3-5 侵入
第五地区ワイゼンハウスでは二十四時間監視の目が緩む事はない。昼も夜も監視カメラを通して監視員が監視を続けている上、警備員も巡回している。そこは孤児院とは名ばかりの一種の要塞であった。
ナノとフロレンツィアがその要塞に足を踏み入れたのは、夜も深くなった頃であった。彼女たちは浮遊魔法を用いて上空からチセが居る寄宿舎の前まで降り立った。
そこに降り立つ直前、ナノは職員寮全体を彼女の魔力で包み込んだ。
「寄宿舎に入れる権限を持つ職員は102号室と105号室、それと201号室……監視室は3階奥、306号室の向かい」
彼女はあらかじめ仕入れた情報を口の中で転がしつつ、部屋の中の気配を探る。
「居ますか?」
「居た。102号室の男を使う」
数分後、男が職員寮から出てきた。
男が職員寮前の監視カメラの監視範囲外に出た直後、彼の前にナノが降り立った。男は彼女の突然の出現に驚いた様子すらなく、スッと彼女に向かってIDカードを差し出す。ナノはそれを受け取り、すぐにまたフロレンツィアが居る上空まで戻ると、今度は寄宿舎の出入り口前に立っているライフル銃を携帯した二人の警備員を自身の魔力で包み込んだ。その後、寄宿舎前の監視カメラに対して、現在の景色を映し取る幻影魔法を展開してから、なんの躊躇いすら見せず、警備員の目の前に降り立った。フロレンツィアもその後に続く。
警備員はすぐ眼前に現れた侵入者に対して全くなんの反応も示さない。
ナノは警備員を横目で一瞥し、寄宿舎内の監視カメラに対しても同様の幻影魔法をかけ、先刻入手したIDカードを用いて、寄宿舎の中へと忍び込む。彼女の後ろを追うように施設内に入ったフロレンツィアは、扉を閉める際に、警備員を振り返った。彼らは一切の異変を感知しておらず、変わらず前だけを見ていた。
「チセは201号室」
ナノの呟くような声にフロレンツィアは警備員から彼女へと向き直った。ナノはフロレンツィアを振り返ることなく、白い電灯の明かりに照らされた静かな廊下を進み始めた。彼女の足取りからは一切の迷いも恐れも見て取れなかった。また、その足音は、コンクリートの床を歩いていても、静かなものであった。フロレンツィアの歩く音だけが際立って廊下に響く。彼女は足音を消す為に僅かに浮遊した。
チセの部屋の前まで来ると、ナノは再度フロレンツィアを見た。フロレンツィアが準備はできていると言うように頷いてみせると、彼女は自身の魔力を寄宿舎全体を包み込むように展開した。
部屋の扉は、ナノが開く前に中から開かれた。
扉の内側にはチセが立っていた。普段は後ろで軽くまとめている髪を下ろし、白いネグリジェを纏っている。そのリラックスしきった格好とは対照的に、その目は大きく開かれていた。チセは廊下の監視カメラを一瞥し、それから小さな声で言った。
「入って」
予想外の反応にナノもフロレンツィアも瞬時固まったが、言われた通りに部屋に中へと入った。
二人が入室すると、チセはすぐに扉を閉めた。
「この部屋の監視カメラには幻影魔法をかけてある。ベッドで横になっている私が映っているはずだ。音も拾われたり、外に漏れないように遮断してあるから普通に話してくれて良い」
チセは二人を振り返ると、怪訝そうな目をしているナノを見、そしてその隣に茫然と佇むフロレンツィアへと目を向けた。それから何かを言いかけたが、その前にナノが口を開いた。
「刷り込みを受けたと聞いていた」
「受けたよ」
「じゃあ、どうして……」
「私自身の能力で封じられた記憶は戻った」
「やっぱりチセは……」言いかけてナノは一度口を閉ざし、そして別の疑問を口にした。「どうして逃げないの?」
「ここでやることがある」
「やること?」
「私にしかできないことだ。私はここに残る」
「なにを……!」
ナノが強い困惑に顔を歪め、チセへと近づこうとしたその時、フロレンツィアがチセへと口を開いた。
「チセ、私は詳しいことは知りませんが、ここは異常です。どこもかしこも監視カメラだらけで、加えて武装した警備の人間までも巡回している。ここに残って、チセは確実に逃げ出せるのですか?」
チセはフロレンツィアを一瞥し、またナノを見た。
「ナノ、フロレンツィアと二人で話したい」
「私が居たらダメなの?」
「できれば、フロレンツィアと二人が良い」
「ここを皆で出た後で話せば良い」
「頼むから」
「……外に出ていたら良いの?」
「いや、バスルームに居てくれたので良い。音は遮断できる」
「バスルームの監視カメラにも幻影魔法はかけてあるの?」
「ああ、問題ない」
ナノがバスルームへと入ると、チセは音が漏れていかないようにバスルームの扉を魔力で覆った。
「バスルームにまで監視カメラがあるのですか?」
フロレンツィアが、ナノが入って行った扉に嫌悪の目を向ける。
「昔はなかったんだがな。ある時期を境に監視が厳しくなったんだ」
「全部見られてるってこと?」
「別にそんな目で見られている訳じゃない」
「今すぐにでもここを出るべきです」
「フロレンツィア、何故ここに居る」
「チセが殺されるとナノから聞いたから」
「違う、そうではなくて、私はエルヴィラさんを……」
「姉さんを殺したのはあなたじゃない」
「殺そうとした。殺せなかっただけだ」
「それは……どういうことですか」
「私が魔法祭の日に姿を消した理由を、いや、エルヴィラさんがフロレンツィアにそのことをひた隠しにしていた理由を何度も考えていたのだろう?フロレンツィアが考えていた理由の内、最低のものがその問いの答えだよ」
チセは淡々とフロレンツィアへ事実を述べるように語りながら、眼前にいる彼女を見てはなかった。フロレンツィアの顔を見ること、それ自体を恐れているかのように僅かに視線が下がっていた。「私はあの日彼女を殺そうとして、返り討ちにあった。ただ殺せなかっただけだ。もし私にその力があったなら殺していた」
チセから発せられる声には無理に感情を捨てようとするかのような、平坦でありながら悲しげな響きがあった。平静を装う上辺の隙間から、押し殺す事ができない程に強烈なあらゆる感情の群れが渾然と混ざり合う渦が覗いていた。
「なぜ今ここで私にそれを言うのですか」
フロレンツィアは唾棄する悪徳を見るかのような目でチセを睨んだ。
「馬鹿にしないで」
フロレンツィアの口から吐き捨てるように放たれた言葉にチセは目を上げた。彼女の瞳にフロレンツィアの真っ直ぐな瞳が映り込む。しかしすぐにまたチセの視線はフロレンツィアから外れた。
チセは何も言わなかった。
「何故私と二人っきりになりたかったのですか」フロレンツィアが続けて言った。「誤魔化しは嫌いです」
数秒の沈黙があった。チセは一度口を開きかけ、それから考えるように押し黙り、フロレンツィアの顔を真っ直ぐに見つめた。チセの瞳に映る彼女の顔に憎悪の色は無かった。言葉ではなく、心を見つめているようなその表情に、チセはたじろぎ、そしてゆっくりと静かに内に秘めてあった苦悩を僅かばかり吐露した。
「……ずっと、フロレンツィアに謝りたかった。友達になった日からずっと。謝りたい事だけが増えていく」
「私は、チセを恨んではいない」
「私が居なければエルヴィラさんは死ななかった」
「チセが殺したんじゃない。チセは姉さんを殺そうとしたって言ったけど、姉さんだって自分の命を狙い続ける者を匿い続けることはない。姉さんはチセにその気がないと知っていたから、だから、私とチセの事を思って、あそこにチセを居させたんです」
フロレンツィアの口から発せられる免罪こそが最も恐ろしいものであるかのようにチセは顔を歪め、それから、
「…… 欺瞞と罪悪と共に水を飲み、虚偽と共にパンを食う、か」
フロレンツィアに向けてというよりむしろ自分自身に話しかけるように低い声で呟いた。
「ずっと誰かに愛されたかったのに、今は愛されるのが辛い。許されたかったのに許されるのが辛いんだ」
彼女は寒さに震える者のように強く両腕を組み、歯を食いしばった。「一緒に居るのが辛いのに、一緒に居たかった」
「一緒に居れば良いじゃありませんか!ここを出て自由になれば、そんな事を考えなくても良くなります」
フロレンツィアがチセの手を掴もうとした。しかし、チセは逃げるように後ろに下がった。
「できない……私は罪人だ」
「なんの罪があると言うのですか!あなたはここで酷い扱いを受けていただけでしょう?姉さんを殺したのはあなたじゃないし、私だってあなたを恨んではいません」
「それだけの話ではない。昔、ここで子どもたちの殺し合いがあった。大人たちが仕向けたことじゃない。彼らの誰もその原因を知らない。急に皆がおかしくなって、互いに強い憎しみを抱いているかのように殺し合いを始めた。私が引き起こした事だ」
チセは、そこにこびりつく見えない血を見つめるように自分の手のひらに目を落とす。
「私は数日前まで自分の能力が一体どういったもので、どこから来たものかを知らなかった。だが、ようやく分かったんだ。そして何故あの日、皆がおかしくなったのかも理解した。私が皆の記憶を混乱させ、そしてナノが皆をいざなった。私たちは同じタイミングで能力に目覚めたんだ。あの隔離空間で獲得したものではない。大人たちは隔離空間内で私たちが能力を獲得することを期待していたらしいが、私たちは既に能力を持っていた。ただ私があの日、自分自身の記憶とナノの記憶を封印しただけだ」
「全てチセの意志でやったわけではないでしょう?能力に目覚めた者は、しばしばその力を暴走させる事があります」
「制御できなかった……それで許される程、人の命は軽いのか?」
フロレンツィアはすぐに答えられなかった。あなたのせいではない、そう言う事がなんの慰めにもならないことをチセの表情から悟った。だが、言わずにはいられなかった。
「でもそれはチセにはどうしようもなかった事です」
「そう自分に言い聞かせて、フロレンツィアやナノたちと一緒に居られれば幸せなのだろう」
「一緒に居られれば……そうです!こんな場所に居るから気が滅入ってそんな考え方をするのです。私たちと一緒に……!」
「逃げてもきっと逃げられない」
「そんな事はありません。私もナノも居るんです!」
「違う、そう言う事を言っているのではない。逃げても逃げても、後ろからついてくるんだ。私が皆を殺した事実が、私が今ここに居る子どもたちやこれから殺されるであろう人たちを見殺しにした事実が!今の私なら助けられる。もしここでその可能性を捨てて逃げ出したら、私に残るのはただ皆を殺した事実だけだ。善良な顔をして、ナノと食事をし、フロレンツィアと遊びに出かける。幸福の中にあったとしても、私だけが虚偽の笑顔を浮かべる。笑顔を浮かべていても、常に罪の意識が私の首を絞めるんだ。いや、それ以上に、私が逃げた事でフロレンツィアやナノを危険に晒す事になるかもしれない。それが怖い。それなのにあなたたちと一緒に居られないのが苦しい」
「だったら……!」
「なんで来たんだ。ここになんて来ないで欲しかった。意志が揺らぐ。恨んでいると、ただそう一言言ってくれるだけで良い」
チセが強く懇願するようにフロレンツィアの両肩を掴む。フロレンツィアは彼女のその迫力にたじろぎながらも、彼女をまっすぐ見た。
チセは強い意志があるようにも、今にも心が崩れてしまいそうにも見えた。
フロレンツィアは彼女を強く抱きしめ、それからまた口を開いた。
「私が何故ここまで来たと思っているのですか。私は、私があなたと一緒に居たいから、あなたをここから連れ出します。責めるなら私を責めてください」
チセの大きく見開かれた目が次第に虚になっていく。その体から力が抜けていく。遂には立つ事さえままならなくなり、フロレンツィアに寄りかかるように倒れていく。
「フロレンツィア……」
チセは意識を失う直前、フロレンツィアの顔へと手を伸ばした。フロレンツィアはその手の暖かい体温を感じながら、彼女を見下ろす。
「彼を殺さないで」
そう絞り出すように言って、チセは眠るように目を閉じた。
フロレンツィアは彼女を浮遊魔法で浮かび上がらせ、ベッドに寝かせると、バスルームへと歩いて行った。扉を開け、手持ち無沙汰に浴槽の縁に腰掛けるナノへ声をかける。
「ナノ、チセは眠らせました。チセの技量を考えるなら、しばらくは彼女の幻影魔法は解けないとは思いますが、直ぐにここを発ちましょう」
「説得は無理だったんだ。なに話してたの?」
「それを言ったら、二人っきりになった意味がないでしょう」
ナノはバスルームを出て、ベッドに横たわるチセに目を向けた。
「よくチセに魔法を使えたね」
「チセは少なからず動揺していました。普段の彼女に対してなら難しかったかもしれません」
「なんにせよ、私にはできない芸当だよ」
ナノは言いながら、チセをゆっくり宙に浮かせた。
・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・
ウルリヒは、ナノとフロレンツィアの二人が去った後、二階へと上がり、そこの寝室へ入った。ベッドの横の机には写真立てと数枚の楽譜が置かれている。
写真立てには娘がピアノを弾いている写真が入っており、楽譜には節々にチセのメモ書きがある。ウルリヒは娘の写真に目をやり、それから楽譜を手に取った。彼が軽くコツなどを記したものに、チセが独自のメモを書き足している。チセを隔離空間から第五地区ワイゼンハウスに連れ帰った際に、彼が職員寮の自室から持ち出したものであった。
衝動的な行為であった。ふと目についたピアノの楽譜台に置かれたこの楽譜を折り畳み、上着のポケットへとしまい込んだ。チセと長年一緒にいながら、共に一枚の写真を撮ったことすらない。この楽譜が今や唯一彼女との繋がりを思い起こさせる品であった。
ウルリヒは、楽譜の端にくしゃくしゃに握り潰されたような跡があるのに気づいた。それからフロレンツィアが二階から降りてきたときに、僅かだが、自分に憎悪以外の複雑な何かを抱いているようであったことに思い至った。彼女はこの楽譜を見て、チセと自分の関係を本当の親子にも似たものだと思い込んだのだろう。
「俺は……なんだ……!」
チセを助け出しにも行かず、ただ安全な場所でのうのうと彼女が救い出されることを祈っている。ナノには施設の監視カメラの位置と寄宿舎のIDカードを持つ者の情報は教えた。共に潜入するには足手まといであると言われ、そして自身もそう感じたためにこの場に止まった。
ナノにはここに戻らず、逃げるように言ってある。結局、チセに与えたものは、偽物の愛と苦痛だけだ。ウルリヒは楽譜を机に戻し、後悔を殺すように顔を片手で覆い、歯を食いしばった。
直後、玄関の扉が開く音が響いた。遠慮のない足音が続く。扉を開ける音、階段を登ってくる音―――何者かが近づいて来る。しかし、ウルリヒはその場を動こうとはしなかった。彼はまるでその者を待っているかのように、閉まっている部屋の扉をじっと見つめていた。
扉が開く。スーツ姿の男が姿を見せる。その手には拳銃が握られている。サプレッサーの付いた銃口が素早くウルリヒへと向けられる。
「これが罰か」
抑えられた銃声が静まり返った室内を駆けた。
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