第29話

 まただ。

 頭を支配する鈍い痛みを振り切って、僕は浮上する。

 目をこすって開けると、そこは部屋。

 日差しの差し込む、那由多の部屋だった。


 やはりというか、そこに那由多はいない。なぜかはっきりと受け入れられる。

 僕の膝上にはくしゃくしゃになったタオルケットがかかっていて、後頭部には折り曲げた座布団があてがわれている。

 その気遣いに対し、今は何も思わない。

 僕は、置いていかれたのだ。彼によって。

 あの幻、目を瞑ればすぐにでも、蘇ってくる幻――。


「うえっ……」


 ……僕は、耐え切れず嘔吐した。

 それが現実だろうと幻想だろうと、変わりはない。

 那由多がアレをやるのは、僕にとって解釈の範囲内だと、あらためて突き付けられた気分だ。


 ――那由多は、水城那由多は、あんなふうに人を殺すことが出来る生き物だ。 


 ひとしきり胃の中をからっぽにして、しばらく座り込んでいる。

 だけども、らちが明かない。そんなことをしても意味がない。

 すえたにおいをそのまま受け止めて、部屋の中央にあるものを発見する。


 カッターナイフ。

 あの日、ホームセンターの袋から見えていて、そして僕の「友人」を傷つけたそれが、まるで何かの供物のように、陽の光を浴びながら、置いてあった。


 僕は、厳粛な気持ちで、それをそっと手に取って、刃を慎重にしまい込んだ。


 それから、彼のやろうとしていることを考える。

 彼が今どこに居るのかを考える。


 ――答えは、すぐにでも閃いた。

 そうであってほしくなかった。

 でも、あいつはきっとそれをやる。

 そうすることが、きっとあいつにとっての、何かの仕上げで、ピリオドなのだ。


 ……終わらせよう、那由多。


 僕はひとこと呟いて、カッターナイフをポケットに収納して、部屋の外に出た。

 鍵がかかっているかどうかなんて、もう気にならない。

 きっともう、誰もここには戻らない。


 僕は地上に出るとすぐに交通機関を使って向かった。


 病院。

 父の入院している場所だ。

 そこに、あいつはいる。


 間違いない。どれだけ世界が嘘で満ちていても、それだけは間違いない。

 どれほど手ひどい拷問を受けようと、僕はそうだと確信していた。

 それが、僕とあいつの間柄だ。


 誰にも、文句は言わせない。



 到着すると、既に説明のできない「異様」が立ち込めていた。

 なんせ、エントランスに人の気配がまるでなかったのだ。出入りする人間が誰も居ない。

 自動ドアを抜けると、それが確信にかわる。


 人工の青白い電灯のした、人々が倒れている。

 それは、患者や看護師問わず、例外なく。

 誰もがその場に崩れていた。まるで、意識そのものを剥ぎ取られてしまったかのような。

 駆けよって見てみると、薄く目を閉じて、小さく寝息を立てている。

 それはほかの人たちも一緒だった。

 受付に寄り掛かるようにしていたり、椅子に座ったままだったり。

 ただただ、カルテの入ったコンテナや、エスカレーターの動く音だけが響いている。


「……那由多」


 その名を呟く。この事態を引き起こしたと確信する者の名を。

 僕はそこでにおいを感じた。

 彼のにおいだ。香ばしいような、あの、夏のにおい。出会った日からそうだったように。

 それは一本のラインを描いて、左右の人々の意識を奪い去りながら、エレベーターホールへと続いているのがわかった。

 僕はまるで手を引かれて祭壇へと昇っていく盲目の賢者だった。この状況にもはや違和感を覚えることもない。


 のぼっていく、のぼっていく。病棟へ。

 一階ごとに、僕たちの些細な、他愛のない日々が終わっていくのが分かる。

 夏も、もうすぐ終わりだ。もう、変化の時だよ、那由多。


 そして僕は、誰も居ないその階にたどり着く。

 きっと皆、彼によってもたらされた眠りの中に居るのだろう。


 僕は、父のいる病室の前に立ち。

 意を決して、ドアを開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る