3-4 憎悪

「チセへの刷り込みは終わった頃でしょう」

 デニス・ケーラーは、病室で目覚めたウルリヒに事務的な口調でそう言った。

 ウルリヒは怒りに駆られ、彼に掴みかかろうとさえした。しかし、右肩の痛みによりそれすらも叶わなかった。

「今更何故あんな事を……」

「私は魔女に家族を奪われた。だが、私もまた多くのものを奪った。最も奪ってはならないものを奪い続けた。記憶を奪う、最も罪なことだ。その人間をその人間たらしめるものを私たちは奪い続けた。あの子を何度も殺し続けてきたんだ」

「その贖罪ですか?」

「そんなものじゃない。ただ瞞着者であり続けることに耐えられなかっただけだ。デニス、お前はどうなんだ。何を思ってこんなことをやっている」

「私はあなたのように魔女への強い恨みはありません。ですが、あなたと同じく過去への負い目がある。私には妹がいました。彼女は魔女として殺された。恨んでいるものがあるとするならば、ただ人間です」

「なら何故こんな組織に居る?」

「あの男、ヒースクリフが憎いからです」

「お前は……」

「一つだけ朗報があります。チセの細工のおかげで、あの日のあなた達の脱走自体バレていません。あなたの裏切りは私だけが知るところです」

「ならこの傷のことはどうなっている」

「私がやったことになっているでしょう」

「どういうことだ?」

「あの日逃げ出したのは私達で、あなたはあの日私の家を訪れ、私に負傷させられた。そうなっているでしょう」

「待て。待ってくれ。一体何がどうなっている」

「私はあの日、あの直後、ナノを逃しました。あなたではなく、私が裏切り者となっているわけです。あなたはあの日のことを聞かれることになるでしょう。情に流された私がナノを連れ出した、そういう話であることを覚えておいてください。また私が裏切った事で、同じく子どもの管理者であるあなたも警戒されている事でしょう。今や子どもたちはあの兵器の動力源として使い潰すだけとなった。愛情の植え付け自体不要となった今、あなたがチセに接触することすらも許されないかもしれません」

「何故お前はナノを逃した……いや、何故チセはお前達と逃げていない?」

「彼女はあなたを見殺しにはできなかった。皮肉な話だ」

デニスは立ち上がった。「あまり長居も出来ませんので」


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 ヒースクリフはガラスの向こう側の手術台に横たわる少女を見ていた。

「刷り込みは上手くいったのだな?」

彼は隣に立つ刷り込みの担当医に尋ねた。

「はい。念を入れて経過を見る必要はありますが、問題はないでしょう。彼女もあの兵器に組み込むのですよね?」

「ああ、何か懸念があるのか?」

「いえ、ただ彼女は悪魔の子どもたちの中でも傑作です。彼女を使わずとも動力源として使える個体はまだ残っています」

「出来が良いからこそだ。あれにはエスペランサの中核、他の悪魔の子どもたちを繋ぎ、統率する役割を担ってもらう。出来損ないではすぐに焼き切れてしまう。だが、あれは負荷に耐え得るだけの十分な性能を持っている。与えた環境も役割も、あらゆる面で実験的な個体であったが、一番質が良い。ようやくあの悪魔たちをこの手で葬ることができる」

ヒースクリフはそう言って、わずかに俯いた。陰った顔には強い憎悪の色が、その視線の先には今はもう動かなくなった足があった。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 チセは夢を見ていた。

 暗い部屋の中に一人の少女が佇んでいた。日が落ちてるにも関わらず、明かりをつけようとする様子もない。彼女は足元に生温い液体の感触を覚え、下を見る。その出所を探すようにその先へと目を向けていく。そこには冷たくなって横たわる人の姿があった。一つ、二つ、彼女は横たわる死体に目を走らせる。首がねじ切れた死体、腹に穴が空いた小さな死体。彼女はただそれを眺めていた。その表情からは何も読み取れない。ただ壁のシミをぼんやり眺めるように、無残な死体を見ていた。程なくして、そこに一人の男がやって来た。

 部屋の扉を開けた男と目が合う。男は床の上の死体に固まり、それから視線を上げ、その中に佇む彼女を見た。彼女と男の目が合う。男の目には湧き上がる種々の感情を覆い隠すほどの大きな困惑があった。彼女はその目に不快なものを覚えた。

「なんだ……これは」

 震えに満ちた声が男の口からこぼれ落ちる。男のその声が、その表情が、彼女の胸をひどくかき乱す。彼女はそれがなぜだか分からなかったが、その場にそれ以上居たくないという感情に背を押されるように男に背を向け、窓に向かって走り出した。

 男が声を上げる。何かを叫んでいたが、その言葉は彼女の耳には入らない。彼女はただ追いかけてくるなと願いながら振り返る。直後、男が糸の切れた操り人形のようにぱたりと倒れた。男は這うような体勢で顔を上げ、彼女の名を呼んだ。その声には懇願するような響きがあったが、彼女は一刻でも早く立ち去りたい感情に支配され、ひたすらに逃げた。逃げ続けた。そして、すべてを思い出したときにはもう戻れなくなっていた。

 彼女は思い出した。あの日、死体となって部屋に横たわっていたのは、彼女の母と妹であったことを、あの部屋に入ってきた男が父であったことを、そして自分が母と妹を殺し、父の足を奪ったことを。

 彼女は誰からも忘れ去られたいと願った。また同時に誰かに覚えてもらいたいとも望んだ。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 ナノはフロレンツィアを伴って森の中を進んでいた。森の中に入って二十分ほど進んだ辺りで、フロレンツィアが足を止めた。ナノは彼女を振り返る。

「どうしたの?」

 フロレンツィアは答えなかった。彼女は何も言わず、踵を返し、来た道を戻り始めた。ナノが慌てて彼女の手を掴む。

「待って」

 ナノを振り向いたフロレンツィアは虚な目をしていた。

「そうか」ナノは口の中で呟いた。「ここから魔女が出てこないのはこれが原因か」

 ナノはフロレンツィアを自身の魔力で包み込んだ。

 フロレンツィアはナノの方に体を向けた。その目は虚なままであったが、もう来た道を戻ろうとする様子はなかった。

 ナノはフロレンツィアが完全に能力下にあることを確信した後、その手を引いて歩き始めた。フロレンツィアは手を引かれるがままにナノに付き従う。

 木漏れ日に照らされた静かな森の底を黙々と歩いていく。三十分ほどで目指していた場所に辿り着いた。そこには薄緑の光の壁があった。横を見てもその光の壁の果てを見ることはできない。同様に、上を見ても雲の向こう側に隠れるほど高く、その終端を視認することはできなかった。ナノはフロレンツィアの手を引いて、臆することなく壁に向かって足を踏み出した。片足がその壁を通り抜け、向こう側へと出る。そのままその光の壁を通り抜けた。

 光の壁を通り過ぎた瞬間、フロレンツィアはナノの催眠から解放されると同時に、気を失った。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 フロレンツィアは夢の中にあった。しかし同時に、今見ている光景が現実のものではないということも明確に理解していた。

 彼女は、廃れ、今にも朽ちてて崩れてしまいそうなどこかの教会の中に居た。長椅子に腰掛け、教壇の前で二人の人物が向かい合ってなにかを話しているのを見ている。一人は黒髪の色黒の少女、もう一人は長い金髪の色白の少女で、どちらも年は16、7ほどであった。二人はフロレンツィアの存在にまったく気がついていないようで、そこには自分たちしか居ないかのように話をしている。

「私たちだけの世界を作る」

黒髪の少女が言った。「私たちが力を合わせれば実現可能だ」

「私とあなただけで?」

「いや、他にも仲間は居るんだ。皆の力を合わせれば、私たちだけの楽園を作ることができる。もう逃げ隠れる日々を送る必要もなくなる。突然の別れや孤独に怯える必要もない。温かく、豊かで、殺しも殺されもしない、そんな地を作るんだ」

「一体どうやって?この世界にそんな場所を一体どうやって作るっていうの?」

「場所は決めてある。私たちの生まれ故郷だ。あそこは良い場所だっただろう。気候は穏やかで、水も資源も豊富、豊かな土地だ。あそこに私の力で人間が入ってこられない巨大な隔離空間を構築する。仲間の中に他者の力を増幅できる者や、あらゆるものを元通りに復元できる者もいる。私が生きている限り、隔離空間は維持され続ける。いや、私が死んでも維持できるシステムを隔離空間に組み込むつもりだ」

「確かにあなたの力と、あなたが言っている仲間の力があれば実現できるかもしれない。でも今、あそこにいる人たちはどうするの?」

「私達と同じ魔女にする。できない者は殺すしかない」

「そんなの……」

「できる。私の仲間は皆、強い。心配する必要はない」

「……私はそんなことしたくない」

「そうでもしなければ私たちには安息の地なんて手に入れられない。あなたがやらなくても、私たちがやる。同じことだ。もし私の提案を断るなら、あなたは誰からも思われず、一人孤独に死んでいくだけだ。それは記憶の魔女なんて言われているあなたが一番恐れていることなんじゃないの?」

 黒髪の少女の口角がわずかに上がったように見えた次の瞬間、辺りの景色が一転した。

 辺りは炎に包まれていた。闇夜の中、パチパチと音を立てながら、そこにあるもの全てが崩れ去っていく。フロレンツィアはその火の海のなかに呆然と佇んでいた。すぐそこに燃え盛る建物があるのに全く熱を感じなかった。逃げ惑う人の悲鳴が耳の奥まで響いてくる。

 燃える家屋から逃げ出してくる女性が、助けを求めるように彼女の方へと走ってきた。そして彼女の手前で、その上半身が弾け飛んだ。血飛沫が彼女へと降り注ぐ。が、それらは彼女の体をすり抜けて、地面に赤黒いまだら模様を作る。倒れゆく女性の下半身の向こうには先ほど見た黒髪の少女が居た。燃え盛る炎の光に照らされた彼女の頬には一筋の涙があった。

「皆のためだ……皆のためだ……」

彼女は小さく震える声で繰り返し呟きながら、町の外へ逃げようとする人間をまた殺した。

「やめて」フロレンツィアはこれが現実でないことをも忘れて、叫んでいた。

 彼女の叫びに呼応するかのように、辺りが眩い白い光に覆われた。フロレンツィアはあまりの眩しさにぎゅっと目を閉じる。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 目を開けると、雲ひとつない晴天がその薄紅色の目に飛び込んできた。

 直後、その快晴模様を遮るように黒髪の少女が覗き込んできた。フロレンツィアの脳裏に一瞬、先刻見た黒髪の女性が過ったが、その顔をはっきり視認して、ようやく夢から覚めたのだと明確に認識した。

「大丈夫?」

ナノが心配そうに尋ねる。

 フロレンツィアはナノの膝に頭を置いていることに気がつき、さっと起き上がった。

「どれくらい気を失っていましたか?」

「数分だけ」

「ここは?」

言いながら、辺りを見渡す。

 地面は背の低い草で覆われている。どこまでも澄んだ緑に覆われているかと思えば、右手側の2、300メートル先には、辺り全てを見渡せそうなほどに背の高い塔がある。そしてその反対側、すぐそこに、薄緑の光の壁が見えた。

「隔離空間……」

「どこでそれを?」

フロレンツィアの呟きにナノが目を丸くする。

「夢を見ていました」

「夢?」

「いえ、夢というより誰かの記憶の断片のような……あれは一体……」

「おそらく隔離空間を出る時に魔女は何らかの影響を受けることがあるのだと思う。魔法祭の後、この壁から外に出たとき、私もフロレンツィアとは真逆だけど、影響を受けた」

「真逆の……?」

 フロレンツィアが疑問を口にしかけたその時、ナノが離れた所に見える塔を指差した。

「話の続きは後にしよう。隔離空間の周辺ではあらゆる電子機器が使えなくなるから、監視の目から逃れることは容易いけど、見張りは常に配置されている。今は私の能力で周囲の景色に溶け込むように見せているけど、魔力がいつまでも保つわけじゃないから」

「分かりました。ナノ、私の手に触れてください」

 フロレンツィアはそう言って、俄かにナノに向かって手を差し出した。ナノは怪訝そうにその手に視線を落とす。

「知っての通り、私の能力は復元です。あらかじめインプットしておいた時点での状態にまで戻すといったものです。なんでも元通りにできる訳ではありませんが、多少の負傷や魔力の残存量程度なら戻せます」

 ナノが差し出された手の平の上に自らの手を重ねるように置く。フロレンツィアは集中するように目を閉じた。

「約束は守るよ」

 ナノは、深い意識の底に沈潜していくようなフロレンツィアの様をじっと見つめながら小さな声で言った。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 ウルリヒは肩の負傷の処置を一通り終え、自宅への帰路に着いていた。沈みゆく夕日の底に埋もれた街はひどく物寂しい。自宅付近の歩道を歩く者は彼の他には居らず、車道にもまばらにしか車が走っていない。道路を挟んだ向こうにある雑居ビルは橙色の日差しに愁然と照らされている。ウルリヒの目にはそのどれもが味気ないものに映った。

 自宅の扉に鍵は掛かっていなかった。ウルリヒはそのことを怪訝に思い、警戒しつつ、中に入っていった。

 玄関を抜け、居間の扉を開ける。と、その瞬間彼の四肢は何かに掴まれ、そのまま壁へと押し付けられた。突然の衝撃に肺から一気に空気が漏れ出る。揺らいだ視界の中、ウルリヒは半透明の腕の形をしたものが自分の手足へと伸びているのを見た。

 肩の痛みにウルリヒは僅かに顔を歪ませる。その痛みはまた同時に妙に彼を冷静にさせた。彼は自分の四肢を押さえつける腕を辿っていくように居間の中へと目を向けていく。

 暗い部屋の中に佇む一つの影があった。カーテンの隙間から黄金色の陽射しが差し込み、部屋に一人佇む者の姿を照らし出す。

 まずウルリヒの目に留まったのは、御伽噺の中から出てきたような美しい白い髪であった。

「何故お前がここに……?」

「私の質問にだけ答えろ」

 フロレンツィア・アイベンシュッツが低く静かな声で言った。その薄紅色の瞳には強い憎悪の光があった。「何故姉さんを殺した?」

「一人か?」

「私の質問にだけ答えろと言っている」

彼女の声は憤怒に震えていた。同時に、ウルリヒを掴む力は彼がその痛みで顔を歪める程に強くなる。

「……私が彼女を殺したのは、ひとえに彼女が我々人類にとって脅威だったからだ」

「姉さんがお前たちになにをしたと言うんだ」

「言っただろ、脅威だと。害が及ぶ前に排除したんだ。彼女の能力はあまりに危険すぎた。主義思想に関わらず、あらゆる者を支配下に置き、操る支配の魔女。あの隔離空間の魔女を一つにまとめ上げ、専ら一丸となって再び人類への攻撃に向かわせることだってできるし、直接我々を支配し、操ることさえできる力があった」

「姉さんはそんなことしない」

「するかしないかが問題ではない。できることが問題なんだ」

 フロレンツィアの強い怒りを体現するかのように、彼女から伸びた半透明の腕による締め付けがより強力になる。四肢を潰されてしまわれそうな程のその力にウルリヒが苦鳴を漏らした瞬間、彼の眼前を一本の刀が一閃した。

 フロレンツィアから伸びた腕の先端がぽとりと床に落ち、霧散する。

 ウルリヒは床に膝をつき、痛む肩を押さえながら、乱入者へと顔を上げた。その者は、フロレンツィアからウルリヒを守るように彼の前に立った。

 その小さな後ろ姿にウルリヒは目を見張った。フロレンツィアと同様にこの場に居るはずのない者であったためである。

「……ナノ」フロレンツィアが困惑と憤怒の入り混じったような目でナノを睨みつける。「あなたは介入しない約束だったはずよ」

「この人を殺すことは許可していない」

「あなたの許可など要らない。そこをどきなさい」

「だめ」

「あなたはその男とは仲間ではないと言っていたはずよ」

「仲間ではないけど、死なせるわけにはいかない。この人はチセの父親だったから」

「なにそれ……」フロレンツィアの震えた声が響く。「チセの父親が姉さんを……?どうして……?ならチセも……?」

「チセは関係ない」

「あなたはここに来るまでそんなこと何も話さなかった」

「約束はフロレンツィアをこの人に会わせることだった」

「あなたは敢えて言わなかった」

「このタイミングで言うのが一番良いと判断したから」

 ナノは悪びれた様子もなく淡々と答えた。しかし、その黒い目はフロレンツィアに対する僅かな憐れみを含んでいるようにも見えた。

「卑怯者!」フロレンツィアが声を荒げる。「あなたは何もかも計算して、私を利用することだけを考えて……最初から私を騙していた!全部演技で、自分に都合の良い側面だけしか見せない」

「でも助けてくれるでしょ?」ナノがフロレンツィアとは対照的な落ち着いた声で言う。「だってフロレンツィアはチセが好きだから」

 フロレンツィアの顔から一瞬全ての表情が抜け落ちた。彼女は強い衝撃に黙り込んで、茫然としていた。そして数瞬の後に、次いで現れた怒りに身を任せるように、魔力で形作った腕をもって隣にある机を粉々に打ち壊した。

「私はあなたが嫌いです」

フロレンツィアは荒い息を整える事もせず、ナノに向かって言い放ち、それからウルリヒを睨んだ。

「お前も殺したい程憎い。だけど、チセは……」

 僅かな沈黙が降りた。続く言葉はなかったが、悲しみの底に沈んでいくようなフロレンツィアの声と表情が言葉では言い表せなかったあまりに複雑な感情の一部を顕にしていた。

「チセを助けに来たのか」ウルリヒが沈黙を破って言った。

「私は……姉さんを殺したお前に会いに来た」

「復讐、か」

「フロレンツィア……」

「殺すな、でしょ。ナノの主張は分かった。けど私は姉さんを殺したこの男がのうのうと生きていることが許せない。憎い。チセのことより、この男を今ここで殺してやりたい」

 フロレンツィアの言葉に、ナノが下げていた刀を僅かに上げる。しかし、フロレンツィアからは攻撃を仕掛ける気配はなかった。

「その望みを叶えたとしても、きっとチセなら許してくれる。私にはその権利があるのだと。チセは私を許す。復讐の連鎖はそこで終わる。終わらせるのは私でなくて良い。そんなことを考えてしまう自分が嫌で仕方ない。頭がぐちゃぐちゃになる。ねえ、その男を殺してもチセは私を許してくれると思う?」

 ナノは押し黙った。その沈黙が彼女の答えだった。対して明確に答えを口にしたのはウルリヒであった。

「許すだろう。チセなら許す。だから殺せば良い。理不尽に奪われた者はその理不尽を返せば良い。私は魔女に妻と娘を奪われた。私が、私たちが君の姉を殺したのは、過去から来る恐怖と恨みからだ。魔女は人を殺す。たとえあの隔離空間でその性質に変異があったとしても、私には関係なかった。理屈ではない。絶えざる憤激と消えることのない憎悪、それらはあらゆる理屈を飲み込み、執拗なまでに人を駆り立てる動力となる。チセはそのことを知っている。知ってなお、自身がその衝動に染まることを良しとしない。彼女は奪われることに慣れている。だが、失うことを最も恐れてもいる。今さら私如きが殺されようと、その実行者たる友を切り捨てる真似はしない」

「私が殺せないとでも思っているのか」

 暗澹たる室内に緊張が走る。フロレンツィアはウルリヒを射殺してしまいそうなほど鋭く睨み、ウルリヒもまた目を逸らすことなく彼女を見返していた。

「待って、フロレンツィア」ナノが言った。「この人を殺すにしても今でなくても良いでしょ。この人はチセを助けるためにも殺さないで欲しい。チセが居る施設内部に詳しい人間だから。……チセを助けることには協力してくれるんだよね」

「……利用して、その後に必ず償わせてやる」

 フロレンツィアは言いながら、ナノとウルリヒを押し除けるように居間から出て、二階へ続く階段へと足をかけた。

「どこに行くの?」ナノが問いかける。

「その男を視界に入れたくない。あなた達はまだ話す事があるのでしょう」

 フロレンツィアは振り返ることなく二階に上がると、そこの適当な一室の扉を開いた。そこは机と椅子とベッド以外ほとんどなにもないがらんどうな部屋であった。部屋に入ってすぐに端の机の上に置かれた楽譜と写真立てに目がいく。写真立ての中には、ピアノの演奏をしているブロンドの可愛らしい少女の写真が飾られていた。チセと似ているようにも見えたが、別人であることはすぐに分かった。楽譜は写真の少女が使っていたものだろうかとフロレンツィアはなんの気無しにそれを手に取った。そこにはいくつかのメモ書きがあった。フロレンツィアは最初、それを写真の少女のものかと考えたが、よく見るとチセの字だった。そのメモ書きから彼女が熱心にピアノの練習をしていたことが伺えた。そしてまたそのチセのメモ書きの中に、男の字が混在していることにも目がいった。

 フロレンツィアは鬱積した感情を吐き出すように、楽譜の端を握り潰した。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


「こうしてお前がここに居るということは、あのとき本当に刷り込みが解けていたということか」

 フロレンツィアが二階に行った後、ウルリヒはナノに目を戻して言った。「デニスはどうした?」

「彼とは隔離空間へと向かう時に別れた。人間があそこに入るには特殊な装置がいるのでしょう?」

「デニスの手で逃され、チセを助けるために一人で隔離空間に渡り、戻ってきた。そういうことか?」

ウルリヒの問いにナノが頷いた。

「分からない」ウルリヒが呟く。「最初からチセまでも助けるつもりなら、デニスは何故、彼女を第五地区ワイゼンハウスへ帰した」

「チセはあなたの身を案じて自ら戻ることを決めたと聞いている。彼はあそこに戻ろうとする彼女を引き留める事ができなかったと言っていた」

「そもそもチセがあの場に戻るのがおかしい。負傷した私を病院に連れて行かねばならず、共に逃げる事ができなくなったのは分かる。もし私の裏切りが露見したら病院に連れて行ったとしても、私に危険が迫ると考えたであろうことも分かる。だが、それだけでチセがナノ、お前を一人置いてあそこに戻るとは考えにくい」

「何かデニスさんが隠しているということ? 自分の行動の結果、誰かが傷つくのはチセが最も恐れる事だと思うけど」

「そうだろうが、同時にチセはお前が、今やっているような行動に出る事も予測できた筈だ。あそこに戻るということはつまり、お前をも危険に晒すことを意味してもいた。それなのに自ら戻った。何か他に理由があったのではないか?もしそうなら、刷り込みの有無に関わらず、チセはあそこから逃げ出す事を拒むかもしれない」

「それなら、力ずくで連れ出すまで」

「できるのか?」

「分からない。本気のチセには敵わないと思ったから、戦闘を避ける為にわざわざ危険を冒してまでフロレンツィアを連れてきた。彼女ならチセを刷り込みを受ける前の状態にまで戻せると思う。でも、刷り込み関係なしにチセが私を拒むなら、やはり力ずくで連れ出すしかない。チセは魔力感受性も気配察知能力も桁外れに高いから、奇襲も難しいし、かと言って正面からやり合っても、勝てるかは分からない。でもやるしかない」

「戦闘になった時点で、施設の者に侵入が気づかれてしまうのではないか?」

「私には、監視カメラを欺く程度ではなく、人の認識そのものを欺く能力がある。多少の事では気づかれないように細工できる。チセを一人で助けに行くのではなく、フロレンツィアを連れて来るという選択をしたのもこの能力があったから」

「能力……そうか、試みは成功していたわけか」

ウルリヒは一人得心したように呟いたが、ついてそれを否定する疑問を口にした。「だが、なぜそのことを隠し通せている?」

「隔離空間を出たときに、自分の能力の記憶を失ったの」

「記憶を失った?」

「フロレンツィアは隔離空間を出たときに、過去の記憶を見たと言っていた。隔離空間からの脱出は魔女になにかしらの影響を与えるのかもしれない」

「だが、チセはなにもなかった。少なくとも本人からはなにも聞いていない」

「チセが言わなかっただけか、それとも影響を受ける条件があるのか……」

「もしくはつい最近になって生まれた隔離空間の変異なのか。記憶の魔女が復活でもしたか……」

「記憶の魔女……それかもしれない。私はチセとの接触で記憶を取り戻した。チセは記憶の魔女の力を継承しているのかも」

「もしそうなら急いだほうが良い。もう遅いかもしれないが、チセが記憶の魔女の能力を持っていると知られたなら、彼女に対する警戒も強まるし、扱いきれないと判断が下されれば、すぐにでも殺されるだろう」

「ならすぐにでも行きましょう」

 そう言ったのは、2階への階段の半ばまで降りてきていたフロレンツィアであった。ナノは目を見張って彼女を見上げた。暗く陰った場所に佇むフロレンツィアの顔からは僅かに険しさが薄れているように見えた。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 チセは暗闇の中にいた。四方は鉄の壁に囲まれていて、一切外の様子を窺い知ることができない。昼なのか夜なのかも、そこにどのくらいの時間居るのかも判然としない。冷たい鉄の箱に閉じ込められ、外に出ることもできない。だが、不思議と恐怖はなかった。孤独を感じることもなかった。むしろ、誰かと繋がっているような暖かな感覚に満たされていく。鉄の壁、暗闇、自身の体、自分と繋がっている誰か、全てが一つに溶けていく。意識が薄らいでいく。気がつくと、彼女は遠いどこか別の場所に居た。

 そこは白い蛍光灯の光が眩く降り注ぐ部屋であった。チセはその一角にあるベッドの上に横たわっていた。起き上がろうと試みる。しかし、上手く体を動かせない。声を出しても、上手く言葉にならない。自身の体をコントロールすることに悪戦苦闘している彼女を包み込むように、大きな影が差す。

 ブロンドの美しい髪の女性が彼女を見下ろしている。チセはその女性に向かってなんとか手を伸ばす。が、触れることができない。そこでチセはふと気がついた。あまりにも自分の手が小さく、比べて眼前の女性はとても大きく見えることに。

 女性が何かを呟く。それは単なる音としてしか捉えられず、まとまりのある意味を持つ言葉として解することができない。ただ、女性の表情がとても暗く沈んでいるように見えた。

 女性の発する声が次第に小さくなっていく。反対に、どういうわけかチセは彼女の発する言葉が理解できるようになっていった。

「私のせいで……こんな……父さんが……」

断片的にしか言葉を拾えなかったが、その声色からすぐにチセはそれを懺悔の言葉だと理解した。

「ごめんね」

 女性はチセの小さな手をその大きな両の手で包み込んだ。とても暖かいなにかに手だけでなく、体全体が包まれるような感覚を覚え、チセは眠りに落ちた。

 刹那、打って変わって強烈な気持ち悪さに襲われ、彼女は目覚めた。目を開けても周囲は暗闇に覆われていた。自分が横たわっていることは分かったが、どこに居るのかは思い出せず、彼女は助けを求めるように前方へと手を伸ばした。

 伸ばした手は固い鉄の壁にぶつかる。同様に、左右へと腕を広げようとしても、その場所はとても狭いらしく、腕を広げることすらままならなかった。

 それから数秒の間をおいて、暗闇の中に白い光が差し込んだ。突然の光にチセは目を細めた。光に慣れてくると、次第に視界がはっきりとしてくる。同時にもやがかかったようだった意識もはっきりとしてきて、自分がどこにいてなにをしていたのかも思い出した。

 エスペランサと名付けられた兵器へのエネルギー供給に関する試験を行なっていたのだ。チセは棺桶のような黒い箱に入れられ、その中で暫くの間、魔力を放出させられていた。重篤な病に苛まれる者のように、彼女の両腕には無数の管が取り付けられており、口には呼吸器のような管が伸びている。

 白衣姿の男がチセのもとにやってきて、彼女の体に取り付けられたそれらの機器を黙々と取り外していく。チセにはその男の目がひどく冷徹に見えた。

 機器が取り外されると、チセはゆっくりと起き上がった。彼女が入っている棺桶のような黒い箱は、他にもあった。それらは彼女を取り囲むように円形に並べられていた。周囲の箱とチセの居る箱は、放射状模様を描くように太い管で繋がれている。周囲の箱の蓋もまた開かれており、そこにはチセと同じ被検体の子どもたちが横たわっており、研究員がその子どもたちの体に取り付けられた管を外していた。

 チセは腹の底から湧き上がってくるような気持ちの悪さをなんとか堪えていたが、遂には耐えきれなくなり、片手で口を押さえながら、箱の外に身を乗り出すような体勢を取った。その瞬間、酸っぱいものがその口の中にいっぱいに広がった。堪えようとした分、鼻の奥まで気持ち悪い液体が上がってくる。チセは鼻と口から吹き出すように吐瀉物を床にぶちまけた。

 直後、部屋の唯一の出入り口となっている自動扉が開かれ、車椅子の老人が入ってきた。彼はチセを一瞥し、彼女の近くにいる研究員に尋ねた。

「使えるか?」

「十分に適合はしています。調整さえすれば、問題ありません」

「概ね予定通りだ。これさえ完成すれば、他の全ては些事となる」

老人は小さく口の中で呟いた。

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