第35話 チケットとナポリタン

「あ!そうだ!柴彩愛先輩!!」


 思い出した名がそのまま口から出る。


柴彩愛しばあやめ

ジーンズに白のパーカーとラフな格好をしているが

ショートアッシュの無造作に流れた前髪から覗く目は、まさしくクロヒョウといった気品と妖美さが垣間見える女性だ。



 「柴でいいよ。それと、

女の子の顔と名前は覚えておいて損はないと思うけど?」


 彼女は手の甲を腰に押し置き、

ハスキーな飾らない声色で促す。


名前がすぐに出てこなかったことに怒っている様子ではなかったが、

どこか退屈そうで気だるげだった。



「すみません!えーと、

柴先輩はこれから水族館ですか?」



 気まずくなる前に間髪入れずに質問する。

最近は沈黙を回避するのが上手になった気がする。

これも自分からなかなか喋らない誰かさんのおかげだろうか。



「まあね、そういう樺月君は帰り・・・というわけではないか?」


 先輩は館内にある大きな掛け時計首の時刻を見てを少し傾げた。


 彼女が不思議に思うのも至極当然だ。

時刻は10時15分、開園してから15分しか経っていないのだから。


 入口から引き返す人間は自分ひとり。

群衆の大半は入口に向かう人がほとんど。


 となれば当然目立ってしまい、

人混みの中、彼女の目に留まり声をかけられるのも納得だった。



 「いや、まあちょっと。

前に来た時の忘れ物を取りに来たんです・・・」



 恥ずかしくも紙袋も持ちあげて見せた。



「なるほどね。じゃあ中はまだ見てないわけだ。

それなら話は早い、一緒に並ぼうか」



 紙袋の中身を聞かれれ、事の内容に恥ずかしい思いをするだろうと

腹をくくってたが、

彼女は待ったく興味がない様子で

列の方をゆびさした。



 「いや、今日は水族館を見に来たわけではないので、今日は帰りますよ」



柴先輩には申し訳ないが、

館内を観て回れる程の心の余裕は今の自分には無かった。


 どうしても瑠璃音と一緒に来ていた時を思い出してしまう。


 この館内入って入場口へと続く広間も、

瑠璃音を待つ時間に十分に過ごした場所だ。


 そして彼女を想って購入したイルカを渡せずに

今もこうして大事に抱えてしまっている

自分があまりに惨めでならなかったからだ。


 今は一刻も早く帰りたい。



 「そうか、それはとても残念。

チケットがちょうど二枚あるし、

話したいこともあったんだけどなぁ、

また今度にするよ」



「すいません、

せっかく誘ってもらったのに・・・」


「いやなに、私だけで楽しんでくるさ」




先輩は人差し指と中指で、

挟んだチケットをぴらぴらと振りながらニヤッと口角を上げると、

進行する列を進んでいってしまった。






「話したいことってなんだったんだろ・・・

というかあまり会話した事ない人だったけど

気さくな人だったなぁ」




 後ろ手で手を振る彼女を見送った後、

帰ろうと出口を目の前にしたその時だった。



「そんでさぁ未だに連絡来るんだよね」

「まじで?やばすぎ」



 聞き覚えのある声に耳が雑音を中から察知した。


 警告音が脳裏に津波のように押し寄せ、

血の気が引いていく。




 『あれは・・・瑠璃音ちゃんの友達!!

名前は知らんがいつも一緒にいるから声と顔は覚えてる二人ッ!』


 瑠璃音と付き合う前から度々顔を見る機会があり、会話はあいさつ程度の面識だが


 瑠璃音と付き合ってたことを、

リアルタイムで知っている数少ない人物だ。




『俺と瑠璃音ちゃんが先月ここに来たのも知ってるはず。こんな1人で水族館からとぼとぼと出てきてるの見られたら・・・』



 1秒にも満たない思考の速さで、

脳内映像が再生された。




「瑠璃音と先月来たからって思い出に浸りに来てんのとかやばすぎない?」


「別れた女にどんだけ未練引きずってるんだよ。

そこに元カノいねーっつーの、キャハハ」




 そして脳内の何処からともなく現れる瑠璃音。



 「キッモッ。死ねば」




 言われてもいないネガティブが思考を凌駕した。



 『鉢合うのは絶対まずい!!』



脳内首脳会議の自分の分身達が多数決を取る前に、

体が先に動く。


そして反転し向かい来る二人組に背を向けると逃げ道を探す。


 出口から入場口まで一本道。

人は多いが皆同じ方向を見て一列に並んでいる。


その為列から離れ、建物の壁に逃げようものなら、立ち止まる列の目線は絶対に避けられないだろう。


おまけに列は大きくなっており最後尾は二人組よりずっと後ろ、

もはや並び直す選択肢も無く、

いよいよ後にも先にも退けなくなった。



『か、かくなる上は・・・』


急ぎ列の中に飛び込む。



 強引に割り込む訳でもなく、

列の中の誰が怒るわけでもなく、

すんなりと。


「おや、また会ったね、また忘れ物?」


「いえ、せっかく来たんで、

やっぱりご一緒させてください!」



 思い切って飛び込んだのは柴彩愛先輩の隣。


 都合のいい男かもしれないが、

危機的状況に選択肢などなかった。


 彼女は眉を少し上に上げ、驚いたようにも見えたが、こちらの心でも透けて見えてるかのように、

意味深な顔で口角だけをぐっと上げ何か企んでいるかのように笑った。



 「おやおや、レディーのお誘いを断っておいて、樺月君は優柔不断なのかな?

それとも気まぐれ君かな?」



意地悪そうに言ってくるが、

表情は変わらず楽しそうだ。



 「ホントすみません。

なにか奢るんで簡便してください」


 「いやぁいいよ、私も退屈しのぎに話し相手が欲しかった所だったし。

それはそうと今日から水族館のレストランで、

ナポリタンが期間限定で食べられるみたいだよ。」



先輩は自身の額の上を見つめ、

脇を抱えたもう腕から

2枚のチケットをこちらに突き出し、

挟んで見せていた



 「食べましょう!ナポリタン!

もう今日ナポリタンしか食べたくありませんッ。」



「奇遇だね。私も気になってたんだ。

どうやら一緒に行く理由が出来たみたいだね」




 女性と入る2回目の水族館は、

彼女でも友達でもなく、

先輩となった。

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