第9話 廊下の元カノ

 手洗から個室に戻る廊下で、自分に掛かかった細い手。

その場から動けなかったのは、前が見えなかったからでも

押さえられた力が強かったわけでもない。


 喉に詰まり窒息しそうになる程の想いが、胸の内からあふれたせいだ。


 目に見えずともわかる繊細な指。

頬に伝わる腕の熱。

背中を包み、けるような柔らかい感触。

鼻をくすぐる香水の香りは全身が包まれていくようで、

その時間は、一瞬にも永遠にも思えた。



「瑠璃音ちゃん・・・」



 問いに答えたワケではない。

蘇った記憶の名前を声に出しただけ。 



「大当たりぃ。よくわかったねぇかーくん。

あれぇ?わたし名前で呼んでたかなぁ?」



 明るい口調でスッと手をほどく、

目隠しをした本人は―――七瀬瑠璃音ななせるりね


 こちらの感情など、知ったことではないと言わんばかりに、

眼前に可愛らしくぴょこんと、踊り出ては後ろに手を組み、

そのせいで押さえの失った双丘が前に突き出され、目の前にポヨンとおどりでた。



 「名前は呼ばれてないよ。声でわかったから」



 「さすがだぁ」とミルキーブロンドの髪をふわっとふくまらせ、

笑った顔は天使の姿に他ならなかった。


 白のTシャツに、空色のオーバーオールがよく似合い、

繋ぎのショートパンツから、すらっと伸びた太ももがつやめかしい。

 

 黒のハーフブーツがその天使を、

地に足を付けている現実の女性だと理解させさてくれる程に

現実離れした可愛らしさ。



 「びっくりしたぁ。ちょうどお手洗い行こうと思ったらさぁ、

かーくんの姿が見えたから走っちゃった。あ、ちょっと肩貸して?」



 返事をもらう間もなく、石膏せっこうのように固まってしまった肩に、

瑠璃音は躊躇ためらいもせず、もたれかかるように手を乗せると、

片足立ちになりブーツのかかとを直し始めた。


 本当に走っていたのだろう、漏れた吐息が首に掛かる。



「えっ、ちょっと瑠璃音ちゃん!」



 動揺のあまりけ反ってしまった。


 こちらの肩に体重を預けていた彼女は、

上半身ごともたれかかるような体勢になり、

オーバーオールのサスペンダーから、こぼれた胸が腕全体にのしかかってきた。



「わぁ!ごめんねぇ、重かったよね?」


 

 シャツからあふれたそのマシュマロは、

その白皙はくせきのせいで、

うっすらと血管が見えるほどの距離まで迫っていた。


『重いっていうかすごい・・・ウッ、やばい・・・』


 今まで何度も目のやり場に困ったそれが、

五感と股間を強襲し、少し前かがみになってしまった。


 付き合ってた頃は、向こうからボディタッチなんてしてくれたことはなかった。

それどころか、デート中に手を握っても握り返してくれたこともない。


 勇気をもってホテルに誘うような行動をとっても、

見透かされたように、終電の4つ前くらいのダイヤで帰られてしまったし、

家に呼んだこともあったが、当日にキャンセルされてしまっていた。


 そんな彼女が今は半身を突き出し、密着している状態。

正直何が何だかわからない。



 「ど、どうして瑠璃音ちゃんがここに?」


 「どうしてって、ここ居酒屋だよぉ?私だって飲むことあるよぉ。

偶然って重なるものなんだね。1日に2回も会うなんて。」



 ブーツを履き直した瑠璃音は、蝶のようにふわりと離れ、

両手の指先だけを合わせ、上目遣いでこちらの表情を探るように見つめてきた。



 「でもよかったぁ元気そうで。

食欲無いみたいって友達から話聞いてたから心配してたんだよぉ?」


 『元気そうというか、今絶賛元気になったというか・・・』



 ようやく離れてくれたが、精神衛生上とてもよくなかった。

いや、とてもよかったけれども。



 「そ、そうなんだ・・・あはは」

 


 自分に友達はとても少ない。どこから聞いたのだろうか。

いや、それよりももっと他に聞きたいことがある



 「あのさ。一つ聞いていいかな」



 ぼやくように振り絞った一言。瑠璃音は一度唇を結び、再び開いた。



 「えぇ?なんだろぉ、スリーサイズかなぁ?」

 


 とぼけたように人差し指を顎先に刺す彼女。

二つ返事で頭を縦に振りそうになったが、理性が首に急ブレーキをかけた。



 「何が悪かったのかな・・・」

 「え?・・・」



 主語もない質問に瑠璃音は眉を高く上げ、不思議そうに首をかしげ微笑む。


 あどけない表情でこちら見つめる瞳の輝きを直視出来ず、

思わずうつむいてしまった。


 なにも入っていない空っぽな今の自分に、

彼女の満たされるような笑顔はあまりに眩しかったのだ。


 「俺、瑠璃音ちゃんに嫌なことしてたのかもしれない。

嫌な思いさせてたのに気づかなかったのかもしれない。

もしそうだったとしたら今ここで教えて欲しいんだ。」


「なにそれぇ?今更それを知ってどうするのぉ?」


 彼女の疑問文は続く。


 「謝りたいんだ」


 「謝る?」


彼女の口から笑みが消え、口角が下がる。


 「相手に悪いことしたときって謝るのが普通だけど、

何が悪いかも分かってないのに

“嫌がるようなことしてたらごめんって”

謝るのは少し違うと思うから。

だから知りたいんだ。俺の何がいけなかったのか。

そして何がダメだったのか。」


 本心だ。喉に詰まっていた言葉がすんなりと出た。



 「・・・かーくんは優しんだね。もしかして、私のことまだ好きだったりしてぇ」



 「あぁ好きだよ。大好きだ」



 これも本心だ。今度は彼女の目を見て言えた。

だが彼女は目が合った瞬間に、体ごとそっぽを向いて廊下に飾られていた観葉植物

の前に座り込んでしまった。



 「・・・付き合った期間なんて2ヶ月だよ?そんなんで本当に好きになんて」


 「人を好きになるのに時間は関係ないよ。

俺にとっては瑠璃音ちゃんと一緒にいた時間が全部だから」


「わたしは忘れちゃったよ。かーくんとの思い出」



ジトっと湿った口調で、彼女は背中で答えながら観葉植物を指先でつつき始めた。



「俺は覚えてるよ。

まだ瑠璃音ちゃんと別れたこと、受け止められてないくらい鮮明に。

別れた前の日だって、一緒に買い物行ったりしたし、

その日の夜だって普通に電話もした。それなのに急に別れたいって言われて・・・。


 かと思えば、大学でも今までみたいに話しかけてくれてるし。

こうして普通に話しかけてくれる今だって本当に嬉しいし、本当は別れてないんじゃないかって思うほど俺は君のことがッ―――」

 

「わかれたよ」


 心からの全てが溢れ、こぼれる前に瑠璃音に静止させられる。


 いつもの甘ったるい声ではない。

 別れ話を切り出されたあの日と同じ、冷たい鉱石のような無機質な色のない声。

彼女はようやく立ち上がると、

こちらを見ることもなく壁にもたれかかり、

スマホ画面の反射で前髪を直しながら独り言のように淡々と言葉を連ね始めた。

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