ウィッチハンターウィッチ
森山ナリ
1章 君から
1-1 悪魔の子ども達
空が橙色に染まった頃、ウルリヒ・アルトナーは娘をたずさえて山の頂上へとやって来た。そこには彼ら以外誰も居らず、人の手で綺麗に整えられた広場のようなその場所は、静謐な黄昏の陽光に包まれていた。
しかし、その静穏な場とは裏腹にウルリヒはまるで大事な仕事に取り掛かるような雰囲気を纏っていた。きっかりと後ろに流すようにして整えられた銀色の髪と眉間に深く刻み込まれた皺が、彼の周りの空気をより一層重々しいものにしている。
娘にもまた、父と余暇を過ごすような子どもらしい喜びは見られなかった。彼女は今年12歳になったばかりだが、白いワンピースに身を包み、綺麗に梳かされたブロンドの長い髪を風で崩れないように押さえる姿は、むしろどこか大人びてさえいた。
娘はその青い瞳で父の目に映っているものと同じものを見ようとするかのように彼と同じ方向を見つめていた。そこからは麓の街を一望することができた。
雑居ビルや民家が所狭しと並んでいる。その奥に見える海の向こうからはその日の仕事を終えた漁船が今まさに着港しようとしていた。赤々と燃えるような夕陽に照らされ、建物の間の境界線が薄まったその街は、それ全体で1つの建造物のようでもあった。
「歪な街だ」
ウルリヒが呟くように言った。
「我々から全てを奪い、人類に成り代わったと信じ切っている魔女の街だ」
彼は都市をじっと見ている娘に向き直ると、その肩を強く掴んだ。
「チセ、あの魔女どもの腹の中に入って、奴らを殺せ」
娘――チセ・アルトナーは、その日、初めて父がやろうとしていることを知った。父がこれまで自分に施してきた教育の意味を知った。そしてまた、彼が自分に何を期待しているのかを理解した。
・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・
朝、目が覚めて、チセは自分が3年近く前の記憶を辿るような夢を見ていたのだと気がついた。本当にあの山の上での出来事を追体験していたかのような夢であった。
チセは軽く伸びをしてベッドからおりると、ホテルの部屋に備え付けられた洗面所に向かった。水は手をかざすだけで出てくる。顔を洗い、髪を軽く整えて、使っていたベッドの横にある開き窓のところまで戻る。遮光カーテンを開けると、朝の心地よい日差しが部屋いっぱいに入ってきた。
綺麗に舗装された通りにはまばらに走る車があり、向かいのカフェテラスではスーツ姿の男性が携帯電話で誰かと話しながらコーヒーに二杯目の砂糖を注いでいる。空には飛行船がゆっくりと飛んでおり、その側面のスクリーンには『ウィッチェント〜生活を豊かにする道具をあなたに〜』という文字と会社のロゴと思われるマークがでかでかと映し出されていた。
チセが朝の心地よい陽光に浸っていると、彼女が使っていたのとは別の、もう一つのベッドから、ゴソゴソと布団のなかで動く音があった。
「明るい……閉めて」
布団の中からはくぐもった不機嫌な声が聞こえてきた。
「ナノ、起きろ」
「うーん……」
「支度するぞ」
「もうちょっと……」
チセは小さくため息を吐くと、声の主のところまで行き、その布団を無理やり剥ぎ取った。
ベッドの主である黒髪の少女が観念したかのように体をムクっと起こす。年は彼女もチセも15だが、チセがキリッとして大人びた雰囲気を纏っているのとは対照的に、ベッドの少女は子どもらしい無垢な可愛らしさを持ち続けているような雰囲気をもっている。彼女は寝癖を気にする様子もなく、ボーッと虚空を見つめていた。
「ナノ、まずは顔を洗って来い」
チセは、少女−−ナノ・ケーラーを半ば無理やりにベッドから立ち上がらせると、洗面所へとその背を押した。
しばらくバシャバシャと水の打つ音を響かせた後、ナノが洗面所から戻って来た。先程のどうしようもない眠気を湛えたような表情は幾分か、なりを潜め、寝癖も直されており、肩辺りまで伸びた黒髪が陽光に照らされて艶やかに輝いていた。どこかまだ眠たげな目も合わさって少し大人びて見えたが、憚ることのない大きな欠伸がその全てを台無しにする。
「チセー、おはよう」
「おはよう。少しは目が覚めたか」
「まだ眠い……」
「コーヒーでもいれてやる」
チセは棚の上のケトルに水を入れ、湯を沸かし始めた。ナノはただそれをぼんやりと見つめる。テキパキと動く者とそれに甘える者――対照的だが、調和がとれ、その様は仲の良い姉妹のようであった。
チセがコーヒーを入れ終えた頃には、ナノはこれから通うことになっているアルベルク高等学校の制服に着替え終えていた。
制服は白いシャツに黒を基調としたジャンパースカートと、その上にケープを羽織る形となっており、ジャンパースカートとケープには金の差し色が入っている。
「似合っているじゃないか」
チセはナノにコーヒーを手渡して言った。
「そうかな。チセも早く着替えてみて」
チセはナノに言われるがまま、床に置いていたトラベルバッグから制服を取り出し、着替え始めた。最後に長い髪を後ろの高い位置で一つにまとめる。
「どうだ?」
「かっこいい!思った通り、チセの金の髪にぴったり」
ナノはコーヒーの入ったコップを机の上に置くと、チセのそばまでやって来た。
「私もチセみたいな金色の髪が良かったなー」
「ナノの黒髪も制服にぴったりじゃないか」
「そうかなー。そっかー……」
少なくとも一度は姿見でその姿を見ているはずだが、チセに褒められたことで再度確認したくなったのであろう、ナノは鏡がある洗面所の中へと消えたいった。
「朝食食べたら、学校に行くぞ」
チセがナノにそう話しかけると、「うん」と喜色に富んだ声が返ってきた。
・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・
学校の外観は、チセがパンフレットで見て想像していたよりも荘厳なものであった。チセ2人分の高さはあろうかというほどの正門の先には、洗練された歴史を感じさせる巨大な校舎がある。敷地は木々に囲まれているが、それらも綺麗に人の手によって整えられていた。
入学式後に案内された教室は、校舎の外観と比べればこじんまりしたものであったが、小教室であることを考えればそれでも十分すぎるものだった。
教室の正面には、他よりも一段高い教壇とスクリーンが十分なスペースをもって配置され、教壇と対面する形で個別の机が並んでいる。高い位置にある窓からは、日の光が程よい具合に差し込んでいた。
チセはあらかじめ決められてある通りに教壇から見て右前の席に、ナノは彼女から離れた後ろの席に腰かけた。
今後の日程や寄宿舎のこと、授業に関することなどの説明を受けた後の自由時間、数人のクラスメイトがチセの周りに集まってきた。チセを見る彼女たちの目には興味の色があった。
「アルトナーさんはどこの出身?」
「首席ってすごいね。どういう風に勉強したの?」
右左から飛んでくる様々な質問に対しチセは愛想良く適当な返答をしていく。
ナノもまたチセのもとに行こうと一度席を立ったが、チセの周囲のクラスメイトの姿を見、僅かに躊躇った後、自分の席に座りなおした。
「入学試験で首席だったからって調子に乗っちゃってさ」
とその時、彼女の左手側から不意にそんな声が上がった。思わずそちら側を見たナノの目に最初にとまったのは、端然と席に座っている白い髪の少女であった。その薄紅色の目は理知的で、肌は雪のように白く、まるでおとぎ話のなかの人物のようだった。
彼女の前には薄茶色の髪の長い女の子が2人立っていた。2人ともとてもよく似たすらっとした顔立ちをしている。違いがあるとすればその髪型くらいのもので、1人は髪を後ろの低い位置で一つに結んでいるのに対し、もう1人は二つ結びであった。その酷似した容姿から二人が双子であろうことが察せられた。
「魔法科目があれば、フロレンツィアが主席だったのに」
「2人とも、やめてちょうだい。はしたない」
双子の言葉に対し、白い髪の少女が諌めるように言った。唾棄すべきものに向けるような軽蔑を含んだ声であった。
「え?あ、違うの、違う、フロレンツィア。私たちはただ、魔法の試験もないっておかしいなって。貴方だってそう思うよね」
双子の片割れの一つ結びの子がどうにか弁明しようと必死になり、そして目があったナノに堪らずといった様子で話を振る。ナノは予想だにしていなかったことに「え?」と素っ頓狂な声を上げた。
「多くの人の場合、魔法を使用するための十分なエネルギー生成が行なえるようになるのは、12から14歳の間ですよね」
ナノは相手が求めているであろう答えではなく、ただ自分の意見を口にする。「早熟な人なら、入学試験前に十分な魔法の練習ができて、十分に魔法扱えるかもしれませんが、そうでない人も一定数いるはずです。個人の努力などとは無関係な要素を多分に含んだ試験内容を組み込む意味はそこまでないように思います」
ナノのこの返答に双子がキョトンと固まっていると、フロレンツィアと呼ばれていた白い髪の子が静かに立ち上がった。
「ごめんなさい。この2人も心の底からあんなことを言ったわけではないの」
そしてそう軽く謝罪を述べると、教室から去っていった。
「待ってよ。フロレンツィアー!」
双子もその後を慌てて追いかけていった。
・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・
入学後初の講義は生物学であった。
「……今回の講義で扱うのはエネルギーの貯蔵と放出についてです」
教壇の巨大なスクリーンの右半分に『エネルギーの貯蔵』というタイトルとその過程の同化反応の図解が、左半分に『エネルギーの放出』というタイトルとその過程の異化反応の図解が映し出される。
「……魔法を使用するための十分なエネルギー、魔力の生成が行なえるようになるのは12から14歳頃です。またその生成速度や絶対量、いわゆる魔力量にも個人差があります。皆さんも入学前に、魔力量を数値化して測り、その結果を教えてもらったことと思います……」
初回ということもあってか、話はこの学校に入学できた者にはほとんどにとって既知のものであり、チセは教師の話に集中する代わりに、窓の外に見える木に止まった白い鳥をぼんやりと眺めていた。鳥はしばらく枝の上で固まっていたが、チセと目があった瞬間、どこかへと飛んで行った。
視線を教室内に戻したチセは、先刻の鳥と同じ髪色のクラスメイトがほとんど睨むように自分を見てきていることに気づいた。彼女もまたチセと目が合うと、さっと顔を逸らした。
講義が終わると、一部の生徒たちの間で、講義中に話が出た魔力量が話題に上がった。とりわけ多くの者が興味を示していたのはフロレンツィアの数値であった。
「フロレンツィアはなんと92だ」
彼女の取り巻きである双子の姉、ヘレナが本人の了承も得ずに得意げに言う。
「平均の倍近くあるんだぞ」
妹のイレーネがまるで自分のことのように胸を張る。当のフロレンツィアはといえば、それを鼻にかけるでもなく、むしろどこか居心地が悪そうにしており、その場から立ち去る機を伺っているようにも見えた。
クラスメイトたちの盛り上がりをよそに、チセが教室を出ようとしたとき、不意に彼女の脇腹をつつく者があった。彼女はその突然の強襲に「うひっ」と間の抜けた声を発したが、すぐさま相手を振り返り、誤魔化すように言葉を繋げた。
「……なんだ、ナノ」
「チセの方が、高いよ」
「なんの話だ?」
「魔力量だよ。フロレンツィア って人より高いよ」
「そうか」
「そうかって。きっと凄いことだよ」
ナノは「やっぱりあの数値は高いんだ」と一人で納得したように頷く。その表情はどこか誇らしげであった。が、すぐになりを潜めることになる。クラスメイトの質問と称賛から抜け出したフロレンツィアがナノに声をかけてきたためである。
「それは本当なのですか?」
急に背後から声をかけられたナノは驚いたように振り向き、チセの影に隠れるように数歩後ずさると、フロレンツィアに対し小さく頷いた。
「ちなみにいくらだったのか教えていただいても?」
フロレンツィアはチセの方を見て言った。
「確か120だったと思う」
「120!」
そう驚いたように声をあげたのは、フロレンツィアの背後からひょっこり顔を出したヘレナであった。その隣には妹のイレーネもいる。
「それは盛りすぎじゃないの」
「そうそう。100を超える数値なんて聞いたことないし」
ヘレナとイレーネは「ないないないない」と首を横に振る。
「そうか。それなら、私の記憶違いかもしれないな」
チセは軽く微笑を作った。とその時、ナノがチセの影から前に出た。
「嘘じゃない。私も見たし、記憶違いじゃない」
得もいえぬ気まずい空気が流れる。チセはこれ以上なにも言うなという意味を込めてナノの脇腹付近を小突き、話題を変えようとフロレンツィアに話しかける。
「名前、フロレンツィアだったよな?」
「ええ、フロレンツィア・アイベンシュッツよ」
「フロレンツィアは凄いよ」
ヘレナが自慢げに言う。
「次の魔法の授業できっとびっくりするぞ」
ヘレナに続いてイレーネが得意げに笑った。
・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・
魔法実技の授業は、第一魔法場での物体操作魔法の講義であった。第一魔法場は屋外にあり、サッカースタジアムのように綺麗に整えられた芝生で地面が覆われていた。
クラス全員がまず第一魔法場の端に集められ、それから担当教師のラッセルが注目を促して話を始める。
「物体に外部からの刺激を与えて、なにかしらの反応を起こす。我々が日常的に使っている魔法というのはその刺激を使用者の意図した形で与えるための術だ」
彼女はすぐ横に置いてある、テニスボールほどの大きさの白い玉が敷き詰められた箱に手をかざした。とその瞬間、箱の中のいくつかの玉がぷかぷかと浮かび上がった。
「この講義で扱う物体操作魔法はその一例であり、基礎でもある。すでにこの魔法使えるものもいるだろうが、使いこなせるものは少ないだろう」
次々と箱の中からボールが出てくる。そのボールの塊は、分裂し増殖する細胞のように、個々の玉へと別れたかと思えば、ウネウネとひっつき合う。しまいには、それらのボールから立体的な大きな顔が出来上がった。
「物体操作魔法を使いこなすというのはこういうことだ」
ラッセルの言葉に合わせて、ボールでできた顔の口が動く。
「まだ物体操作魔法が使えないもの、自信がない者は私のところに来なさい。あとの者は練度を上げること」
そう言った彼女のもとに集まったのは、クラスメイトの3分の1ほどだった。そこにはチセも含まれていた。入学試験首席合格という肩書きから、彼女がそこに居ることに多少のざわめきが起こる。が、当のチセに気にした様子はない。
「まずは体内の魔力を体外に放出するところからだが、これは魔力生成が十分行える者なら、誰でもでもできることだ。まずはボールを手のひらに載せて、そこにのみ集中して魔力を注ぎ込む」
ラッセルは実際にボールを手のひらに載せ、実演しながら説明をする。
「最初のうちは放出した魔力をひとところに留められず、発散してしまうだろう。だが、うまく魔力を注ぎ込むことができるようになれば、ボールがまるで自分の体の一部であるかのような感覚を得られる。物体操作魔法とは対象物と自身の感覚とをリンクさせ、操る魔法だ。習得するためにできるようにならないといけないものは次の二つだ。一つは対象物に自身の魔力を付与する術。もう一つは魔力を付与した物体を意図した通りに動かす術だ……」
説明を聞き終えた生徒たちは、早速練習に移ろうと互いに一定の距離を置いた。
とその時、すでに物体操作魔法を使える生徒たちの間で歓声が上がった。
歓声があった場所では、フロレンツィアがいくつものボールを自由自在に操り、人の形を作っていた。それだけでなく、その人形がゆっくりと歩いている。それはまるでマリオネットのようだが、その動きは、より自然で滑らかであった。
「すごい……」
チセが感嘆の声を漏らす。
「あれを見て焦る必要はないよ」ラッセルが言った。「この程度の魔法なら、体が十分成熟すれば否応なしに使えるようになる。本来訓練の必要さえないくらいだ。この授業は正しい魔法の使い方を学ぶことが目的としたものだ。首席だからと変に気負う必要はない」
「はい」
ラッセルの心遣いに、チセは軽く微笑んだ。しかし次の瞬間、その作った笑顔さえも消え去った。原因は再び近くで起こったざわめきにあった。その中心にはフロレンツィアと同じ芸当をやってみせるナノの姿があった。
ナノはただフロレンツィアがやっていることを真似ただけであった。彼女にはそれをやれるだけの能力があった。そのための純粋な興味からの行為であった。だが、その事実がチセの胸をかき乱した。
チセはナノから目を逸らし、腹の底から湧き上がってくる激しい感情を押し殺すかのように歯を強く食いしばっていた。
授業が終わると、またしても多くの生徒がフロレンツィアに集まった。
「あの子、凄かったな」チセはその集団を眺めながら呟いた。
「チセだってすぐできるようになるよ」
ナノが励ますように言う。
「ナノはすぐできるようになったからな」
「そんなつもりじゃ……」
「分かってる。冗談だ」
罰が悪そうに視線を下げるナノに、チセは戯けたように笑ってみせた。
翌日の早朝からチセは密かに魔法の練習を始めることにした。
朝の5時頃に目を覚ますと、隣で寝ているナノを起こさないように静かにベッドから出て、こっそりと寮のそばにある雑木林へと向かう。そこなら誰も来ないだろうし、変に注目されることもないとの考えからである。
程よく暖かい季節ではあったが、早朝だとまだ肌寒く、辺りも暗かった。チセは外套に身を包んで、懐中電灯片手に雑木林の中に入っていく。
雑木林の底は朝の静謐な空気で満たされていていた。鳥の鳴き声一つもない。
チセは外套の内ポケットからボールを取り出すと、それに向かって意識を集中させた。魔力が体外へと放出され、手のひらの上のボールへと集まっていく感覚はあるが、魔力をひとところに保つことができず、すぐに霧散してしまう。
「やはりナノのようにすぐにできるようにはならないか……」
幼い頃から感覚的な事に関しては常にナノの方が優れており、いつだって悪戦苦闘するチセをよそに彼女はすぐに新しいことを身に付けた。そのため今の状況はチセの予想の範囲内ではあったが、それでもナノが自分の先にある事実は彼女の心をかき乱した。
・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・
チセがウルリヒから魔女を消し去る先駆けとなるように言われた彼女が12歳のときだった。
「なんで魔女を消し去るの?」
彼女は、連れてこられた街を一望できる山の山頂でそう尋ねた。
「奴らが私たち人類に取って代わろうとするからだ」
そのときのウルリヒの顔は驚くほどに無表情だったが、それは強い憎悪を覆い隠す仮面のようにも見えた。
その日、施設に帰ったときにはすでに日も暮れていた。
チセは自室へ戻り、家着に着替え終えた後、昔よく読んでいた一冊の絵本を本棚からひっぱり出した。
表紙には『おーすたしあ の まじょ』という題名と、目と鼻が大きなおどろおどろしい魔女の絵があった。魔女の肌は、緑や赤など奇妙な色の雑多な組み合わせで、まるで色々な物を継ぎ合わせてできたような不思議な見た目だった。作者名は書かれていなかった。
チセはページをめくった。
おーすたしあ の まじょは よくばりなまじょ。
まじょは なんでもほしがります。
まじょは あるひ となりまちの アルノーのはなしをききました。
となりまちのアルノーは とてもあたまがよくて みんなに たよりにされています。
まじょは アルノーの あたまがほしくなりました。
まじょは どうしても アルノーのあたまがほしくてしかたなかったので アルノーが よる ねているときに かれの へやに こっそりしのびこみました。
まじょは むしみたいに ちいさくなって アルノーのくちのなかに はいってしまいました。
それから あたまのほうまで のぼっていって そこにある のうみそを ちゅうちゅうちゅうちゅう すいました。
これでアルノーのあたまは まじょのもの。
でも おーすたしあ の まじょは よくばりなまじょなので またすぐべつのものがほしくなりました。
びじんのクラリッサのはなしをきけば かのじょのかおがほしくなり ちからもちのブルーノのはなしをきけば かれのうでがほしくなりました。
なにをてにいれても まじょは べつのなにかがほしくなりました。
いつしか みんな まじょをおそれ にくむようになりました。
まじょは こわくなって じぶんをにくむひとを とおい とおい ばしょにとじこめました。
まじょを にくむひとは いなくなりました。
まじょを しるひとも いなくなりました。
でも おーすたしあ の まじょは よくばりなまじょなので とおくにおいやったにんげんにしかないものが ほしくてほしくてたまらなくなりました。
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