第30話
目に飛び込んできたのは。
ビニール紐と工具で椅子に縛り付けられた母と、ベッドに眠る父の真正面に、亡霊のように立っている那由多の姿だった。
彼はその手に、いや、手、なのか。
気のせいであってほしかった。
彼はその、「なにか」をざわざわと髪からわななかせて、それぞれに工具を持っていた。
レンチやキリ。向かい側には無抵抗の人間。
何かをするには簡単だ。邪魔は居ない。
彼には濃い影がかかっていて顔が見えない。見えなくて良かったかもしれない。それはどうせ、知らない那由多なのだから。
とにかく彼は、くぐもった呻き声をあげる母を無視し、父に向けて飛びかかろうとして。
……瞬間、僕はどうすべきか、逡巡した。
だけど、それはすぐに終わった。
「うわあぁーーーーっ!」
気付けば僕は叫んで、彼にとびかかっていた。
これまで一度たりとも、そんな大きな声を出したことはない。せいぜい弟と喧嘩をした時ぐらいだ。
だからこれは、今からのこれは、僕と彼の間で起きる夢幻劇。そこに現実はない。
ただ概念だけになって、戯れるだけだ――。
……彼は、リノリウムに倒れた。
持っていた工具が散らばる。仰向けの彼は驚いた様子もなく、ただ僕に対して、怒りの表情を向けていた。
激しい。歯を剥き出しにして、充血した目で。
僕は彼に馬乗りになって、その両手を必死におさえこんでいる。
「離せよ、サコタ。俺はやらなきゃならないんだ」
「なにがだ、お前、父さんに何をやろうとした」
「お前を、楽にしてやろうとしたんだよ!」
僕は虚を突かれる。一瞬。
……案の定、こいつは見抜いている。僕の奥底に眠るこころを。目を瞑って意識のない男がそばに居て、そいつは僕を苦しめ続けてきた男だ。
僕だって、何度そうしたかったことか。
でも。
いまは違う。時は、流れるものだ。
那由多は動いていた。僕の拘束から逃れて、すがりつくようにベッドへ。また彼の髪の毛がざわついて、いつの間にかその先端はそれぞれ、工具を手にしている。
非現実的な恐怖が襲ってもおかしくないのに、僕にあるのは、彼との対峙の一心だけだった。
ごめん、母さん。これは、僕とこいつの戦いだ。すぐに、終わらせてやるから。
掛け布団に手をかけた彼に後ろから羽交い絞めを仕掛けて、そのまま後ろへと全体重をかける。
すると彼もろともに床に倒れこむ。
「っいってぇ……」
「さ、サコタ……」
「隙ありィ!」
工具を全部もぎとって、病室の隅にぶん投げる。それから再び、彼にマウントを取ろうと足掻く。だが、那由多も負けてはいない。身体をねじりながら、床を転がって、僕の意のままにならないようにする。そのさなかで、僕らは言葉をぶつけ合う。
「お前のためにやってることだ、なんでわかんねぇんだよ」
「うるさい、そんなの僕はのぞんでない、のぞんでない」
「うそつけ、お前の心をのぞいたんだよ、そしたら、そいつを殺したいって言ってたんだよ――」
「そうさ、だけど、させない!」
「なんだ、そりゃあっ」
起き上がり、僕はしりもちをつく。父に向かう。背中から覆いかぶさる、引きはがそうともがく。
ばたばたと、泥臭い格闘だ。洗練の欠片もない。それが僕らにできる限界なのか、それとも、那由多が僕のレベルに合わせているのか、分からない。
――千日手を制したのは、那由多。
僕を後ろにはじいて、父に向けて、その殺意を、刃の数々をすべて、突き立てようとする。母は必死に叫んでいる。椅子がガタガタ揺れて、足もバタバタと激しく動いている。
だが意に介さない。
そう、まったく。
……僕が何より許せなかったのは、その挙動だったのかもしれない。
那由多が、すぐそばにいる母の存在を軽視したのが、一番僕を激昂させたのかもしれなかった。
「やめろって、言ってんだろ――!」
僕が声をかけると、彼は必ず振り向くのだ。
それが彼の、救いようのない欠点だ。
だから僕はその彼の頬に、思い切り拳をたたきつけた。
――がしゃん、と音がして。
造花の花瓶が割れて、壁に背を打ち付けた那由多の上に降りかかる。
彼の顔に、無数の細かい傷。
そしてなにより、頬に赤いアザ。
「ご、ごめ……」
この期に及んで僕は動揺する。
彼の血が、緑色でも青色でもないことに。
そんなだから、彼の接近を許して。
彼が立ち上がったとき、彼の全身は影に覆われたようになって、ゆらゆらとシルエット全体がゆらめいた。
それがゆっくりと歩いてきて、僕の腹を、しごく冷静に殴りつけた。
口から、へどか何か分からないものがあふれて零れ落ちて、倒れこむ。
那由多、は。
そんな僕を見下ろしながら、ビニール紐で拘束した。
「あー、任務、もうすぐ完了。思わぬ邪魔が入ったが、ここから侵略が始まる。安心していい」
それは那由多の声。ここではないどこかに向けて発信された声。
身体がじんじんと熱い。たった一撃でこのざまか。
彼は何やら「報告」とやらを終えたらしい。僕は用済みなのだろうか。
「ああ、お前は俺にとってのクリャシュノフェシュだから。六日後も、お前は生きてる。安心しろよ」
「その……クリャシュノフ……って、なんなんだ」
「縁。もうちょっと古い言い方をするなら、えにし。まぁそんなとこだ。地球語とはうまく相互変換が出来ないから、あてにするなよな」
那由多はもう、頬のあざを気にするそぶりを見せなかった。
はじめから相手にされていなかったかのように。
僕の奮闘も、僕の情けない姿も、何もかも。
那由多は――見たいものしか見ないのだ。
思えば、出会った時から、そうだったのかもしれない。
それは断絶だ、決定的な断絶。
僕らは同じ時、同じものを共有していたに過ぎない。
彼と本当に何もかもを分かち合おうと思うなら、領域を侵略して、お互いにすっかり成り切らなければならない。
それはとうとう、今日までできなかった。
世界は、ひとりで占めるものだ。
二人では、バランスが悪い。
窓の外。四角く、そして青白く切り取られた聖域。あの日も、うだる教室の熱気の中で、逃避のために見上げた世界。
いま、そこでは、旅客機が、轟音を上げて斜め上に飛んでいく。
セミの声が、八月の終盤であることを知らせる。
「あついな」
「誰のせいだと」
「……はは」
沈黙。
それは何よりも雄弁なものだ。
僕らの人生よりも何十倍も何百倍も、何兆倍も長い時間が、そのあいだに横たわっていた。
その差はもう、縮まらない。
だから、せめて最後に、僕は聞こうと思った。
きっとその質問をおえたあと、僕らは永遠に離別する。
後悔はない。
はじめからそうなるようになっていた。ずっと一緒に居ることが出来る関係なら、あの日、あんな出会いをする必要はなかったのだから。
「なぁ」
「なんだよ」
「……きみが、この間。僕の、小学校の同級生を――」
「はぁ?」
「……えっ」
「そんなの、いちいち、覚えてっかよ……――」
その瞬間。
同時に起きた。決定的なことが。
「あなたっ」
母が叫んだのだ。口のテープが半分剥がれていたのだ。那由多は、そこに力を入れなかった。
懸命に足だけを使って前に前に進もうとした、あなた、あなた、と叫びながら。
那由多は振り返り。
「少し、黙らねぇかよ――」
工具を、母に向けた。その矛先を、殺意の矛先を。
鬱陶しい虫でも、振り払うかのように。
……それでもう、終わりだ、終わりだった。
僕らはこれで終わる。
僕はその瞬間、確かに「やめろ」と叫んでいたと思う。
音が消えて、すべてが絵物語でしかなくなったとき、僕は手に、あの日のカッターナイフを持っていて、刃を母に向けようとする那由多に突進していった。
そして。
……じわり、と、血がにじんでいる。
「さ、コタ……」
ナイフの刃は、深々と彼の腹に突き刺さっていた。そんな硬度があるとは驚きだった。
肩で息をして、先に座り込む。きっと顔は見れたものではない、涙とか鼻水でぐしゃぐしゃになっている。一見すると僕のほうが手ひどくやられているようだろう。
だけど、違う。
勝ったのは、僕だ。
はじめて、勝ったのだ。僕の人生で。
彼は振り向いて、信じられないような目で僕を見て、ゆっくりと、膝から崩れ落ちて。
血が、赤い、どろりとした、あたたかい、ストロベリージャムのような血が流れていって。
彼は、僕に震える手を伸ばして。
僕は一瞬、その手を取ろうかどうか迷ったけれど。
「なんで……?」
そのことばで、終わった。
彼はその場でうつぶせに倒れて、動かなくなった。
那由多は、最初から、僕のことを、かけらも理解しようとはしていなかったのだ。
そこからしばらくして、皆の意識が戻って、血の中で倒れている「なにか」と、膝を抱えて俯いている僕と、呆然と蒼ざめている母を、看護師の一人が見つけた。
通報。
あとのドタバタは、あまりよく覚えていない。
僕は警察で事情を説明することになったが、その直前まで、病室に横たわっていた「なにか」の、本当の正体について考えた。
答えは出なかった。
きっと夏の幻だったのだろうと思った。
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