第27話
僕は、その八月の前半のあいだ、何度も、何度も何度も、那由多の幻影をみた。
それはまぼろしとなってあらわれて、ふっと消える。
影があったのかどうかも分からない。
ただ彼は、僕にとって忘れ得ぬ存在のまま、こびりついている。
那由多。
僕にとっての苦悩のあかし。
いつか、再び出会わなければならないのかもしれない。
だが、そうなったとき。
僕は彼を、永遠に失ってしまうのではないだろうか。
僕の中に、そんな恐怖があった。
彼に会えないまま、一週間、二週間とすぎていく。
つくつくぼうしが、鳴き始める。
◇
それは、突然のことだった。
僕は外に出ていた。
まだ夏の幻を追っている最中。
これからの行動に迷っているただなかのときだった。
母から、電話。
出ると、その声は明らかに狼狽していた。
父が倒れたとのことだった。
しばらくして――弟をともなって、搬送先の病院へ。
母は先に到着していた。
父はベッドに横になって、目を瞑っている。
苦痛の証は認められなかったが、ひどく弱々しく見える。
――この暑さです。自律神経の乱れがピークになったのでしょう。
――既往歴との兼ね合いも心配です。しばらくここでゆっくり過ごしてもらうほうがいいですね。
医者の淡々とした声が、かえって救いになった。
母はこうべを垂れて、ぽつぽつと言葉を漏らす。
――お父さんはね。無理してたのよ。
――あなたたちが色々大変そうだからって。
――あなたたちだけじゃない。わたしにもそうだし、色んなものに対して。強くあろうとしていた。
――そのままの自分でいてもいいって、言ってあげるべきだったのよね。
さいごに母は、僕に爆弾をおとす。
――お父さんね。倒れる直前、あなたの名前を呼んだのよ。
それが、そのひとことが、僕の次の日からの行動を規定した。
◇
僕は那由多の捜索を始める。
時間をぎゃくまわしに。
まずは街のただなか。喧騒のどまんなか。
照りつける太陽に焼かれる人々、街頭演説、巨大モニターが叫ぶ世界終末論。街路樹の日陰で寿命を延ばす何人か。
影が地面にこびりつく。そこで僕は那由多に何かを言われた、思い出せない。
そこに彼は居ない。なら、次に行くしかない。
僕は電車に乗り込む。
次々と乗客。行楽気分の若者たち。部活の大きなカバンを背負った学生たち。扇子で仰ぐ老人。賢明にも働きに出ていくスーツ姿の者たち。
ブラインドがおろされて、影が車内に増える、アナウンスが、不審物について見つけたらすぐ通報するようにとメッセージしている。
さいきん、他の鉄道会社の車両で、ちょっとした事故(事件)があったばかりだ。二度目は絶対にだめだ。そうなれば、それは現象になる。
そして、そこにも彼は居ない。
ブラインドの隙間から景色が流れていく。
僕の時間も、巻き戻っていく。
彼に会うためには、僕自身に立ち返らなきゃいけないとでもいうように。
コンビニ。血痕はない。
そしてまた遠くへ。
次は、次は、次は……。
セミの声。時間がとけていく。
僕はいつしか、彼の足跡を追ううちに、現実と回想の混ざり合った中にいた。
僕はどうしてこうなったのだろう。
◇
幼いころから、耳の中に入ってくる他人の声が苦手だった。
それはとげとげしい音のつらなりで、僕には無視ができなかった。
僕が他者と自分の関係性についてうっすら理解し始めるころには、既に父は祖父母と絶えず言い争いをするようになっていて。
日々、食器が割られていた。母はよそもので、異物だった。母は影の中に居て、存在がずっと希薄だった。
僕の耳には、割られる食器の音と、甲高い声で泣き叫ぶ祖母の声がこびりついていた。父が、実の母を、とんでもない言葉でなじっていたのを覚えている。
同時に、父のまなざしは僕にも向けられていて。
僕の繊細な部分を、父は嫌っていた。
父は一家の大黒柱であることを一身に背負っていて、僕がその後継だと信じて疑わなかった。
だから僕に、強くなれ、もっと強くなれと絶えず言い続けていた。
僕の耳にはすべてが入ってくる。
だから僕は、父の言葉に従うのが最善だと思うようになっていた。
なぜって、そうしないと、また食器が割られるから。
でも僕には運動ができないし、成績だって別にそこまでいいわけじゃない。
だから色んな習い事をしてもうまくいかなかったし、塾もつらかった。
父ははじめ、激励し、背中をおした。
だけど一度たりとも褒めてはくれず、最終的にそれは失望に変わった。つねのことだった。
父は、その感情をあらわにするとき、眉根を寄せるのではなく、かわりに、皮肉っぽい笑みを浮かべるのだ。
それは僕に刃になって突き刺さって、後に引けなくした。
僕は父にその顔をしてほしくなかった。
だから僕は、ひたすらにがんばった。
がんばって、なんとかして。
ふつうのにんげんみたいに、ふるまおうとしたんだ。
けっきょく、無理だったけど。
◇
那由多のことは、徐々に世間に露呈しつつある。
つまるところ、侵略が、明るみに出つつあるということだ。
指名手配とまではいかないけど。
あの日、書店で那由多と一緒に眺めた、あの平積みの本の与太話。
陰謀論が陰謀論でなくなって、一定の信頼を積み上げるようになっていったとき、人々の日常はとたんに、「戦前」になる。
近く日本列島を襲う巨大地震に備えて非常食や救命セットを買い込むようにして。奴らの魔の手から逃げられるように、という文言が踊っていて。
デモ団体、街頭演説が勢いを増していくのを見る。足を止める人々も増えている。
最近、いやだね、というお決まりのフレーズ。街で何度となくかわされるそのことばに、真剣みが加わっていって。
――きっと彼は、逃げづらくなっている。
――姿を、隠しづらくなっている。
だから、僕が有利だ。
有利だからこそ、僕は防御姿勢を崩す。僕の内側にあるものを曝け出しても、もう、あまりこわくない。
那由多。僕は君と話がしたい。もう一度。
――そう思っていたから。
僕は、過去に打ち勝てると、思っていたのだけれど。
来ていた場所は学校で、今は誰もいないけど、そのなかで、あの階段の踊り場に向かえば、彼が居るような気がして。
でも、僕の脚は、そこでとまってしまった。
校門で。
よびつけられる。
からだにふるえがはしる。
生理的に。過去からの生起だ。
うしろをふりかえる。
何人かが立っている。
「うっわ、誰かと思ったら、お前、アレじゃん」
「なぁなぁ、お話しようや、昔みたいに、なぁ」
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