるようにして部屋の端の椅子に腰掛けている記憶の魔女目掛けて伸びていった。

 刃は記憶の魔女の手前で霧散した。記憶の魔女が顔を上げ、扉に開いた小さな穴を睨む。穴からは廊下からの光だけが漏れ出ていた。

 誰も居ないかのような異様な静寂の刹那、記憶の魔女が、扉に向かって魔法で生成した無数の腕を伸ばした。腕の群は扉をすり抜け、その先に居る者を捕縛し、扉が壊れるのも構わず無理やり部屋の中に引きずり込んだ。

 記憶の魔女は、生成した腕で襲撃者を眼前まで引き込むと、床に腹這いに押さえつけた。キャペリンハットを目深に被った14、5歳程の茶髪の少女であった。

「あなたは誰?」

 記憶の魔女が椅子に腰掛けたまま、彼女を見下ろし、問いかける。少女は答えなかった。記憶の魔女もそれ以上は尋ねなかった。少女の荒い息の音だけが、静寂の中に響いていた。

 太陽が沈んでいく。二人を包み込んでいた橙色の光が消え、部屋の中には再び薄闇が落ちる。記憶の魔女は椅子から立ち上がると、彼女を見上げる少女の額に手をかざした。直後、少女は意識を失った。

「この日、私の中に微かにあった疑いが消えた」

 ゴーストがまた口を開いた。「すべて私の思い違いで、友人の死と始まりの魔女は何の関係もないのではないかという疑いが」


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「それから私の生活は一変した。ベッドで眠っている時も食事をとっている時も、いついかなる時も私に安息はなかった。始まりの魔女は私を殺すことに躍起になっていた。私を殺しに来た者達は皆、私を憎むように記憶を書き換えられていて、その上、支配の魔女の能力により、記憶の魔女を殺せという命令までも書き込まれていた。だが、幸いにも、支配の魔女の能力による命令は永続的なものではなく、一日程度しかその効力が続かないようだった。さらに記憶操作に関してはその能力のオリジナルである私の方が長けていた。始まりの魔女が書き換えたものも含め、襲撃者達の記憶は、私の能力により更に書き換えることができた。また私は隔離空間のシステムへアクセスし、隔離空間内の魔女全員に対して、始まりの魔女が私を殺すように仕向けて植え付けた記憶を消し、それから再度同じ事が行われないように私に関する記憶の植え付けや書き換えができないように処置を施した。その時はそれ以上の事はしなかった。隔離空間の秩序を掻き乱すつもりはなかったんだ。私は、ただ死にたくなかっただけだ。だから隔離空間の外に出る事を決めた。なのに……」

 刹那、辺りの景色が一瞬にして切り替わった。

 森の中を記憶の魔女が歩いている。暖かそうな木漏れ日の光が彼女のブロンドの長い髪を輝かせていた。周囲の穏やかな風景と相対して彼女の表情は強ばっていた。

 チセは足を動かしてさえいないのに、一定距離を保ったまま彼女の後ろをついていく。

 程なくして、薄緑の光の壁に行き当たった。隔離空間の果てである。記憶の魔女はその光へと手を突き出した。そしてその光に触れた瞬間、驚いたように目を見張った。

「出られなかった」

 チセの背後でゴーストが言った。

 記憶の魔女は、幾本もの刀を作り出し、それらで光の壁を斬りつけている。何度も何度も―――。

「始まりの魔女は私を恐れていたけど、同時に隔離空間から私の能力が失われる事も恐れていた」ゴーストが続けて言う。「作られて間もない隔離空間内の社会が異様なまでに秩序立って機能していたのは、私の記憶操作の能力によるところが大きかった。元々この地で暮らしていた大半の人間は殺されずに私達と同じ魔女にされた。人間だった頃に教諭をしていた者はその記憶の一部を書き換え、そのまま教諭に、医者だった者は医者に、更にその者達が持つ専門的な記憶を他の者に植え付けたりもした。記憶操作の能力がある限りは、専門的な知識を持つ者が死のうと何度でも同じようにその者の記憶の一部を別の者に植え付ければ、その知識が隔離空間から失われることはない。永遠に今の社会秩序を保つ事ができる。始まりの魔女はそう考えていたらしかった。故に私を外に出さずに、隔離空間内で殺そうとした。隔離空間内で死んだ魔女の能力は、隔離空間が吸収する。吸収した能力は、始まりの魔女が自由に使用できるし、また別の魔女にその能力を植え付ける事もできた。彼女は私の能力を恐れていたけど、また欲してもいるらしかった。だから隔離空間内での私の死を望んでいた」

 ゴーストが口を閉ざした瞬間、記憶の魔女の背後に突如として、黒髪の短髪の男性が現れた。先刻まで誰もいなかった場所に瞬間移動でもしてきたかのように出現したその男の手には短刀が握られていた。男はそれを記憶の魔女の首筋目掛けて斜めに振り下ろした。しかし、刃が彼女の首に当たる直前で止まった。

 記憶の魔女は隔離空間の壁を斬りつけていた刀の形状を即座に紐状に変異させ、それらを素早く操り、背後の男の四肢を縛り上げた。彼女が地に倒れ伏す男の額へと手を伸ばしかけたその瞬間、四方八方から無数の刃が飛んできた。避ける間隙さえなかった。

 記憶の魔女は男に冷たい視線を落としたまま、一歩も動かなかった。彼女に向かって放たれた無数の刃は、彼女に到達する前に霧散した。

 記憶の魔女が周囲を一瞥する。直後、上空で血飛沫が上がり、彼女の周囲の木々から次々と黒い影が落ちた。落ち葉の上に赤黒い血溜まりを作る。

 チセは記憶の魔女の近くに倒れている襲撃者の死体を一瞥し、それから記憶の魔女に視線を戻した。彼女はチセの側の死体を見つめていた。その目は大きく見開かれていた。

「友人でも居たか?」

 不意に木陰からブロンドの長い髪の少女が現れた。年のほどは15、6程に見えたが、どこか大人びた雰囲気を纏っていた。その少女を振り返ったチセの目は、記憶の魔女と同じく、驚愕と衝撃に満ちていた。

 彼女はチセと瓜二つであった。

「君は……?」記憶の魔女が問いかける。

「覚えていないか。8年前、あなたたちがこの地を襲った時、私はあなたに会った。あなたも私を見ているはずだ。私がまだ小さかったから分からない?燃える街で、ちょうど今のように女性の死体があなたの傍らに倒れていた。私はあなたを見ていた。あなたも私を見ていた」

「あの時の……」

 記憶の魔女は、はっとしたように小さく呟き、それから「どうして」とはっきりと声を上げた。

「どうして覚えているの?」

「私はあなたとあの場所で会った時、あなたの能力を貰った」

「貰った?」

「私の能力は他者の性質、能力の転写だ。私自身の魔力で作り出す特殊な依り代に、あらかじめ読み取った他者の能力を写し込める。私は、あの時、あなたの能力を転写した」

「私の能力を?ならあの時私が過去の記憶を取り戻したのは……」

「意図してやった訳ではない。転写したばかりの能力は意のままに使えるわけじゃないから。ただ、私が今そこの壁の外の記憶を持つのは、あなたの能力を転写していたおかげだ。記憶を書き換えられても、元の記憶を呼び戻すことができた」

「君はすべてを覚えているわけか。何が望み?復讐?」

「ここに親しい人間が居たわけでもないし、あなた達を憎んでなどいない。むしろ私はあなた達に救われた。私は魔女の生態を解明する為の実験体としてこの地に連れて来られた。人間に捕らえられた魔女は殺されるか、モルモットにされるかのどちらかだ。私は後者だった。あなた達が攻めてきた時、研究所は混乱状態にあった。その混乱を利用してなんとか逃げ出せた」

「その研究所は今……」

「建物は残っているが、研究の痕跡は消えていたよ。表向きは、大学の研究施設だった。今は本当にただの大学の施設でしかない」

 少女は足元の死体に視線を落とし、それから記憶の魔女のさらに向こうにある隔離空間と外とを隔てる壁に目を向けた。

「私の望みが何かだったな。私の望みはその壁の外に行くこと、そしてあなたを壁の外に出すことだ」

「私を?」

「あなたには外に会わなければならない人が居るだろ」

「私の記憶を見たの?」

「少しだけだ。ただ、あなたの父親のことは、あなたの記憶を見る前から知っている。彼が私をこの地へ連れて来た」

「なんで……?」記憶の魔女の震えた声が木々の間を抜けていく。

「彼が捕らえた魔女の利用を主導しているからだ。彼は魔女を根絶やしにする事を望んでいる。自分の娘が魔女になった事も忘れて」

 俄かに太陽に雲がかかった。森の底に暗澹たる影が広がっていく。記憶の魔女はそれを絶望の目で見ていた。

「あなたが彼の記憶を奪わなければ、彼は魔女の根絶を望みはしなかったかもしれない。あなたがのうのうとこの場に留まっていなければ、あれから失われたであろう魔女の命の幾つかは救えていたかもしれない。あなたが……」

「もう十分だ……!」

記憶の魔女がその拳を強く握り締め、少女の言葉を遮るように言った。「言われなくても分かっている。私は過去から目を逸らし続けた。何もかも忘れてしまいたかった。……全て私のせい、そうだろ……!」

「あなたには責任がある」

相対する少女の声には責めるような響きはなかった。ただ淡々と事実を述べるかのように続ける。「過去の行為への責任が。ただそれは他者に対して負っているものではない。あなた自身があなた自身に対して負っているものだ。過去から目を逸らし、生きるのも良いだろう。私以外、誰もあなたのその過去を知らない。誰も責め立てはしない。自分自身を除いては。誰からも責められる事がないのに、自らが絶えず自らの喉元を締め付ける。耐えられないなら、忘れ去りたい記憶を奪ってあげても良い。今の私にならそれができる」

 記憶の魔女は自らの手のひらに目を落とし、そこにこびりついた見えない血を見ているかのように顔を歪めた。

「私の汚辱、私の罪悪、それらを忘れられれば幸せかもしれない。だが、それはもう私ではない。私ではない私の幸せ、ただそれだけのために、父さんを苦しませ続ける。それだけのために他の魔女を見殺しにし続ける。できるわけがない」

「ならあなたは戦わなければならない。私たちが私たちである限り、安寧なんてない。だからと言って何もしなければ、希望のない暗闇の中で朽ち果てて死んでいくだけだ。始まりの魔女はこの箱庭に希望を見た。その希望のためにあなたを殺そうとしている。本当にその壁の向こうに行きたいなら、あなたは戦わなければならない。ただ自分の身を危険から遠ざけ、守るだけではどうにもならない。彼女の望みを否定し、踏み越えなければならない。そして一度踏み越えたら、今のところに戻っては来られない。踏み越えた先が地獄であっても、進み続けるしかない。自らの行いが産んだ結果に報いる為に」

 記憶の魔女は顔を上げ、少女を見た。少女の目には強い覚悟の光があった。

「君はどうして外に出たいの?」

「私の過去、あり得たはずの私の未来、私ではない私……」

 少女は記憶の魔女をまっすぐと見ているはずだが、まるで鏡を見るかのようにその手前のチセを見ているかのようでもあった。

 俄かに雲の隙間から太陽が再びその姿を現し、木々の葉の隙間から森の底に幾本もの光の細長い筋を落とす。そこに転がる死体も、少女も、記憶の魔女も一様に光に包まれる。

「それらに報いるためだ」

 

・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 その日を境に記憶の魔女は始まりの魔女と明確に敵対した。襲ってくる者から身を守るだけでなく、自らが始まりの魔女の力を弱める為にあらゆる手段を講じた。二人の対立は、隔離空間全体に影響を及ぼした。秩序だった社会に僅かな綻びを生んだ。人間だった頃の記憶を取り戻す者も現れた。その中には転写の魔女を捕らえていた実験所の研究員だった者もいた。

 だが、記憶の魔女も始まりの魔女もそのことに気づくことなく、争い続けた。その闘争は、始まりの魔女の死で決着を見た。彼女が死んでもなお、隔離空間は維持され続けたが、その力は弱まり、記憶の魔女は外に出られた。そして同時に、記憶を取り戻した者により人の侵入をも許した。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 記憶の魔女が隔離空間の壁を抜けたのは、夕暮れ時であった。そこには背の低い草に覆われた平原と赤々と燃えるような空があった。彼女は遥か彼方にある血のように赤い空の果てを見、雑多な思考や観念に憑かれたように顔を歪め、そしてその空から目を逸らすように顔を手で覆った。

 チセはその様子を隣で一部始終見ていた。

「私は多くを失って、ようやくこの場所にたどり着いた」チセの背後のゴーストが言う。「彼女、あの転写の魔女までも始まりの魔女との争いの中で失った。私もまたそう長くはなかった。私は魔女としての能力を酷使し過ぎた。自らの限界を超えて能力を使えば、必ずどこかに歪みが生まれる。私の場合は脳にその影響があった。記憶を日に日に失っていた。何の前触れもなく自失する事も多かった。あなたと会った時、私はきっと多くを忘れてしまっていたと思う」

 ゴーストの言葉に呼応するように辺りの景色が変わる。

 そこは白い蛍光灯の光が眩く降り注ぐ広い部屋の中であった。扉もカーテンも締め切られ、外の様子は一切窺い知れない。部屋の中には何台ものベッドが規則的に並べられている。記憶の魔女は部屋の中央にあるベッドの前に佇んで、そこに横たわる赤子を見下ろしていた。

「あなたは何も知らずにいた方が幸せなのかもしれない。でもあなたではないあなたなら、きっとこうしたはずだ」

記憶の魔女が口の中で呟く。

「ごめんね」

 彼女は赤子の小さな手をその大きな両の手で包み込んだ。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 その光景を見た刹那、チセは暗闇の底に落ちた。俄かに落とし穴にはまったかのような感覚に襲われ、彼女は目を開けた。そこもまた暗闇であった。

 チセは掛布団を払いのけ、ベッドから体を起こした。カーテンの隙間から漏れ出る日の光の先、部屋の隅には、ゴーストが佇んでいた。もうそれは何も話さない。

「あなたは父に会えなかったの?」チセが囁く程の声で言った。「何もかも忘れてしまったの?」

 ゴーストは答えない。ただそこに佇んでチセを見つめるばかりであった。

「私の過去、あり得たはずの私の未来」チセがぽつりと呟く。「私ではない私……」

 彼女はまだ過去を見ていた。記憶の魔女の過去ではない。自分自身の過去である。エリザやウルリヒ、彼女に優しくしてくれた人達は前触れなく居なくなった。チセが生まれるずっと前からこの世界は彼女に優しくできてなどいなかった。誰からも平等に奪っていく。

「あなたの望み……」

 頭の中には様々な思考、古い思い出や最近の記憶が脈絡なく駆け巡る。

 ウルリヒの死、ナノとフロレンツィアとの永別、最後に見たナノの大きく見開かれた目、血に濡れたウルリヒ、痙攣するフロレンツィアの瞼、後ろをついてくる幼い頃のナノ、床に丸まって絵を描くエリザの後ろ姿、バラバラになった彼女の肉片、血に濡れたフロレンツィア、楽譜をめくるウルリヒの大きな手、彼の手に握られた拳銃、死の直前のエルヴィラの動揺の目、フロレンツィアの強い憎悪に満ちた瞳、刷り込みにより感情が抜け落ちたようなナノの姿。

 種々な記憶や感情が雑然と浮かんでは、混ざり合い、ぐちゃぐちゃに広がり、輪郭を失っていく。

「私の願い……」

 ピアノを教えてくれたウルリヒの優しい目、彼の額に開いた穴、エリザの親愛の眼差し、彼女の死の瞬間、ヘレナとイレーネに手を引かれながら嬉しそうに笑うナノ、木漏れ日に照らされたフロレンツィアの純粋な笑顔。

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