第18話
そこは、若いころ旅行が好きだった父が選んだ穴場だった。
周囲を岩場と松林で囲まれた、小さな浜辺。
遠方にロープが張ってあるため、一応は海水浴場ということになっているらしい。
だが見ると、岩場での数人の釣り客以外、誰も居ない。
つまり、ほとんど独占状態だった。
「すいててよかったな、那由多」
声をかける。
彼はタオルにくるまって、少し怯えているように見えた。
随分とからだがちいさくみえる。
「どうしたの」
「いやぁ、はは――海、初めてでさ。ちょっとビビってんだ。カナヅチってわけじゃないけど」
「……」
那由多。
君はどれだけ多くのことを知らず、ここまで来てしまったんだ。
僕はその声が、その申し訳なさそうな笑みが、両肩を抱く腕が、すべてが、我慢ならなかった。
「わっ」
うでをひっぱる。
途端に、タオルが落ちて、裸身があらわになる。
あの、室外機の場所で見た、彼の。
いま、それを守るものは。
ない、わけじゃない。僕がいるんだ。その細い腕も、胴も。僕がしっかりと見ているから。だから――大丈夫だ。
「行こう。まずは、準備運動をするんだ」
「……サコタ、」
「お昼になったら、買ってきた弁当を食べて、それから、日暮れまで時間がある。さぁ、なにをしようか、那由多」
だから、僕だって、強がることができる。
彼のためなら、彼がいつも、僕にやってきたようなことだって、できる。
彼と同じにだって、きっと、なれる。
僕らは、泡と水色の領域に、ばしゃばしゃと飛沫を立てながら、侵入しはじめた。
◇
雲が駆け足で流れていって、空の色が水色から、徐々に橙色にそまっていく。
その真下にいる僕たちは長い影法師を伴いながらたわむれている。
かけられる水、逆にやりかえす。那由多が笑い、僕もいつしか笑っている。
とろけるように過ぎていく時間、二つのにんぎょうが、きらきらとした海面の上でおどっている。
僕らは確かに、その時間が永遠に続けばいいのにと、思っていた。
その時。
――僕と那由多を、浜辺から、座り込んだまま、微動だにせず、じっと凝視しているひとがいる。
それは父だ。
まばたきひとつせず、僕らを、特に那由多を、見ている――。
◇
遠くでうみねこが鳴いている。
僕たちは冷え切ったからだをあたためながら、帰る準備をしている。
ビーチパラソルをたたんで、弁当の殻をゴミ袋に入れて。
心地よい疲労感で、いつでもまどろんでしまいそうだ。那由多と目を合わせると、彼も同じような心地のようだった。
「疲れたな」
「うん。でも……楽しかった」
「……なんだよ、言えんじゃん」
那由多の指が、頬を突っついてきた。彼は疲れているが、元気だった。
「うん……」
終わってしまうのが残念だとハッキリと思えるほど、今日が楽しかったのだと思う。
荷物を積み込んで、着替えが終わって、いつでも帰れる状態に。
「うー、ちょっと飲み物欲しいな。あったかいの」
那由多が言った。僕は自分のポケットから財布を出そうとする。
「じゃあ、これを」
そこで、父が隙間から入り込んできた。
彼が、那由多に千円札を渡す。
「あそこに、自販機がある。済まないけど、私の分もふくめて、買ってきてくれないか」
「僕も行くよ」
「いや、お前は、座席に入り込んだ砂を落とすの、手伝ってくれ……いいかな、水城くん」
しばし、沈黙。
やがて。
「了解す。パパさん、何飲みます。サコタは」
「私はブラックコーヒーで頼む。お前は、お茶かな」
「う、うん……」
それを聞くと、彼は敬礼をして、駐車場奥の自販機に向かった。
まだうみねこが鳴いている。
空には藍色が混じり始めている。じきに、ひえてくる。
僕は父と、無言で、車内の砂をかきおとしている。
そう、無言。
先に、それを破ったのは――父だった。
「なぁ、お前」
うみねこが鳴いている。
ぎゃあぎゃあぎゃあと。
「なに、父さん――」
「あの子と付き合うのは、やめたほうがいい」
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