1-2 友人

 チセが寮のそばの雑木林で一人での魔法の練習を始めてから1ヶ月が経った。その頃には入学当初の時点では物体操作魔法が使用できなかったクラスメイトのほとんどが、難なく魔法を使えるようになっていた。しかし、その中にまだチセは含まれていない。

 その日も学校が始まる前の早朝にチセは一人、雑木林の中で魔法の練習をしていた。ボールを地面に置き、そこに向かって魔力を放出する。ボールを直接触れた状態から魔力を注ぎ込み、操ることはできるようになったが、まだ離れたところからだと同様のことができない。ボールを上に浮かそうとしても、重心がぐらついたようにあらぬ方向にぐるりと一回転するだけであった。

「はぁ」

やるかたない苛立ちと焦りを体の内から一気吐き出すような深い嘆息が静かな木々の間を抜けていく。

 直後、落ち葉を踏むカサリという音がチセの耳に入った。音のした方を振り向くと、そこには制服姿のフロレンツィアが立っていた。

「やはりここには魔法の練習に来ていたのですね」

フロレンツィアは、チセの足元のボールを一瞥する。「魔力の付与はできるようになったようですね」

 突然の来訪者にチセは目を丸くした。

「どうしてここに?」

「私の部屋は西棟にあります。寮からこの雑木林への入り口がちょうど見える位置です。あなたが毎朝早くにここへ入っていくので気になって来てみたわけです」

「朝も早いし、誰にも見られていないと思っていたんだがな」

「いつも一人だからそうじゃないかとは思っていましたが、ケーラーさんは一緒ではないのですね」

そう言ったフロレンツィアの声色にはどこか残念げな響きがあった。

「ナノを私の魔法の練習に付き合わすつもりはない」

「あなたたち同室ですよね。ケーラーさんはここであなたが毎朝魔法の練習をしていることを知らないのですか?」

「知らない。ナノは朝ぐっすりだからな。多少のことでは起きない」

「そうですか……彼女からコツを聞いたりは?」

「していない」

「どうしてです?」

「ナノのことが気になるのか?」

 フロレンツィアは隠し事が明るみになった子どものように罰が悪そうに視線を落とし、しばしの沈黙の後に答えた。

「彼女ほど飲み込みの早い人は見たことありませんから」

「ナノは昔からなんだってできる奴だよ。こういった感覚的なものは特にな」

 ナノがおざなりにしたものに限れば、最後にはチセのほんの一歩先をチセが行くことも決して少なくはなかった。しかし、そこには常に並々ならぬ忍耐があった。大抵のものについて言えば、スタートラインはナノの方が前にあった。故に魔力量なる魔法の行使に大きく関わるものでナノを上回っていた事実は、チセをして密かな期待を抱かせていた。しかし、蓋を開けてみると、結局のところ、魔法でもナノの方が優れていた。

「いつも私ができないのをよそに、隣で事もなげにやってみせる。私が一生懸命なのに、あいつは能天気で、ヘラヘラして……」

憎たらしい、言いかけてチセは口を閉ざした。

「すまない。話しすぎた。忘れてくれ」

 そのとき、フロレンツィアがおもむろに地面に転がったままのボールへと手をかざし、それを宙に浮遊させた。

「物体操作魔法……」

彼女はボールを自分の方へと動かしながら言葉を紡いだ。

「もう少しで使えるようになりそうですが、良ければ練習に付き合いましょうか。ちょっとしたコツ程度なら教えられるかもしれません」

「急にどういうことだ?」

「あなたは少なくとも魔法の才能ならケーラーさんに負けていないかもしれません。魔力量はあなたの方が高いのでしょう。魔法の習得速度で勝てなくとも、覆すことのできない天賦の才を一つあなたは持っています。私は最初、あなたはそういった才能といったものに胡座をかいた人間なのかと思っていました。入学試験で主席であるほどの秀才であるにも関わらず、授業をなおざりに受けているようでしたし。だから最初は少しがっかりしました。今まで、私よりできる同年代の子は周りにいなかったから……憚らずに言いますと、私は対等に切磋琢磨できるようなそんな間柄に憧れているのです」

 話しながらフロレンツィアの顔は次第に赤くなっていった。それまでは誰に対しても一歩下がって物事を俯瞰しているかのような落ち着き払った大人っぽさを纏っていた彼女が、今は自分の内面の一部を吐露し、初心な少女のように赤面している。それを見てチセは目を丸くすると同時に、彼女が自分になにを求めているのかを理解した。

 フロレンツィアは手のひらに乗せたボールをチセへと差す。

 チセにはフロレンツィアの憧れなどどうでも良かったし、誰かと彼女が憧れているような間柄になることに興味もなかった。しかし、魔法のコツを教えてもらえることは魅力的な提案であった。

 チセはフロレンツィアの手からボールを受け取った。


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 チセがこの世に生を受け15年、少なくとも彼女の記憶のうちでは、自分と年の近い者になにかを懇切丁寧に教わるということは初めての経験であった。周りに年の近い者が全くなかったわけではない。彼女は人並み程度には大抵のことはこなせたため、多少分からない点を尋ねることはあっても、それ以上を求めようとすることがなかった。

 そのために、フロレンツィアが丁寧に魔法を教えてくれることに彼女は奇妙な感覚を覚えた。一緒になって上手くいかない原因を考え、打開策を模索する。進展がなくとも、一人で練習を繰り返していたときに幾度も感じていた、袋小路にはまったような苛立ちはそこにはない。あるのは奇妙な暖かさ。それはチセがこれまでに経験することのなかった青春と友愛とのなかで湧き上がる喜悦の作用であった。


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「……できた」

 フロレンツィアと共に魔法の練習をするようになって2週間、呟くような小さなものではあるが、今までで最も喜色に満ちたチセの声が雑木林の底を駆けた。

 そこには、昇り始めた太陽の光を背にしてぷかぷかと浮かび上がるボールと、額からの汗を拭うこともせず、両の手をボールに向かって構えるチセの姿とがあった。

「やりました!やりましたね、アルトナーさん!」

 フロレンツィアが興奮した様子でチセの手を握った。刹那、ポトリとボールが地面に落ちる。

「あ、ごめんなさい」

フロレンツィアははっとしたようにチセの手を離し、顔を赤くした。

「ありがとう、フロレンツィア」

チセは見る者に温もりを覚えさせるような柔らかで自然な微笑みをフロレンツィアへと向けていた。

 フロレンツィアはあたかも雷に打たれたかのようであった。一瞬目を大きく見開いたかと思うと、彼女もまた喜びと親愛とを湛えたような柔和な笑顔を浮かべた。

 いつもなら時間いっぱい練習をして、そのまま寮に戻る二人だが、その日はいつもよりも早くに切り上げ、付近で一番大きな木の下に揃って腰を下ろし、達成の余韻に浸った。

「アルトナーさんは……」

フロレンツィアは言いかけて、瞬時躊躇い、それから意を結したように言葉を繋いだ。

「あの……チセと呼んでも良いでしょうか?」

チセはすぐには答えなかった。無意識下でフロレンツィアに気を許してしまっていても、ふと思い出したかのように壁を作る。彼女のうちには、フロレンツィアとこれ以上仲良くすべきでないという意識と、フロレンツィアともう少しだけ仲良くしたいという欲との矛盾があった。

「……いいよ。好きな風に呼んでくれたら」

 フロレンツィアは子どもらしい無垢な笑顔を湛えた。その目はすみきった曙の空のような純粋な喜悦の輝きに満ちていた。

「チセは何か夢があるのですか?」

「夢?」

「すごい一生懸命ですからなにかなりたいものでもあるのかなと」

チセはなにかを静かに考えるように、緑の天井を仰いだ。朝の青白い太陽の光が、青々としげる枝葉を通して、彼女の顔の上に影と光との長い筋を落とす。

「……ない。ずっと言われたことだけやってきたし、そんなこと考えたこともない」

「そうですか。でもチセならなんだってできると思います」

「なんだってできる……」

チセはこそばゆい感覚と同時に、復唱するように呟いたその言葉に気味の悪い引っかかりを覚えた。

「昔、誰かにも同じことを言われた気がする」

 ノスタルジックな心細く温かなものではなく、遠い靄のかかった嫌な記憶がわずかながらに輪郭を取り戻そうとする心地の悪い感覚がそこにはあった。その奇妙な感覚を振り解くようにチセは隣のクラスメイトに目を向けた。フロレンツィアは人差し指を小さく動かしながら、遊ぶようにボールを宙に浮かせていた。チセの目には、初めはどこか大人びてさえいた彼女が、この日は年相応に映った。

「あの……チセ」

「なんだ?」

「この学校には後期の半ばに魔法祭という行事があります。魔法祭には様々な出し物やイベントが催されるのですが、その中にクラス対抗戦というクラス毎の代表チーム単位で行われる魔法の模擬戦がありまして、私はそれに出たいと考えています。それでですね……」

フロレンツィアはボールに向けていた腕を下ろして、チセの方を向いた。と同時に宙に浮いていたボールもポトリと地面に落ちる。

「チセも一緒に出て頂きたいのですが、如何ですか?ひとまずクラス対抗戦で優勝することを目標にしてみませんか?」

フロレンツィアがどこか不安げに提案する。

 チセはフロレンツィアが地面に落としたボールを再び空中に浮かせ、先刻まで物体操作魔法が使用できなかったとは思えない程に滑らかな軌道を描いてみせた。

「そうだな。それも良いかもしれないな」

フロレンツィアはその返答に目を輝かせ、嬉しそうにチセの手を取った。

「そうだ、一応魔力を回復させておきましょう。今日も大分消費しましたよね。授業に支障が出てはいけませんから」

そして上機嫌に言うと、集中するように目を閉じた。

 チセはフロレンツィアに握られた手に目を落とす。とても暖かい感覚に包まれている。手だけではない。次第に全身がぽかぽかと暖かくなる。

 どの魔女でも使用可能な魔法は、直接触れずに物体を動かしたり、簡易な物を生み出すことはできても、それ以上のことはできないとされている。他者の体の働きに直接影響を及ぼすような魔法は誰でも使えるようなものではない。

「この魔力を回復させるのってフロレンツィア固有の力なんだよな?」

チセは以前から疑問に思っていたことを口にした。

「ええ、あまり大したものではありませんけど」

フロレンツィアはチセから手を離して答えた。

「これが大したことないのか?十分凄いだろ?それに私たちの年で能力を持っている人は稀だって聞いている」

「稀ではありますが、良くも悪くも決して凄い力ではありません」

「良くも悪くも?」

「近年、強力な能力を持つ人が立て続けに殺されているのです。でも私の力程度なら安心できるんですって……」

そう言ったフロレンツィアはどこか悔しげであり、悲しげでもあった。

「フロレンツィアも気をつけておいた方が良いかもしれない」

「どうしてですか?」

「なにをもって強力と定義するかは分からないけど、見方によってはやはりフロレンツィアの力も十二分に強力だろうから」 


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 薄暗い部屋の中、ウルリヒはひたすら机の上の書類に筆を走らせていた。その部屋は、研究者か本の蒐集家の書斎の様相を呈していた。左右の壁には本棚があり、本棚にはずらりと本が敷き詰められている。それら本棚に挟まれるように部屋の中央には応客用の机とソファーがあり、部屋の奥の窓際には大きな机が置かれている。ウルリヒはその机で、窓から差し込む日没の弱々しい陽光のもと、黙然とペンを動かし続けていた。

 部屋には彼の他に、もう一人スーツ姿の男が居た。わずかにウェーブがかった黒髪の30半程の真面目そうな男であった。その男――デニス・ケーラーはソファに腰かけ、出された紅茶を口にするでもなく、ただその水面に反射する光をじっと見ていた。

「二人は上手くやっているでしょうか」

デニスがおもむろに口を開いた。対してウルリヒはペンを置き、彼の方を見て落ち着いた様子で答える。

「彼女たちはあの孤児院、第五地区ワイゼンハウスの中でも特別安定した個体だった。あそこでの惨劇を体験して尚、投薬量も施術数も他の個体が受けていたよりも少なく済んでいる。悪魔の子どもたちの中でも成功例だと専門医も言っている」

「学校にいれば、学友に少なからず親しみを覚えることもあるのではないでしょうか」

「人に好かれ、社会に愛される傍らで、それらを欺き破壊できる人間というのは、一方で友情を賛美する心を見せながら、他方でそれを嘲笑い蔑ろにする心を持ち、それでいて、調和の取れた心持ちを崩さず、矛盾を抱えながら矛盾を意識せず、欺瞞を使いながら欺瞞を認めず、友愛を過去の遺物とし、裏切りを未来の萌芽とする。私たちが作り上げたのはそんな人間だ」

「私たちは自分を父と慕う娘たちこそを本当の悪魔にしたわけだ」

 ウルリヒは答えなかった。彼はデニスから顔を隠すように一枚の紙を眼前まで持ち上げた。そこには街中を歩く白い髪の少女が映った写真が添付されていた。


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 物体操作魔法を使えるようになってからチセは、他の魔法の習得においても他から大きく遅れることもなくなった。もとから座学はトップであり、後期に入ってからは魔法実技の成績もフロレンツィアとナノに次いで3位にまで上り詰めることができていた。

 一年も終わりにさしかかったそんなある日、魔法祭の話が朝の連絡事項として担当教師のラッセルから伝えられた。

 説明のために教壇のスクリーン上に昨年の魔法祭の様子が映し出される。

魔法を使った演劇や舞台上のパフォーマンス、雑多な屋台、まさにお祭りという名にふさわしい賑わいを見せていた。中でもクラス対抗戦は毎年、内外問わず多くの観客を集めるらしく、スクリーンに映し出された観客席は生徒だけではなく外部から来たであろう人たちで黒山の人だかりとなっていた。

 クラス対抗戦は、クラスごとのチームに分かれて行う魔法の模擬戦である。使用できる魔法には制限があり、防護魔法も付与されるため、ある程度の安全性は担保されている。勝負方式は、1対1の陣取り合戦となる。2チームそれぞれが陣営の中に旗を立て、その旗を取られるか、もしくは、チームメンバー全員が倒されたら負けとなる。撃破判定は、左胸に展開される魔法陣に攻撃を当てるか、試合前に付与される防護魔法が警告を発するかのどちらかとなっている。

 スクリーンの映像とともに大まかな説明を終えたのち、ラッセルがクラス対抗戦への参加希望者を募った。

「各クラス、5名ずつ選出することになっている。対抗戦への出場を希望する者は手を挙げてくれ」

 まず最前列に座っていたフロレンツィアが手を挙げ、その両隣に座っていた彼女の友人の双子ヘレナとイレーネが続いた。最後尾に座るチセもフロレンツィアとの約束通り手を挙げる。その隣で我関せずといった風にぼんやりしていたナノが、驚いたように、しかし声を顰めて尋ねる。

「え?チセ?なんで?」

「前から決めていたことだ」

ナノは困惑の目をチセに向ける。

「あと1人誰かいないか?」

 ラッセルが教室を見渡す。しかし誰も手を上げる気配はなく、むしろ誰もが残ったひと枠に入りたくないと考えているかのように、彼女からわずかに視線を外していた。クラス対抗戦は人気の催し物であるがゆえに、注目を集める。自身の魔法に圧倒的な自信があるものか、大勢の観衆の目を気に留めないもの、もしくはクラス対抗戦に参加することに何らかの意義を見出しているもの以外は自主的に代表メンバーになりたくはないものだ。

 立候補する者がこれ以上出てこないと思われた矢先、ナノが静かに手を上げた。

「おお、ケーラー、出てくれるか」

ラッセルの声はわずかに弾んでいた。対抗戦での勝利を目指すなら、実技成績が学年2位のナノを参加メンバーに加えるべきことは、誰もが頭に過ぎる発想である。彼女が自主的に手を挙げずとも、結局は誰かが彼女を推薦するであろうことは目に見えていた。ラッセルもそれが分かっていたのだろう、彼女はナノが手をあげるのを見て微だが安堵した表情を浮かべていた。当のナノは、困惑と戸惑いの色を残したまま手を下ろした。


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 その日の放課後、早速チセたち対抗戦出場メンバーは、屋外の第一魔法場で対抗戦に向けた練習をする運びとなった。空は晴れ渡り、幸運にも魔法場を使用している者は彼女たちを除けばほとんどおらず、練習をするにはうってつけであった。

「ケーラーさんも出るんだ」

 魔法場に集まるなり、双子の片割れのヘレナがナノに話しかけた。それまでほとんど会話したことがなく、それどころか初対面では互いにあまり良い印象を持たなかったと考えていたために、ナノはあまりにも気さくに声をかけられたこと自体に目を丸くする。

「せっかく同じメンバーとして対抗戦に出るんだし、ナノって呼んでも良い?」

「別に良いけど……」

「そう。良かった」

 ヘレナの人懐っこい微笑みがナノの強張っていた表情を微だが柔らかくする。

「私もナノって呼ぶー」

妹のイレーネも自らを主張するように手を上げながら、明るい声を上げた。

 彼女たちの和気藹々とした様子をはたで見ていたチセも、その雰囲気につられるように安堵の表情を浮かべると、隣で同じく3人のやりとりを眺めているフロレンツィアに話しかけた。

「ヘレナとイレーネはナノを嫌っているわけではないのだな」

「どうしてそう思うのです?」

「これまでナノとヘレナたちが会話したのは数回程度だが、そのどれもがナノが検討外れな返しをしたせいで、えも言えぬ空気になっていたと思うから」

「あの二人は別にそんなこと気にしてませんよ。むしろケーラーさんに興味があるようでしたし、今回ケーラーさんが対抗戦に参加することを喜んでいると思います。嫌っていると言えば、むしろケーラーさんが二人を嫌っているのではないかと私は心配なのですが……」

「ナノが?なんで?」

「入学式のときに少しありまして……」

「入学式のときに?」

 フロレンツィアは暫し考えるように黙っていたが、決心したように口を開いた。

「あの二人が、私がチセに入学試験で負けたことを気にしていると思いこんで、それで入学式のときにあなたを貶めるような発言をしたのです。それをケーラーさんが聞いていまして……。あの、別にヘレナたちはあなたを嫌っているわけではなくて……」

「分かっている。そもそもそんなことで怒ったりしないよ。ナノも一時はムッとしたとしても、ずっと根に持つような奴じゃない」

「良かった」

フロレンツィアの表情がパッと明るくなる。

 ヘレナとイレーネはナノと今までほとんど話したことがないとは思えないほど、彼女に楽しげに話しかけていた。

「前からナノと模擬戦してみたいと思っていたんだよねー」

 ヘレナがふと思い出したかのように言った。「せっかくだからちょっとやってみない?」

「模擬戦……」

ナノは助けを求めるようにチセを振り向く。

「やってみたら良いんじゃないか」

「フロレンツィア、良いよね?」ヘレナがナノの返事を待たずしてフロレンツィアに尋ねる。

「ケーラーさんが良いならね」

全員の視線がナノに集まる。彼女はどこか罰の悪そうな顔をして、小さく頷いた。

 ナノとヘレナは互いに20メートルほど距離を置く。ナノは動きやすいように制服のケープを脱ぎ、軽く体を伸ばす。対するヘレナはケープを着けたまま、準備運動を始めた。

「勝負形式は、対抗戦と同じとします」

 フロレンツィアが二人に防護魔法をかけ、それから互いの左胸に撃破判定に用いる丸い小さな薄緑の魔法陣を浮かび上がらせてから、ルール説明を行なう。勝敗は単純で防護魔法が警告を発するか、もしくは左胸の魔法陣が破壊されるかで決する。フロレンツィアが二人にかけた防護魔法は、対抗戦で使用されるものと同じ魔法で、体の周りに透明な膜を貼る形で展開されている。それは隙間なく全身を覆いながら、まるで空気のように重さを感じさせず、動きも阻害しない。それでいて、鉄の棒を思いっきり振り下ろされたとしても、衝撃をほどんど通さないほどの耐久性がある。ただし、際限なく攻撃から身を守ってくれるわけではない。ダメージが入るほどに魔法の膜はすり減り、最後には消滅する。体を覆い、保護してくれるこの膜は7割ほど消費されると、赤い光放つ仕組みとなっている。その状態になった時点で負けとなる。またナノとヘレナの左胸に浮かび上がっている薄緑の魔法陣は、一定以上の衝撃が加わると赤色に変化する仕組みとなっており、この魔法陣が赤へと変色しても負けとなる。

 フロレンツィアが試合開始の声を上げた刹那、ナノが力強く地を蹴ってヘレナに向かって駆け出した。ほぼ同時に、ヘレナが魔力の塊を整形して七本の剣を自身の頭上に作りあげる。それらの剣はシャボン玉のように半透明で所々に虹色の光を内包した神秘的な輝きを帯びていた。接近戦の間合いまで詰められまいと、ヘレナは後退しつつ、剣を放つ。四本はまっすぐナノに向かって飛んでいき、残り三本は左右と上方向に弧を描くように放たれた。

 ナノは二本だけ短剣を眼前に具現化させると、左右の手でそれぞれの短剣を握った。次の瞬間にはヘレナが放った剣が挟み込むように迫ってきていたが、ナノはそれらがとり得る軌道を全て読めているかのように、最小限の動きで攻撃をかわし、時に短剣でその軌道をいなしてみせた。激しい剣戟の中にありながら、まるで踊っているような華麗さがそこにはあった。

「すごい……」

 模擬戦の邪魔にならない程度に離れた位置でその様子を見ていたフロレンツィアが感嘆の声を漏らす。

「なぜあの数の攻撃をさばけるのですか?」

彼女は試合から全く目を離すことなく、チセに尋ねた。

「ヘレナの操っている剣は一見無秩序に振るわれているように見えて、そこには癖がある。攻撃を仕掛ける剣は、攻撃前に微妙に揺れ動くし、無意識だろうが、どの剣を動かすのかに一定の規則性のようなものがある。なにより七本全てを完璧に操れているわけでなく、同時に意識を割いて動かせているのは二、三本といったところだ。ナノはそれらの情報から攻撃の流れを掴んで、さばかなければならない攻撃ができる限り2方向までになるように位置どりをしている」

「チセもできるのですか?」

「あのくらいなら」

 チセたちが話している間もナノはひとかすりもすることなく、剣戟を回避し続けていた。

 正面から一斉に三本の剣が振るわれた瞬間、ナノは後ろに軽く飛ぶことでそれらを回避すると同時に、今まさに交差しようとする剣の間を通すように、右手の短剣をその先にいるヘレナに向かって投げた。その素早い動作と、自らが振るった剣に視界を狭められたことで、ヘレナの反応に遅れが生じた。彼女は俄かに正面から現れた短剣から両手で顔を守るようにして身を固くした。同時に、それまでナノに襲いかかっていた剣が地面に落ちる。ナノはその機を逃さず距離を詰め、ヘレナの左胸の魔法陣めがけて左手の短剣を一閃させた。魔法陣が赤色に変わる。

 ナノがどこか困ったようにチセに目を向けた。

「勝ちだよな?」チセはフロレンツィアへと確認をとる。

「え、ええ。ケーラーさんの勝ちです」

「なに、今の……」

 ヘレナはぽつりと呟くと、ナノの手を取った。

「ナノ、本当にすごいのね」

「……え?」

「ほとんど魔法を使うことさえなく完封させられちゃうなんて」

「なー」いつの間にか姉の隣に来ていたイレーネが賛同する。「あんなことができる奴がいるなんてなー。すごい!」

 先のナノの戦い方は、見る者によっては、相手を軽視し、手を抜いたと取られかねないものであった。しかし、当のヘレナにも双子の妹のイレーネにも全くそのことを気にした様子はない。むしろ、ナノが魔法の使用を最小限にして勝ちをとったことに賛美の嵐であった。ナノは最初こそ引きつった笑顔を浮かべていたが、次第にその表情は得意満面なものに変わっていく。

 その様に胸を撫で下ろしたチセはフロレンツィアへと声をかける。

「確かに、二人とも良い人だな」

「単純とも言うのかもしれませんけど。それにしてもなぜケーラーさんはあのような戦い方を?」

「単に自分の得意分野を見せたかったんだろう。ヘレナを侮っていたとか、そういう悪意があったわけじゃない」

 チセは誤魔化しを述べた。彼女にはナノが魔法をほとんど用いなかった理由をぼんやりとだが想像することができていた。あれは単なる虚栄心からのものではなく、魔法に頼らない、単純な身体能力だけで生粋の魔女と渡り合う場合、どれだけ対処できるのかを知ろうとした結果であろうとチセは考えていた。魔法が使えくとも、魔女は殺せるのか――相手が未熟とはいえ、先刻の模擬戦はそれを知るための良い機会であった。


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 見舞いの品も一輪の花さえない無機質な病室のベッドに少女が横たわっていた。彼女は夢を見ていた。

 冷たいコンクリートに囲まれた広い食堂。そこには部屋の端から端まで長机が並べられ、等間隔で子どもたちが座っていた。その中には彼女も含まれる。子どもたちは皆一様に無表情で、まるで魂のない機械人形のようで、互いに話そうとせず、ただココアの入ったカップと拳銃の弾丸ほどの大きさのチョコレートが数粒入った皿が机の上に並べられていくのを見ていた。子どもたちはそうして支給されたココアとチョコレートを静かに口に運んでいく。彼女は毎週木曜日にだけ支給されるこのココアとチョコレートが好きだった。しかし、チョコレートがすぐ食べ終わってなくなってしまうのは嫌いであった。そこにいる子どもの一人にそのことを話した。それ以降、その子はこっそりと彼女に自分の分のチョコレートを分けてくれるようになった。綺麗なブロンドの女の子だった。そこの子どもたちはほとんど皆、自分という存在の輪郭を見失い、ドロドロに溶けてなにか恐ろしいものに変わってしまいそうな怖さがあった。しかし彼女にチョコレートをくれるその子だけは、ずっと人間らしく、皆が他者に無関心になっていく中で、彼女に優しくしてくれた。ある日、子どもたちのうちの数人が本当に恐ろしいなにかに変わってしまった。昨日まで何事もなく過ごしていたはずの子どもが得体の知れないおぞましい怪物に取り憑かれたように、ひたすらにそこの人間を殺し始めた。大人も子どもも区別なくひたすらに執拗に殺した。机で頭を潰し、ナイフで目を抉る。あまりにも大きすぎる恐怖が蛇のようになって彼女の足をからめとった。悪魔が迫ってくる。血に塗れた赤い小さな悪魔が、ただひたすらにこちらを見据えて、なんの表情も浮かべず歩いてくる。逃げなければならないのに、​​自分の力ではどうしようもできない心底からの震えに身動き一つとれない。彼女が死を感じたその瞬間、誰かが背後からその悪魔の頭を鉄製の椅子で殴りつけた。その誰かは悪魔の死を確認することなく、彼女の手を取り、力強く引っ張った。

「こっち!」

 チョコレートの女の子だった。先ほどまで得体の知れない何かに足首をギュッと掴まれたような感覚にあったのが嘘のように足が動いた。廊下に出ても死体が転がっていた。チョコレートの女の子は、彼女の手を放すことなく、廊下を駆け抜け厨房に入った。そして調理台の下収納を開けると、そこに彼女を押し込んだ。

「ここに隠れて」

チョコレートの女の子は口早に言った。彼女は一人にされるのだと理解し、ひたすらに女の子に縋り付いた。しかし、女の子は行ってしまった。

「チセ!」

そう叫んだ瞬間、真っ暗な世界の底に落ちた。夢の終わりである。

 少女は、夢うつつの中、男の声を聞いた。

「調整は済んでいるのだな」

「ええ。あの二人ほどではありませんが、性能も十分かと」

 少女が目を開けると、そこには医師と銀髪の初老の男が立っていた。銀髪の男はいくつかの質問をした後、彼女に一枚の紙を手渡した。そこには白い髪の女性が写った一枚の写真が載っていた。

「エリザ、君にはこの写真に写っている白い髪の女を殺してもらう。彼女は魔女の中でもとりわけ脅威な能力に目覚めている」

「……アイベンシュッツ」

少女――エリザは記憶に刻み込むように写真の横にある文字を口に出した。


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 魔法祭には、チセが想像していたよりも多くの保護者や来賓が来ていた。対抗戦は午後からのため、彼女は午前中はフロレンツィアと一緒に屋台や出し物を見て回ることにした。

「ナノはかなりヘレナとイレーネに懐いたな」

屋台が立ち並ぶエリアを抜けたところでチセがポツリと呟いた。振り返ると、20メートルほど後ろでナノがヘレナとイレーネに挟まれて射的をやっているのが見える。

「私もあそこまで仲良くなるとは思っていませんでした。でも……」

フロレンツィアは続く言葉を一度飲み込み、それから

「ケーラーさんに私、嫌われています?」

恐る恐る口に出した。

「なぜそう思う?」

「なんだか私にだけ距離があるように思うのですが」

「それは単にフロレンツィアとどう接するべきか掴めかねているだけだろう。ナノは結構な人見知りだ。自分と同じ人見知りか、なにも考えずグイグイくるような人間だと話しやすいみたいだが、そうでなければ、口数が減る」

「人見知りか、なにも考えずグイグイくるような人間、ですか」

「人見知りの人間には、親近感がわくのか、相手を舐めてかかれるからか、普通に話せるみたいだな。なにも考えずグイグイくるような人間とは気付いたら気兼ねなく話せるようになっている。フロレンツィアはどちらのタイプでもないだろう?」

「ええ、まあ」

「とにかくナノはフロレンツィアを嫌っているわけではない。むしろ憎からず思っているはずだ」

「そうですか。嫌われていないなら良かったです」

フロレンツィアは、ナノたちの方を安堵と羨望とが混じったような眼差しで見つめていた。そこでは、射的でクマのぬいぐるみを獲得してはしゃいでいるナノと双子の姿があった。


 対抗戦の試合会場となっている第一魔法場は木々で覆われており、まるで森のようになっていた。木々は本物ではなく、シールド魔法の応用で木の外観をつくり、それにコーティングをほどこしたものとなっている。加えて魔法場は地面も含め全方位分厚いシールドで覆われており、魔法場とその周りの観覧席との間は物理的に区切られていた。

 チセは第一魔法場に入るなり、地面の感覚を確認する。見た目は芝生に覆われてあるのに、タイル張りの床のような踏み心地となっていた。

 各陣営にはチセの胸付近ほどの高さの赤色の旗が立てられている。自陣営から相手の陣営がある方向を見てみても、分厚い木の壁に覆われて相手の陣営を視認することはできない。

「これって観客席の人もなにも見えないんじゃないか?」

チセがフロレンツィアに尋ねる。

「この木々は先生達が魔法で作ったものですから、普通の木と違って専用の眼鏡を通して見れば透けて見えるようになっています。観客席の人たちにはあらかじめその眼鏡が配られているはずです」

「なるほどな。試合中の役割は練習通り、ヘレナとイレーネが自陣防衛、フロレンツィアが索敵と支援、私とナノが相手陣営に攻め込んで行くというので良いんだよな?」

「ええ。連絡は練習通りこれで行います」

そう言ってフロレンツィアは自身の耳をコンコンと指差した。そこには無線型のイヤフォンが入っている。

 試合開始と同時にフロレンツィアは浮遊魔法でふわりと上空へと浮かび上がり、握り拳ほどの大きさのキューブ型の魔力の塊を周囲に散布した。キューブの半径10メートルほどの範囲にある魔力を内包する存在を感知する魔法である。練度が高くなければ、簡単に阻害されたり、魔力反応を偽装され撹乱されることもある諸刃の剣となり得る魔法であったが、フロレンツィアは相手側に自分のこの索敵を阻害したり、逆に利用し撹乱できたりするほどの実力者がいないことは折込済みである。

「チセ、右側45度、距離は10メートルほどに敵がいます。ケーラーさん、左側30度、距離15メートルほど、木の上に敵がいます」

それだけ伝えるとフロレンツィアは、自身の周囲に無数のキューブ型の魔力の塊を作り出した。先ほどの索敵用のものとは異なり、今度は攻撃用であり、大きさは先刻のものとほとんど変わらないが、一つのキューブに込める魔力量は圧倒的にこちらの方が多い。彼女は展開したキューブの輝きに包まれながら、眼前の敵に微笑んだ。

 フロレンツィアが索敵用のキューブをフィールドにばら撒くのとほぼ時を同じくして、敵陣営からも二人上空へ浮かんでくる者があった。彼女たちはフロレンツィアよりも早くに攻撃用の魔法の展開を始めたが、準備が整うのはフロレンツィアの方が少し早いくらいであった。二人が使用した魔法は、フロレンツィアと同じものであったが、生成したキューブの数においてもフロレンツィアの方が優っていた。二人が生成したキューブの数の合算より、明らかにフロレンツィアのキューブの数の方が多いほどである。

 チセとナノは試合開始と同時に二手に分かれて森の中に踏み込んだ。フロレンツィアから敵の位置を知らされると、チセはすぐに相手を捕捉した。長い黒髪を後ろで一つに束ねた女の子が、魔法で生成した半透明の刀を握っていた。その姿からチセは近接戦闘に自信があるのだろうと判断しながらも、遠距離から攻撃はしなかった。彼女は、ナノがヘレナとの模擬戦のときに見せたように魔法で短剣を二本作り出すと、左右の手でそれら短剣を握り、そのまま相手に向かって駆け出した。

 黒髪の少女もすぐにチセの接近に気づき、すかさず居合いの構えを見せる。そして、チセが刀の間合いに入るよりも前に抜刀した。チセは瞬時にその切っ先の延長線上より身を低くする。直後、先刻までその胸があった位置に一筋の光が一閃した。黒髪の少女はその攻撃を避けられたことに大きく目を見開いた。

 チセは初撃をかわすと、体勢を低くしたまま相手に大きく踏み込み、相手の左胸の魔法陣に向かって短剣を振るった。すんでのところで刀で防がれたが、相手の重心は大きく後ろに傾いた。チセはすかさず、のけぞった敵の左足首を蹴り、転びゆく彼女の胸の魔法陣を斬りつけた。魔法陣が緑から赤へと変わる。

 チセが敵陣営に向かう途中、「勝った」というナノの声が耳のイヤフォンから聞こえてきた。それから少し遅れて「試合終了」という放送が響く。

 チセは自陣営側に備え付けられた出口から魔法場の外に出た。出口付近にはチームメイトがすでに集まっており、ヘレナとイレーネがナノを褒めちぎっている最中であった。

「ナノー、お手柄だ」

「さすがだよ、ナノー」

「うへへへ……」

 ナノは嬉しそうに頬をほころばせていた。フロレンツィアの話によれば、最初に彼女が見つけた敵をナノは数秒で倒したのち、一気に敵陣へ攻め込み、そこにいた残り一人をフロレンツィアと挟み込むようにして倒したということであった。

「私が一人倒してすぐに勝負が着いたのはそういうことか」

チセは得心したように頷いた。「これは最速記録なんじゃないか」

「そうかもしれませんね。私もここまで早く勝敗が決するとは思っていませんでした」

「ナノのおかげだなー」ヘレナがナノの背を叩く。

「ええ、そうですね。さすがでした、ケーラーさん」

フロレンツィアがそう言ってどこかぎこちなく微笑みかけると、ナノはどこか照れくさそうに視線を下げた。

「……ナノで良いよ」

 ほとんど囁くような声にフロレンツィアは数瞬固まっていたが、その音を脳で言葉として理解した瞬間、驚いたように目を見開き、それから心底から湧き上がる喜びを湛えたような柔らかで自然な笑顔を浮かべた。

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