第19話

 一瞬、全部の音が耳に入り込んできて、そのあとで、何も聞こえなくなる感覚がした。


「何を――」

「あの子は、どこか危険だ。理由は分からないが、いや、ちゃんと説明したほうがいいな。あの体を見ただろう。あれは、その……」

「なに、言ってんだよ、父さん……」

「あの子を貶める意図はない。だけど、たぶん、住む世界が違う。一緒に居れば、お前は不幸になる、と思う。これまでの経験だ」


 父が言っている。

 彼は悩んでいるような顔をしていた。

 つまり、言うべきかどうか、ギリギリまで悩んでいたということだ。

 だけど。

 ……那由多がいないタイミングを見計らって、言ったわけだ。

 良識を気取りながら。

 ひきょうだ、とおもった。


「……厭だよ」


 それは、明らかな防衛装置の発動。

 父が僕に何かを強いるときは、必ずそうだ。

 父は僕をいじめるつもりでも、何かを強制するつもりでもない。

 ただただ僕を思っている。

 その心にいつわりはない。

 僕自身の主張をまるで顧みないというだけで。

 ――今も、そうだ。

 ああ。

 築き上げてきた、僕だけの僕が、また奪われていくのか。

 いま、那由多は居ない。

 なら、たたかえるのはぼくだけだ。


「イヤだよ、絶対にイヤだ。那由多は僕の大事な友達だ」

「だから、その友達が大事だからこそ、言ってるんだ」

「僕の選んだ、僕の友達なのに。父さんは、それを否定するの」

「そうは言ってない。俺はただ、少し慎重になれと――」

「絶対に違うだろ。父さんは、父さんは」


 叫ぶ。


「父さんは――僕を、支配したいだけだろ」


 その時。

 足音。

 那由多が、所在なさげに、僕らのほうを見ていた。

 両腕に、飲み物をかかえていた。


 それで終わりだった。

 僕が慌てて我に返り、父さんのほうを向くと、とっくに運転席に乗り込んでいる。

 それはつまり、無言の赦し。

 何も聞いていない、お互いに。

 だから、僕の無礼な口ぶりも、水に流す。そういうサインだ。

 父は、大人だった。いっぽうの僕は。


 ……羞恥心。後悔。心のなかがそれらで占められて、死にたくなってくる。

 その場でうずくまってしまいたい。

 結局こうだ、どれだけ歩み寄ろうとしてもうまくいかない。いつでもそうだ。

 今日ぐらいは、忘れられると、おもったのに。


「パパさん、どうぞ」

「ああ、ありがとうね。熱かったろう」

「いえいえ。おれ、皮膚分厚いんす」

「ははは、なんだ、そりゃ」


 そして、遠くの海を眺めている僕に、那由多は手をかける。

 さっさと座席に座って、帰ろうぜ。

 彼はそう言うと思っていたが。

 僕の、隣に立っていた。


「ひゃあ、涼しいな、夜も、夕方になると」

「……」

「今日は楽しかったぜ、サコタ。いや、うん、よかった」


 だけど僕は黙っている。

 見られていないことだけが幸いだった。

 見られていたら、僕は。


「なぁ、サコタ」


 僕は、どう。


「――


 彼は。

 耳元で、そうささやいた。


 その瞬間。

 ――竹林が一斉にざわめいて、空に向けて海鳥を解き放った。

 騒音のような鳴き声が何重にもなって聞こえてくる。

 僕は何も答えられず、硬直している。

 那由多はとっくに、席にすわっていて、父と談笑している。

 

 いま、なんと言った、那由多は。


 動けない。足元からさむけがたちのぼってきて、頭の芯までを貫いていく。

 音が。

 すべての音が、僕の耳を埋め尽くし、僕の正気を、理性を、塗りつぶしていく。


 予兆。明らかな。

 僕の知らないところで、何かがはじまっている。

 かもしれない。分からない。


 僕を呼ぶ声が聞こえる。後ろを振り返る。

 竹林は不気味なほど黒々として、正体の掴めない巨大な怪物のようにみえる。

 海鳴りが、誰かの唸り声に聞こえる。

 恐怖にとらわれて叫び出しそうになっても、しばらく僕は、動けないままだった。

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