第28話
きっかけはささいなことで、僕には冗談が冗談に聞こえなくって、全部その通りに受け止めてしまうという欠点があったから。
クラスのやんちゃな連中が言った言葉を真に受けてトラブルに発展するのは、しごく自然な流れだったし、それが僕に対する度を超えたからかいになるのも自然な流れだった。
僕は全身をまるはだかにされた気持ちになりながら日々を過ごした。学校にある二宮金次郎の彫像に隠れながら登校したこともあったし、それがうまくいかなくて、脛にあおあざをつくられたこともあった。なにより、それらのことについて誰も味方をしなかった。
僕は僕が悪いと思った。僕自身の弱さのせいだと思った。
だから僕は抵抗できなかったし、その手段を知らなかったし、やりすごすことしかできなかった。
だから僕は、僕のそれらの決着は、けっきょく小学校の卒業というかたちでしか終わらなかった。
それを真の決着と言えるのだろうか。
◇
胸ぐらをつかまれて引き寄せられる、僕は夢を見てるんじゃないだろうか。
だってあり得ない話だ。
いくら僕が最終的に両親や教頭を味方につけて立ち回って、彼らの謝罪を獲得したからといって、それが彼らを数年以上縛り付けるものであるはずがないし、そんなもの過去の記憶でしかないし。
そもそも、どうせ僕のほうがみじめな現在を送っていることぐらい、彼らにだって予想できるはずなのに。
なのに、これはなんなんだろう。
――なに、なーにびびってんの。顔合わせろや、なぁ。
――あはは、ほっぺたしばいたら涙ぐむの、前とかわんねぇ。
――小学生だ。こいつ小学生だ、ガキだ。
僕はただただ逃げようとした、彼らから逃れようとした。
だが、どれだけ引きはがそうとしても、ぜんぜんかなわない。僕は弱いままだ。
手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルは地面に落ちて踏みつけられて、中身をぶちまける。アスファルトの上でぎらぎらと照っている。
――そーれ、ほーら。
――おいおい、何してんだぁ、そんなもんかぁ。
――お前昔より弱くなったんじゃねぇの。
これは彼らじゃない。
彼らの姿を取った幻だ。
これは僕の過去だ。過去がいま、僕を襲っている。それには必然性があるはずだ。
僕は彼らによって何度も身体を叩かれながら、ぼうっとする頭で考えた。
……ああそうか。理解が追い付く。
――お前、俺らにいじめられたってぬかしてたけど。
――お前が何やってたか、知ってるぞ。
これは罪だ。ぼくのつみ。
一方的に被害者ぶることだけじゃない。
これは、つまり。
なんの対価も支払わず、変化や成長を受け入れようとした、僕の罪だ。
普通の人であれば、自分で経験を重ねていった先で手に入れるそれを、僕はあの日。
あの日……暑い校舎の、階段の踊り場で、まるで天啓みたいに、与えられてしまったのだから。
それが、こんなにも苦しいのか。
こんなにも痛くて、つらいのか。
過去が無限に後退していく。
あの時、ああしていれば、の蓄積。
時間の余裕ができれば、そればかり考えてしまう、それが僕の人生だ。きっとこれからも続く。
これからも僕の人生は、苦痛にまみれ続けていくのだろう。
それはきっと仕方ないことだ。
誰もが、何かを背負った人に対して、自分自身の優しさを確かめるために、自己肯定感を満たすために、あなたは悪くない、と言うけれど。
その根拠などどこにもないことをみな理解している。
だから結局、誰も助けてくれない。
茹で上がったカエルの話は、僕にとっては最も身近な例だ。
僕はおそらくこいつらに殺されるなんてことはもちろんなくて、次点として、警察や知人が駆けつけて、こいつらを制止するなんてこともなくて。
多分僕がひとしきりほこりをかぶったあとに解放されて、今後出会うことはない。
僕は家に帰ってシャワーを浴びればそれで済むし、彼らも明日には僕のことを忘れているだろう。
それだけのことだ。
だからそのまま終わっていけばいい。
あらゆるものが終わっていく世の中だ。逆らうのは浮かれた奴だけだ。
だから抵抗しちゃいけない。どれだけ、どれだけ苦しくても。
僕は耐えなきゃいけない。
わがままなんて言っちゃいけない。身の丈に合ったふるまいをすべきだ。
僕は歯を食いしばっている。
鼻水と涙が止まらない。しゃくりあげる声。
面白がって彼らは更に加速する。
ああ、神様。
これが終わったら僕は彼らのことを忘れます。
僕はみじめなままで生き続けます。
それ以上のことは何も望みません。約束します。
でも、たったひとつ。
たったひとつだけ、僕にも、幸せなものを守らせてください。
それは僕の選択が意思が介在しない奇跡。だから誰にも、もちろん僕にも責任のないもの。
それぐらいなら、僕だって、持っていていいはずなんだ。
だから、どうか。
さいごに。
この夏が終わる、まえに。
――那由多に、もう一度、会わせて、ください。
◇
――ああ、やっと言ってくれた。
――やっと、お前は、おれを、求めてくれたんだ。
声。
僕は霞む視界の中で見た。
そこでは、彼が踊っていた。
まっしろなゆめのなか、現実であるはずのその場所で、彼が居た。
水城那由多がいた。
僕のことを、クリャシュノフェシュと呼んだいきものがいた。
――ぎゃああああああ。
――なんだおまえ、いたい、いたい、痛い痛い痛い痛い痛い……。
――たすけて、たすけ、たすけて。
腕がおれて骨が見えて、血が噴き出している。
それをやっているのは那由多だ。
首をつかんで、持ち上げると、ぶちぶちと音を立てて、そいつの頭が飛んで行って、そこから鮮血の帯が舞う。
それをやっているのも那由多だ。
彼らは次々に死んでいく。
ぜんぶ、ぜんぶが、那由多のやっていることだった。
僕は何かを夢中になって叫んでいたのだと思う。
だけど、ついに彼には聞こえなくて、ずっと、飛行機に乗っているときのような、甲高いノイズが僕の声のかわりをするばかりだった。
だから、ようやく僕が「やめてくれ」と言える頃には、全部が終わっていた。
那由多は血だまりの中に立っていた。
足元には、彼らだったものが、小学校の時、僕を殴り、蹴り、あざをつくり、ノートを捨てて、女子にあらぬうわさをひろめていた彼らの、ぐちゃぐちゃの骨と肉になったものが散乱している。
彼は笑った。
僕に対して。
あの時と同じ笑顔。
僕がきっと、切望していた笑顔。
――僕が手を伸ばし、何かを言おうとしたとき。
意識が薄れて、遠くなって。
気を、失った。
ぱさっ、という、自分の軽いからだの倒れる音をさいごに聞いた。
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