3-6 永別

 ウルリヒから、チセを第五地区ワイザンハウスから連れ出した後は彼の家に戻らず、とにかく隔離空間から遠くへ逃げるように言われていたにも関わらず、ナノはフロレンツィアとチセを伴って彼の家へと向かった。

「戻るのですか?」

 フロレンツィアは、ウルリヒの家に着く前にナノに問いかけた。

「チセをあの場に繋ぎ止める者がいるなら、彼しかいない。だからもし彼に共に逃げる気があるなら、彼も連れていく」

「……そう」

 フロレンツィアは、チセを背負って前を歩くナノの後ろ姿を見つめるばかりで、それ以上何も言わなかった。

 ウルリヒの家の扉には鍵が掛かっていなかった。ナノはチャイムを鳴らすことすらせず、中に入り、そのまま居間へと進んだ。そして眠るチセを居間のソファに横たわらせ、家全体を彼女の魔力で数秒だけ包み込んだ後、居間の扉の前に立っているフロレンツィアを振り向いた。それからまたチセへと目を落とした。暫し考えるような間があった。

「フロレンツィア、手遅れかもしれないけど、二階の一番手前の部屋を見てきてくれない?」

低く沈んだナノの声と、彼女の言葉からフロレンツィアは瞬時に察し、二階へ駆けていき、その手前の部屋の扉を開いた。

 シーリングライトの明かりに照らされた赤黒い血溜まりが彼女の目に飛び込む。

 そこには血に濡れたウルリヒがベッドのサイドフレームにもたれかかるように横たわっていた。

 生気のない目が彼女を見つめている。

 フロレンツィアは瞬時固まり、それからすぐに彼へと駆け寄り、膝を折った。

 胸と頭に弾痕がある。既に息はない。

「なんで……」

フロレンツィアは力なく床に手を着いた。冷たい血の感触に慌てて立ち上がる。

 血がついた手のひらに目を落とす。ぬらりと滑り落ちるように一滴の赤い雫が床に落ちる。鉄にも似た匂いが鼻の奥を突く。つい先日も同じような匂いを嗅ぎ、同じような光景を見た。心臓が痛い。うまく息ができない。フロレンツィアはあまりの息苦しさに屈み込んだ。

 刹那、彼女は、階下で何かを床に叩きつけたような大きな音を聞いた。ナノに、チセに何かあったのか、そう思い、立ち上がろうとしても、うまく息ができず、動くことすら苦痛であった。

 階下での物音はそれから連続的に続いたが、すぐに収まった。同じく息苦しさも長くは続かなかった。

 フロレンツィアが肩で息をしながらゆっくりと立ち上がった瞬間、何者かが階段を登ってくる音が響いてきた。先刻の物音が何だったのか、今階段を登っているのが誰なのか、彼女には予想がついた。

 フロレンツィアは側の死体に目を落とした。

 見せるべきではない。この部屋から出る……ダメだ。間に合わない。隠さなくては……! 

 フロレンツィアは魔法を使い、遠隔で部屋の照明のスイッチを切り、死体を宙に浮かせた。そして、ベッドの掛け布団を掴み上げ、血を隠すように床に放る。それから急いでベッド脇の窓を開け、死体を外へと移動させた―――その時

「どうして……?」

震えたか細い声が背後から聞こえた。フロレンツィアはまた強い息苦しさを覚えた。心臓が痛いほど鼓動する。

 後ろを振り向く。そこには塑像のように固まって、じっとある一点を見つめるチセの姿があった。彼女の視線の先、窓の外には月明かりに照らされたウルリヒの死体が浮かんでいた。頭に開いた穴から血が滴っている。青白い月明かりと廊下から漏れ出る光により、明らかな死がありありと照らし出されていた。

「違う、私じゃ……」

フロレンツィアは声を絞り出した。しかし、ほとんど言葉にすらなっていないようにさえ思えた。

 ウルリヒにかけた浮遊魔法が解ける。直後、コンクリートと人体とがぶつかる鈍い音が響いた。フロレンツィアはまぶたの震えを感じながら、窓の方を振り返る。そこにはすでにウルリヒの姿はない。

「違う……」

 フロレンツィアはまたチセへと視線を戻し、そして彼女の目のうちに深い悲しみと絶望を見た。自身の無実を伝えようとしたが、上手く口が開かなかった。それどころか、体に力が入らない。体と精神とが解離したかのように噛み合わない。

 フロレンツィアは糸の切れた操り人形のようにコトリと倒れ、意識を失った。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 倒れたフロレンツィアに向かってチセがゆっくりと歩いていく。

 雲に月が隠され、部屋の中に薄闇が落ちる。

 チセは、フロレンツィアの手前で足を止め、ウルリヒが消えていった窓の向こうに目を向けた。

「私だけの望みを優先させたら、やっぱりダメだったんだよ」

 誰にともなく呟いたその言葉は、暗い部屋の中に悲しげに響いた。

 チセの頬を一筋の涙がゆっくりと流れていく。

「あなたが殺したの?」

 月を隠していた雲が晴れ、外から差し込む一筋の光が彼女とフロレンツィアを包み込みように照らし出す。

 涙の滴は静かにフロレンツィアの下瞼へと落ち、そして深い眠りに落ちた彼女の頬を撫でるように床へと流れ落ちた。

 チセは部屋の扉の方へと振り向いた。そして、そこに佇む男を睨むように見た。

「私ではない」男が言う。

「どうしてあなたはここにいるの?どうしてナノは私の所に来たの?あなたがナノを逃す約束だったでしょう」

チセは捲し立てるように言う。「デニス・アルトナー」

 デニスは沓摺りの上に立ち、真っ直ぐチセを見つめていた。

「ナノは逃した。彼女は自らの意志でお前を助けに行った」

「そうしないように仕向けるのもあなたの役割だったはずだ。今更になって無意味な情が湧いたか」

「……ナノには情もある。負い目もある。お前の力を知って、俺の復讐はお前によって完遂できると踏んだ。ナノの力を知って、彼女だけは逃がせると踏んだ。だが、最後の最後になって彼女の意志を汲んでしまった。今まで幾度となく踏みにじってきたのに」

「ふざけるな!お前はただの自己満足でナノを危険に晒しただけだ!」

「そうだ。俺はナノを危険に晒した。彼女に、最も残酷なことをそれと知らずやらせることに耐えられなかったからだ。彼女にお前の危機を伝えれば、必ず助けに行くと分かっていながら、彼女に話した。お前を見殺しにさせさえさせれば、彼女の安全が手に入る。だが、俺は己の意志で、彼女を絶望の底に落とすことは出来なかった。俺は卑怯な男だ。お前にその選択を委ねた」

「なら、もし私がナノと共に逃げると言っても、あなたは満足できるわけだ」

「文句はない」

「文句はない、だと?お前に私の行動に口を挟む権利があるとでも思っているのか」

チセが吐き捨てるように言った。デニスを睨む彼女の目には強い嫌悪と軽蔑の色があった。「お前のその衝動的で身勝手な行動のために全てが台無しになりかけた」

 チセはデニスに背を向け、フロレンツィアへと屈み込んだ。

「ごめん。辛い思いばかりさせて……」

それからそう小さく呟くと、彼女を抱き抱え、部屋の外へとゆっくりと歩き出した。

 デニスは扉から僅かに離れる。

 部屋の外に出てすぐにチセは足を止めた。

「一つ聞かせて。あなたはナノを逃すとともに、彼女の能力を借りて自分自身も組織から逃げて身を隠し、成り行きを観察していたのでしょう。だから今こうしてここに居る。あなたは、ウルリヒさんが殺されることも分かっていたはずだ。彼を見殺しにしたの?」

「わざわざ聞かなくても分かっているだろう」

「クズが……!」

 チセはフロレンツィアを抱えて、階下に降りると、居間へと入った。そこに置かれたソファにはナノが横たわっている。目を覚ます気配は全くない。

「どのくらいで目が覚める?」

続いて居間に入ってきたデニスが尋ねた。

「数時間は目を覚まさないはずだ。目覚めても、私のところに来ないよう私に関する記憶を書き換える。だが、私ができる記憶操作は不完全なものだ。完璧に記憶の書き換えができるわけではない。間もなく私はあの兵器の中だ。それまで忘れていてくれさえすれば良い。最初からそうすべきだったんだ。心配なのは、あなたが信用に足らない人間ということだけだ」

「もう下手なことはしない。これ以上はナノを死に追いやるだけだ」

「ナノを私のところに来させただけで十分に危険だった。あなたは私の信用を裏切った。だけど、私には今、あなたしか頼れる人がいない。あなたにナノとフロレンツィアを任せるしかない」

「これ以上ナノを危険に晒す真似はしない」

「フロレンツィアもだ。ナノと同様に彼女を危険に晒すことは絶対に許さない」

チセは、抱き抱えているフロレンツィアへと視線を落とす。友愛、罪悪感、哀情、種々の雑多な感情が彼女を見るその目に溢れていた。

「先程、消した記憶は何かの刺激で戻り得ると言ったが、それはちょっとしたことで戻るものなのか?」デニスが問う。

「どんなことで戻るかは私にも分からない。ほんの些細なことで戻るかもしれないし、一生戻らないかもしれない」

「お前はそれで良いのか?」

「……忘れてくれていた方が良いんだ。無意味に心を悩ませることもない。ナノもフロレンツィアもこんな私を友人だと思ってくれているみたいだ。だからこそ、忘れてくれていた方が良い。いつか思い出して欲しいなど望むべき事ではない」

チセはまるで自分に言い聞かせるように言い、床に膝を折った。フロレンツィアを横にし、その頭を自身の膝の上に載せる。

 それからフロレンツィアの額に手を乗せ、目を閉じた。目を閉じていてもフロレンツィアを優しく見つめているようなその様は、哀愁を誘う一枚の絵画のようであった。

 デニスは奇妙な感覚に囚われていた。

 チセは幼少期から暗闇のうちにあり、暗闇のうちで苦しみながら、その暗闇を作り出した人間を恨むことをしなかった。ひとえに無知であり、純粋であり、そして暗闇を自然でどうしようもないものと信じ込まされていたために、そこに潜む悪を直視することがなかったからだとデニスは考えていた。奇妙なバランスをもって、その清らかな魂は清らかなまま湾曲することがなかったのだと、そう思っていた。しかし、その魂に暗澹たる影が差し込んだ今も尚、彼女の精神は清らかで高潔であった。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 チセは、ナノを連れ出そうとデニスの自宅を襲撃した日、ナノを連れて逃げる事もできた。だが、彼女は敢えて第五地区ワイゼンハウスへと戻った。

 あの日、ナノに昏倒させられたチセが意識を取り戻したのは、デニスがウルリヒの肩の負傷に対して応急処置をし終え、救急車の手配を終えた直後であった。チセは目覚めると、ゆっくりと上体を起こし、同じく床に横たわるウルリヒを見、その側のデニスへと目を向けた。デニスは立ち上がり、強い警戒をもって彼女と相対した。

「生きているの?」

 デニスよりも先にチセが口を開いた。緊張に満ちた低い声だった。

「チセ」

デニスはウルリヒへ目を落とした。止血処置はしたものの傷は深く、すぐにでも病院へ連れて行くべき状態であった。「何故一人で来なかった?」

「彼が助けてくれると言ったから」

「その結果がこれだ」

「すぐに病院に連れて行けば助かる……そうよね……?」

「ああ、助かる。救急車も既に呼んである。だが、裏切った以上、どうなるかは保証できない」

「私が助ける」

「そうだな。お前なら助けられるかもしれない。彼もナノも。逃げ続けることもできるかもしれない。だが、第五地区ワイゼンハウスの他の子どもたちは皆死ぬだろう。隔離空間でできたらしい友人たちも殺されるだろう。お前に逃げ切る力はあっても、その全てを救い去る力はないだろう」

それまでチセはじっとウルリヒを見ていたが、不意に睨むようにデニスへと目を上げた。

「私が逃げれば、その分誰かにその皺寄せが来るのは分かっている。でも、それじゃあどうすれば良いんだ!」

「選択したことで起こるであろう結果を見つめろ。お前の望みを見つめろ。お前は誰を守りたい。自分か、ナノか、ウルリヒか、隔離空間の友人か、彼らの大切な人間までも守りたいのか」

「私は……」

「自分だけを助けたいのなら、今すぐここを出て出来るだけ遠くに行け。それが一番確実だ。自分とナノを助けたい場合も同じだ。彼女を連れて今すぐ逃げれば良い。お前になら造作もないだろう。ウルリヒを助けたいなら病院で治療を受けさせた後に彼を連れ出せ。危険は伴うが、お前にならできるだろう。もしそれ以上を求めるのであれば、お前自身をより危険に晒さなければならない。だが、その危険さえも許容するのであれば、より多くを救える方法がある」

「私にそんなことを言って、あなたは何がしたいの?私に何をさせたいの?」

「あの男、ヒースクリフの全てを破壊する。それが俺の望みだ」

「そんなことして何になる」

「何になる、か……。お前には理解できないことだ。お前は生きている者を見ている。俺は死んだ者を見ている」

「死んだ者……大切な人が死んで、その原因を作った奴が生き続けるのは許せない?」

そう言ったチセはここではない何処か遠くを見ているようであった。

「許せるはずがない……!」デニスは強い憎悪を押し殺すように歯を食いしばる。「そいつがのうのうと生きているという事実が腸を煮え返す」

「……より多くを救える方法っていうのは?」

「あの男が主導で作り出した対魔女用の兵器を破壊することだ。あれは、お前達、悪魔の子ども達を動力源として、隔離空間の魔女を一掃するために使われる。それが可能な性能を持っている。あれはあらゆる魔法を無効化する。起動されれば、どんな魔女であれ、外からの破壊は不可能だ。かと言って起動前に破壊しようにも、そこの警備は他と比べものにならないほど厳重で、まず不可能だ。お前がここで逃げれば、少なくとも今あの施設にいる他の子どもたちはその動力源として死に、隔離空間の魔女もまた殺されるだろう。だが、お前が兵器の動力源として内部に入れさえすれば内側から破壊できる。今のお前は刷り込みの影響を全く受けていないように見える。刷り込みの影響を覆しうるなにかを持っているのだとすれば、お前にはそれができるはずだ。あれにはヒースクリフ自身も搭乗するつもりのようだ。奴程魔女を殺すことに執着し、かつそれを実行でき得る力のある者は居ない。あれだけの兵器をもう一つ作り出すこと自体困難な上、奴が居なくなれば更にその実現は遠のくだろう。成功すれば、あの施設の子どもたちの命と隔離空間の魔女たちの当面の安全が得られる。ただお前の命の保証はできない」

「そう……」チセは小さく呟き、ソファに横たわるナノを見、ウルリヒを見て、そしてデニスに視線を戻した。「今の話にはあなたの願望が多分に入っている。そのくらいは私にも分かる。結局のところ、あなたは私に彼の全てを台無しにした上で、彼を殺して欲しいわけだ。私ならあなたが言ったことができるかもしれない。だが、私があなたの話にのったとしよう。その場合、そんな復讐に憑かれた男に、私はナノとウルリヒさんの命を預けなければならなくなる」

「復讐に憑かれているからこそ、信用できるのではないか?お前が私の望みを叶えてくれる以上、その妨げになり得ることはしない」

「言葉だけならなんとでも言える」

 チセはそう言うと、デニスへと近づく。そして、彼のすぐ目の前まで来ると、一度、彼の額へと手を伸ばそうとし、引っ込めた。

「座って」

 デニスは怪訝そうな顔をしたが、言われた通りに床へと膝を折る。チセは彼の額に手をかざし、目を閉じた。

「じっとしていて」

 チセもデニスも固まったように動かず、一言も発さない。

 時計の音だけが妙に際立って大きく耳の内に残る数分間が続いた後、チセがゆっくりとデニスの額から手を離した。

「何をした?」デニスが口を開く。

「あなたの記憶を見せてもらった」

「記憶を?お前の能力というのは……」

「私はあなた達が言う記憶の魔女ではない。だが、その能力の一部を使える」

「どういう事だ?」

「これ以上長々と話している時間もない。あなたの話にのってあげる。だから、ナノとウルリヒさんのことはあなたに任せる」


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 チセは目を開け、フロレンツィアの額から手を離すとデニスを見上げた。

「彼女の私に関する記憶を消した。ナノの記憶も同様に書き換える」

「お前の能力は何だ。記憶の魔女の力を一部使えると言っていたが、どこまで使える。記憶の閲覧だけでなく、書き換えまでもできるのだろう。それにお前自身、刷り込みの作用を全く受けていない。あり得ない事、組織からすれば想定外の事だ。刷り込みでコントロール可能という前提のもと、お前達悪魔の子ども達は管理運用されている。だが、お前はその前提を覆し得る能力を持っている」

「記憶操作は私自身の能力ではない。私の能力により獲得したものだ。私の能力は他者の性質、能力の転写だ。私自身の魔力で作り出す特殊な依り代に、あらかじめ読み取った他者の能力を入れ込むといったものだ。他者の能力を入れたその依り代は私の裁量で操作できるし、ある程度ならあらかじめ決めた行動を自動的に取らせることもできる。基本的には依り代は私にしか知覚できないけど、魔力感知に長けた魔女なら、集中しさえすれば、その存在を感知できる。さっきフロレンツィアに対して行った記憶の操作はその依り代に転写した能力を用いたものになる」

「それではお前は記憶の魔女に会ったということか。いつだ。あの隔離空間に居る時か?」

「もっと前、私が作られてすぐだ。どうやったか知らないが、彼女は施設に侵入し、私に能力を転写させた。私が意図して能力を使ったわけじゃない。当時赤子だった私にそんなことできるはずがない。彼女がなにかをした。この転写の能力自体、私のオリジナルの魔女に起因するものだったのだろう。彼女は転写の能力を知っていて、そして悪魔の子どもたち計画のことも知っていた。だから私のところに来て、私にその能力を転写させ、自身の記憶の一部をも埋め込んだ。だが、私はすぐに彼女の記憶操作の能力が使えるようになったわけでも、彼女の記憶を知ることができたわけではもない。思い出したのはつい先日だ。と言っても、彼女が私に転写させた能力と私自身の能力、そしてその起源を思い出した程度だ。しかし、私がそれらを思い出す前から、依り代自体は私の意志とは無関係に機能してもいた。恐らく記憶の魔女の能力も合わさってこの依り代、私はゴーストと呼んでいるんだが、それにはある程度の自律性が生まれている。私が刷り込みの影響を受けていないのは、このゴーストの自律性のおかげだ」

 チセは膝に乗せたフロレンツィアの頭を少し持ち上げ、床の上にそっと移した。それから立ち上がり、ナノが横たわるソファへと歩いていく。

「何故記憶の魔女はお前に自分の能力を転写させた?」

デニスが尋ねる。

「分からない。あなたのような復讐か、もしくは全く別の目的があったのか、私を介して何かをしようという意図があってのことなんだろうけど、私もそれは分からない」

 チセはナノの側まで行くと、フロレンツィアに対して行なったのと同様に彼女の額に手をかざした。それから躊躇いを含んだような僅かの間の後、一度、床に横たわるフロレンツィアへと顔を向けた。悲しみ、後悔、迷い、あまりに雑多で複雑に絡み合った感情ゆえの凍りついたような無表情であった。

「記憶の魔女の能力はどの程度使える?」デニスが尋ねる。「別の手段もあるのではないか?」

「使用可能な力は大きく分けて二つ。記憶の閲覧と操作だ」

チセはナノから手を引っ込めた。「だが、制限がある。記憶の閲覧は、強く残っている記憶しか見ることはできない。些細な記憶まで覗き見ることは不可能だ。記憶操作についての制限はより極端だ。私が古い記憶まで意図した形で書き換える事ができるのは、魔力量がかなり高い魔女に対してだけで、その他の魔女や人間に対しては、数分前の記憶といった、ほんの直近の短い記憶の書き換えしかできない。だからフロレンツィアやナノの記憶を大きく書き換える事はできても、あの施設の人間や子どもたちの記憶の書き換えはほとんどできない。だからこうするしかないんだ」

 チセは再びナノの額に手をかざし、目を閉じた。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 コーヒーの香りに鼻腔をくすぐられて、ナノは目を覚ました。そこは古びた宿の一室であった。古くはあるが、とりわけ不自由なわけではなく、部屋には2つのベッドと一つのテーブル、椅子などが十分なスペースをもって備え付けられてある。奥の方にももう一つ部屋があるらしく、ダイニングテーブルのような大きめの机が置かれているのが見えた。

「起きたか」

ナノが見ていた方向とは反対側から声が上がった。

 振り返ると、隅のテーブルでコーヒーを飲むデニスの姿があった。ナノは答えず、眠たげな目を擦りながら、さらに部屋の中を見渡した。隣のベッドに膨らみを見、掛け布団からはみ出た白い髪に視線を向ける。ベッド脇のカーテンの隙間から漏れ出る朝のすみきった青白い陽光が、その滑らかな白髪の上に細長い筋を落としていた。

「フロレンツィアって案外朝遅いのかな」

ナノは一人呟くと、またデニスを振り返って言った。

「私もコーヒー欲しい。ミルクと砂糖はたっぷり入れて」

 デニスはコーヒーカップを机の上に置くと、立ち上がり、奥の部屋へと入っていった。数分後、湯気が立ったカップを片手に戻って来た。それをベッドに座るナノに手渡し、また元のテーブルにつく。

「彼女とは仲が良かったのか」

 デニスはテーブルの上のコーヒーカップを口に運び、一口だけ飲むと、ナノに声をかけた。

「悪くはなかったよ。でも助けに来てくれるとは思っていなかった」

ナノはコップの中のコーヒーを冷ましながら答える。

 その返答からデニスはチセが施した記憶操作が問題なく作用している事を悟った。

 チセからは、ナノとフロレンツィアの中の彼女自身に関する記憶を丸々消し、矛盾のない形の記憶に書き換えたと聞いている。ナノはフロレンツィアが彼女を施設から連れ出してくれたと思っているし、また刷り込みから解かれたのは、フロレンツィアの復元の能力によるものだと思い込んでいる。フロレンツィアもナノでさえチセという少女のことを一切覚えていない。ナノは姉のように慕っていたチセとの一切を覚えていない。チセを強く案じていたはずなのに、コーヒーを舐めるように飲むナノの姿からは、もはやその心配の欠片も見て取れなかった。

 デニスのうちには雑多な記憶、雑多な観念が渦巻いていた。

 チセの後について回るナノの姿を思い出し、それから今のナノの現状と刷り込みを重ね、それからウルリヒの言葉を思い出した。

―――記憶を奪う、最も罪なことだ。

そしてまた、彼の最期の表情を思い出した。死を覚悟し、甘受し、そして罪の苦しみからの解放を見た顔であった。

 ナノの未来、彼女の願いのために復讐が頓挫し、全てが無に帰すことは、デニス自身でも驚くべき事であったが、許容できた。だが、ウルリヒの贖罪のために同じ結果が生まれることは許せなかった。チセの覚悟を揺るがし、変え得るものがあるとすれば、それはナノの行動の結果でなくてはならず、ウルリヒの贖罪の結果であってはならなかった。

「……屑め」

 デニスがほとんど囁くように口の中で呟いたその声は、布団の擦れる音によって掻き消された。

 フロレンツィアがむくりと起き上がる。彼女は隣のベッドのナノを見、そして強い衝撃を頭に受けたように数瞬固まったかと思うと、その目から静かに涙が零れ落ちた。ナノが目を見張り、ベッドの上にコップを置いて立ち上がり、彼女のすぐ側まで行った。

「フロレンツィア、どうしたの?」

 ナノの声は動揺に震えていた。フロレンツィアはなにも答えない代わりに、彼女を強く抱擁した。ナノの腰あたりに顔を埋め、何も言わないフロレンツィア。

「怖い夢でも見たのかな」

ナノは困ったようにデニスを見た。

 デニスもまたフロレンツィアという少女のその反応に少なからず驚いていた。ナノとフロレンツィアは元々そこまで親しい仲ではなかったとチセからは聞いていた。チセが行なった記憶操作は、チセという存在に関する記憶の削除と削除した記憶の補填が主なはずである。

 フロレンツィアは学校でチセと出会い、友人となった事実の一切を忘れ去り、彼女のうちにはチセに対して抱いていたはずの好意すらも残っていない。しかし、その消えた記憶や感情を埋めるようにチセに抱いていた情をナノへと向けているらしかった。

 デニスは立ち上がると、また奥の部屋へと行き、そこに備え付けられている台所のトースターでパンを焼き、ナノとフロレンツィアを呼んだ。二人は向かい合うように机に着いて、パンを食べる。

 取り留めのないことを話し、笑い合う。フロレンツィアは満足げで、ナノもまた幸福に満ちた笑顔を浮かべていた。ナノはチセに向けていたような微笑みをフロレンツィアに向け、チセに話していたようなことを彼女に話す。チセが享受するはずだった友愛を受け、チセが求めていたであろう幸福を甘受する。それが今のナノの幸せの形であった。

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