第17話
「それでさ」
夕食の時間、珍しく、僕が口を開いた。
沈黙以外を予想していなかった父母は、ほぼ同時に顔を上げた。
「友達と。海、行こうと思う。こんど」
驚いた様子。
「そりゃ、まぁ……」
「そいつ世間知らずでさ。海も見たことないんだって。住んでるとこから、殆ど出てこないって。だから連れて行くんだ」
ほとんど自動的に口が動いているのは、退路を断つためだ。
那由多のことを世間知らずと呼んだのもそうだ。逃げも隠れも出来ない。
彼が抱えているかもしれない痛みの少しでも、僕は共有しなければならなかった。
だから母が眉根を寄せて、顔色をうかがうように、父の顔を見たときも、僕はじっと耐えて。
「好きにしなさい、お前の」
その言葉を待っていた。
僕の数十秒の苦闘が、報われた瞬間だ。
弟は無関心な顔をしている。
◇
「ああ。そう、だから、決めたとおりに。行こう」
那由多と電話している。
直接対面している時間のほうが長いはずなのに、受話器越しは、全然違う感覚がした。
「ああ」
そのひとこと。
彼は……沈黙ののち、言った。
「大丈夫、だったのか。お前のとこ、家」
意外だった。
那由多が、そういう「気遣い」をするとは思わなかったからだ。
それは彼が冷血であるとかそういうことではなく、何か、そんな地に足のことばを吐きそうにないと、勝手に考えていたからだ。
でも、そんな側面を、彼が見せてくれたことは素直に嬉しくて。
「ああ。特に、揉めなかったよ。好きにしろ、って」
「そか」
だから。
釣り合いをとるようにして、ふいに――あの夕方のことを、思い出して。
「それとさ、その」
「ん」
僕は、彼に切り出した。
「君は。大丈夫だったのか、あのあ、」
「大丈夫。何の問題もない」
と。
僕が聞きたかった、あの夕刻。不気味な男。
彼を追い返した那由多の……。
僕の問いかけはすぐさま切り返されて行き場を失って、何も言えなくなる。
那由多が、話を切り上げたがっていることが分かった。
僕の不安な気持ちは宙づりになるが、それは決断を鈍らせるほどではなかった。
それに、彼のどんな側面を見つけたとしても、これから向き合っていけばいいのだと。
その時は、そう思っていたのだ。
翌日。
――父が、車を、出す、と言った。
「お父さん、最近、やっと自分で外に出るようになったのよ。それに、電車賃も、高いんだから」
僕は、さからえなかった。
◇
◇
父が車を運転している。きちんとシャツを着て、整髪料をあてている。
それは喜ぶべきことだ。
父が、外に向いているという事なのだから。
「それでお父さんは、何をされてる方なんですか」
那由多の声が、聞こえる。
彼は隣に居て、それは運転席の父に届いている。
車窓からは高速道を流れていくビルの群れが見える。時刻はまだ、午前中。
「ああ。建築関係の仕事をね……といっても、オフィスワークだけど」
「すごいじゃないですか」
「いやぁ、そんな」
意外や意外、父は那由多に対して、さほど警戒心を抱く様子もなく、単に「僕の友人」として接していた。
それはとうぜん喜ばしいことであり――同時に、安堵することでもあった。
なぜ、そうまで張り詰めた気持ちで居る必要があったのか。
わからない、説明が難しい。
だが、なんとなく。
父は、那由多を歓迎しないのではないかと――そう、予感していたのだ。
「まぁ、車が好きでね、昔から……若いころは、遠くまで飛ばしたものだった」
「遠くまでって、海とか、山とかですか」
「そうだな。あとは……ダムとか、そういうのも好きだった」
「へぇー」
那由多というのは、実に聞き上手で、話し上手であるということがわかった。
どうやら父がメンタルに不調を抱えていることはすぐ見抜いたらしく、話題については周縁から埋めていくようなチョイスをして、答えやすいように。
それから、その言葉を肯定し、滑らかに次へとつなげる。いまの父にとっては、実に心地よい会話相手となっていた。
那由多が、僕以外の誰かと話しているのを、しっかりと確認したのは、今が初めてであることに気付く。
こうして見ていると、彼は本当に、僕と変わらない、少年のようだ。
……僕は嬉しかった。
父の方ばかり向いていて、こちらを一顧だにしないその姿勢、つまり彼の「いつもの仮面」が、その時ばかりは、むしょうに頼もしく思えた。
――きて、よかったな。
いま僕は、心の底からそう思っていて。
窓に頬をもたせかけて、まどろむ。
父と那由多の声が遠くに聞こえる。
車はゆっくりと高速道を降りていく。そのあいだ、ビルのすきまから、入道雲が速い速度でながれていくのを見る。
それは紛れもなく、心地の良い、ここにずっといてもいいとさえ思えるような、そんな時間だった。
――れで。
声。
「それで、ちょっと思ったんですけど」
那由多の声。浮上する。
「なんでおとうさんは、
サコタを、いじめてたんですか?」
その瞬間、赤信号が目の前に閃いて、車全体が前方に潰れるようにして急停止した。
揺れる車内、ペットボトルのお茶が落ちる、座席の後ろのポケットに入っていた地図がこぼれる。シートベルトが食い込んで痛い。
前方、横断歩道。停止線を少し越えたところで停車してしまった自分たちを、通行人たちが迷惑そうな顔で一瞥し、通り過ぎていく。
音が戻ってくる。
赤信号が、ずっと光っている。
その赤の光が、瞳に焼き付いて。
父は、何も言わなかったし、那由多も、それ以上追及しなかった。
まもなく、海についた。
僕は心臓が、なぜか、速度をはやめていることに気付いていた。
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