第16話

 狂乱のなつが、ながれはじめる。


 ――あの事件の犯人、まだ捕まってないんだって。

 ――やだー。殺人より怖いよね。

 ――恒星が。爆発が。


 耳をふさぐことはしなくとも、それらについて僕が今更耳をふさぐことはしない。その時期はもはや過ぎたのだ。

 やれることをやるしかない。

 何がどうなろうと。いま、その力を得ている。だからそれでいい。


 入道雲が、フラスコに入り込んだ気体みたいに野放図に空に解き放たれていくさまを見ている。加速度的に。

 街路樹の緑が複雑な編み目の光になって降り注いでいくのがわかる。

 アスファルトは溶けかかって、視界は白くなっていく。


 僕は、那由多の手を取って、すすんだ。


 土曜日、たまに日曜日。

 本屋のつぎは、喫茶店だ。

 那由多は食が細い。

 僕が欲張ってケーキセットを頼んでも、彼はコーヒーを啜るだけだった。

 猫舌らしく、両手でカップを持って、少しずつ飲んでいた。

 ふだん、他の連中とも行ってるだろ、どうしてるんだ、と尋ねると彼はきまって「魔法使えるって言ったろ」と答えた。

 僕は、那由多なら使えると、既に信じている。


 電車を乗り継いで、どんどんいろんなところへ。

 遠くへ、遠くへ。水面に波紋を広げるみたいに。

 僕が広げていった僕の世界に、彼が追従するようにして、薄いベールのように、重なっていく。

 山に行ったり、寺社を見に行ったり。

 それらは彼が知っているはずの、だけど、本当は知らない、「世界」そのもの。

 僕は止まらなかった。

 彼もまた、ついてきてくれた。

 途中、自販機でスポーツドリンクを買って、ふたりで一気にのんだ。

 彼の白い喉が、生き生きとうごいている。


 ――えー〇〇さんはね、どのようにお考えですか。最近の、例の……。

 ――そうですね。やはり情報社会となり、匿名化が進んだことが……。

 ――ご家族の方、関係者の方々の気持ちを考えまして、一刻も早い皆さまの発見を……。


 ――来月開催される第18回地球環境国際会議について、内閣は改めて不参加の方針を……。


 ――かしこい貯蓄! あなたにもできる!


「……」

「いやぁ、生き返るな。つぎ、アイス買いに行こうぜ、アイス」

「……いくぞ」


 ……僕は、那由多の腕を引っ張った。

 やや強引に。

 加速するために。夏の速度で、すべてを置き去りにできるように。



 一日活動を終えて、僕たちはさすがに疲弊した。

 時刻は夕方近くになっている。


「日陰に入ろうぜ。倒れそうだ」

「那由多でも、倒れるとか、あるんだな」

「ばか、おれだって生き物なんだから、それくらい……」


 その時。

 僕らは、駅のロータリーの、ちょうど木の植え込みの根元にあるベンチで、横並びにすわっていて。

 ちょうど影になっていて、気持ちよくて。

 おまけに、ほとんどの人たちは、反対側の改札から乗り込んでいくから、僕たちの居る場所には、人が少なくて。

 ときおり、自転車を押す主婦の人たちが見えるくらいで。そのまばらな感じが、心地よかったのだけれど。


 むこうから、知らない黒焦げの人影が、歩いてくるのが見えた。

 最初それは、柱か何かに見えたけど、近づいてくることで、ヒトだとわかった。

 そう、ヒト。真っ黒なのは、影に覆われているから。


 それは男、やせぎすの男。

 気のせいかなと思ったけど、ちがった。

 僕たちの側に近づいている。

 なぜなら、僕らは、立ち上がれなくなっていたから。


 周囲。誰も居ない。コンビニと、マンションと、小さな公園。遠くの車の音いがい、なにもきこえない。


 ひた、ひた、と足音。

 僕は、那由多の手を引っ張って、駅に行こうとした。

 だが……動かなかった。

 那由多は、その男を見ていた。


 ――……え?


 男は、僕たちにある程度近づいた。それでも表情などの起伏はハッキリしない。

 そのなかで、僕らを指さした。ゆらり。ゾンビの腕だ。力がこもっていない。ぞっとする。

 ハッキリ言って……怖かった。だから逃げなかったのだけど。

 なぜか那由多は動かなくて、なにやってるんだ、と言う間もなく。

 男が口を開いた、ようだった。

 それは、その声は、こう聞こえた。


「お前ら、それでいいとおもってんのか」


 ぞっとするほど、感情が抜け落ちたような。主体が、遠くへ飛んでいるような。


「そのまま行けば、もう、ぜんぶおわるんだ。目ぇそらすな。誰も分かってない、分かってるのは俺だけなのに」


 指が、明確に僕らを指す。


「お前らもそうだろ、そうなっちまったんだ、もう見えてないんだ。もうすぐ侵略が始まる。いい加減気付け、それはすぐそばから……」


 やばい。

 本能的な恐怖。

 僕は何もかもをかなぐり捨てて、彼の手を引っ張っていこうとした。


 那由多は応じなかった。

 そのかわり、立ち上がった。僕の顔を、一度も見ていない。

 風が吹いて――彼の表情が、見えなくなる。


「なゆ、た……?」


 彼は、その男に向けて進んだ。一歩、二歩。


 その時、また風がふいて。

 僕はよろめいて目を瞑って。


 ――再び目を、あけたとき。


 那由多は、男のすぐ向かい側に、立っていた。


「知らねぇよ。今すぐ消えちまえ」


 誰の声か。最初、わからなかった。


「邪魔するな。関係ない。何がどうなろうと」


 それが那由多のはずがない。

 那由多は。


「俺たちだけでいい。他が何を言おうと、ないのと同じ」


 那由多は、そんな声を出さないはずだから。

 そう、僕が信じ込んでいるから。


「知ってるか。フクロムシ。とりついて、カニとか海老とか、そういうのの性別を変換させちまうらしい。それで、取りついた相手に、卵だと思い込ませて、育てさせるんだ」


「あ、ああ……」


 相手の男は。

 苦しんでいるように見えた。推測だ。顔が見えないのだから。

 でも、顔が見えないのは、那由多も同じだった。

 

「寄生ってのがずるいよな。要するに相手になることなんだよ。でもそれは覚悟の上だ。俺たちの選んだ生存方法なんだ。お前らには関係ない。邪魔をするな。でなきゃ――」

「ああ、ああああ……!」


 男は、悲鳴を発した。

 ひきさがり、よろめきながら。

 逃げていった。


 もういちど、風が吹いた。

 僕が目をあけると。


 そこには、何も変わらない、那由多がいる。


「さて、帰るか」

「な、ゆた……」

「ああ。さっきのな。あれは、お前といっしょに選んだ図鑑、書いてあった。記憶力いいだろ、おれ」

「そうじゃない、僕が言いたいのは――」

 

 その時、駅のホームから、警笛が聞こえた。


「やべ、急ぐぞ」

「あ、ああ」


 今度は彼に手を引っ張られて、ダッシュで改札を抜けて、電車に乗り込む。


 窓ガラスに頭をくっつけて、微笑を浮かべて景色を見ている、那由多。

 その微笑は、僕が知っているものだ。


 じゃあ。

 さっきのは、なんなんだ。

 さっき、君は、何を、言いかけていたんだろう。


「どうした、サコタ。しんどいか」

「ちょっと疲れただけだよ、大丈夫」

「そか」


 僕は――なぜか那由多に隠れるようにして――拳をぎゅっと握る。


 那由多のことを、もっと知らなくちゃいけない。


 でなきゃ不公平だ。


 不公平さをただすには、もっと、大胆にならなきゃいけない。

 僕は、決意する。

 彼と一緒になれるように。

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