第18話

 そこは、若いころ旅行が好きだった父が選んだ穴場だった。

 周囲を岩場と松林で囲まれた、小さな浜辺。

 遠方にロープが張ってあるため、一応は海水浴場ということになっているらしい。

 だが見ると、岩場での数人の釣り客以外、誰も居ない。

 つまり、ほとんど独占状態だった。


「すいててよかったな、那由多」


 声をかける。

 彼はタオルにくるまって、少し怯えているように見えた。

 随分とからだがちいさくみえる。


「どうしたの」

「いやぁ、はは――海、初めてでさ。ちょっとビビってんだ。カナヅチってわけじゃないけど」

「……」


 那由多。

 君はどれだけ多くのことを知らず、ここまで来てしまったんだ。

 僕はその声が、その申し訳なさそうな笑みが、両肩を抱く腕が、すべてが、我慢ならなかった。


「わっ」


 うでをひっぱる。

 途端に、タオルが落ちて、裸身があらわになる。


 あの、室外機の場所で見た、彼の。

 いま、それを守るものは。

 ない、わけじゃない。僕がいるんだ。その細い腕も、胴も。僕がしっかりと見ているから。だから――大丈夫だ。


「行こう。まずは、準備運動をするんだ」

「……サコタ、」

「お昼になったら、買ってきた弁当を食べて、それから、日暮れまで時間がある。さぁ、なにをしようか、那由多」


 だから、僕だって、強がることができる。

 彼のためなら、彼がいつも、僕にやってきたようなことだって、できる。

 彼と同じにだって、きっと、なれる。


 僕らは、泡と水色の領域に、ばしゃばしゃと飛沫を立てながら、侵入しはじめた。



 雲が駆け足で流れていって、空の色が水色から、徐々に橙色にそまっていく。

 その真下にいる僕たちは長い影法師を伴いながらたわむれている。

 かけられる水、逆にやりかえす。那由多が笑い、僕もいつしか笑っている。

 とろけるように過ぎていく時間、二つのにんぎょうが、きらきらとした海面の上でおどっている。

 僕らは確かに、その時間が永遠に続けばいいのにと、思っていた。


 その時。

 ――僕と那由多を、浜辺から、座り込んだまま、微動だにせず、じっと凝視しているひとがいる。

 それは父だ。

 まばたきひとつせず、僕らを、特に那由多を、見ている――。



 遠くでうみねこが鳴いている。

 僕たちは冷え切ったからだをあたためながら、帰る準備をしている。

 ビーチパラソルをたたんで、弁当の殻をゴミ袋に入れて。

 心地よい疲労感で、いつでもまどろんでしまいそうだ。那由多と目を合わせると、彼も同じような心地のようだった。


「疲れたな」

「うん。でも……楽しかった」

「……なんだよ、言えんじゃん」


 那由多の指が、頬を突っついてきた。彼は疲れているが、元気だった。


「うん……」


 終わってしまうのが残念だとハッキリと思えるほど、今日が楽しかったのだと思う。


 荷物を積み込んで、着替えが終わって、いつでも帰れる状態に。


「うー、ちょっと飲み物欲しいな。あったかいの」


 那由多が言った。僕は自分のポケットから財布を出そうとする。


「じゃあ、これを」


 そこで、父が隙間から入り込んできた。

 彼が、那由多に千円札を渡す。


「あそこに、自販機がある。済まないけど、私の分もふくめて、買ってきてくれないか」

「僕も行くよ」

「いや、お前は、座席に入り込んだ砂を落とすの、手伝ってくれ……いいかな、水城くん」


 しばし、沈黙。

 やがて。


「了解す。パパさん、何飲みます。サコタは」

「私はブラックコーヒーで頼む。お前は、お茶かな」

「う、うん……」


 それを聞くと、彼は敬礼をして、駐車場奥の自販機に向かった。


 まだうみねこが鳴いている。

 空には藍色が混じり始めている。じきに、ひえてくる。

 僕は父と、無言で、車内の砂をかきおとしている。

 そう、無言。

 先に、それを破ったのは――父だった。


「なぁ、お前」


 うみねこが鳴いている。

 ぎゃあぎゃあぎゃあと。


「なに、父さん――」




「あの子と付き合うのは、やめたほうがいい」

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