第29話
まただ。
頭を支配する鈍い痛みを振り切って、僕は浮上する。
目をこすって開けると、そこは部屋。
日差しの差し込む、那由多の部屋だった。
やはりというか、そこに那由多はいない。なぜかはっきりと受け入れられる。
僕の膝上にはくしゃくしゃになったタオルケットがかかっていて、後頭部には折り曲げた座布団があてがわれている。
その気遣いに対し、今は何も思わない。
僕は、置いていかれたのだ。彼によって。
あの幻、目を瞑ればすぐにでも、蘇ってくる幻――。
「うえっ……」
……僕は、耐え切れず嘔吐した。
それが現実だろうと幻想だろうと、変わりはない。
那由多がアレをやるのは、僕にとって解釈の範囲内だと、あらためて突き付けられた気分だ。
――那由多は、水城那由多は、あんなふうに人を殺すことが出来る生き物だ。
ひとしきり胃の中をからっぽにして、しばらく座り込んでいる。
だけども、らちが明かない。そんなことをしても意味がない。
すえたにおいをそのまま受け止めて、部屋の中央にあるものを発見する。
カッターナイフ。
あの日、ホームセンターの袋から見えていて、そして僕の「友人」を傷つけたそれが、まるで何かの供物のように、陽の光を浴びながら、置いてあった。
僕は、厳粛な気持ちで、それをそっと手に取って、刃を慎重にしまい込んだ。
それから、彼のやろうとしていることを考える。
彼が今どこに居るのかを考える。
――答えは、すぐにでも閃いた。
そうであってほしくなかった。
でも、あいつはきっとそれをやる。
そうすることが、きっとあいつにとっての、何かの仕上げで、ピリオドなのだ。
……終わらせよう、那由多。
僕はひとこと呟いて、カッターナイフをポケットに収納して、部屋の外に出た。
鍵がかかっているかどうかなんて、もう気にならない。
きっともう、誰もここには戻らない。
僕は地上に出るとすぐに交通機関を使って向かった。
病院。
父の入院している場所だ。
そこに、あいつはいる。
間違いない。どれだけ世界が嘘で満ちていても、それだけは間違いない。
どれほど手ひどい拷問を受けようと、僕はそうだと確信していた。
それが、僕とあいつの間柄だ。
誰にも、文句は言わせない。
◇
到着すると、既に説明のできない「異様」が立ち込めていた。
なんせ、エントランスに人の気配がまるでなかったのだ。出入りする人間が誰も居ない。
自動ドアを抜けると、それが確信にかわる。
人工の青白い電灯のした、人々が倒れている。
それは、患者や看護師問わず、例外なく。
誰もがその場に崩れていた。まるで、意識そのものを剥ぎ取られてしまったかのような。
駆けよって見てみると、薄く目を閉じて、小さく寝息を立てている。
それはほかの人たちも一緒だった。
受付に寄り掛かるようにしていたり、椅子に座ったままだったり。
ただただ、カルテの入ったコンテナや、エスカレーターの動く音だけが響いている。
「……那由多」
その名を呟く。この事態を引き起こしたと確信する者の名を。
僕はそこでにおいを感じた。
彼のにおいだ。香ばしいような、あの、夏のにおい。出会った日からそうだったように。
それは一本のラインを描いて、左右の人々の意識を奪い去りながら、エレベーターホールへと続いているのがわかった。
僕はまるで手を引かれて祭壇へと昇っていく盲目の賢者だった。この状況にもはや違和感を覚えることもない。
のぼっていく、のぼっていく。病棟へ。
一階ごとに、僕たちの些細な、他愛のない日々が終わっていくのが分かる。
夏も、もうすぐ終わりだ。もう、変化の時だよ、那由多。
そして僕は、誰も居ないその階にたどり着く。
きっと皆、彼によってもたらされた眠りの中に居るのだろう。
僕は、父のいる病室の前に立ち。
意を決して、ドアを開けた。
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