第13話

 ふと。

 本棚に視線をやる。

 学校関係のモノ以外が収まっていて、くぎ付けになった。

 目を凝らす。


 『とうほうししゅう』『まるてのしゅき』『とーにお・くれーがー』。


 なんて、こった。

 ぜんぶ、僕の好きな詩で、小説で。

 ……僕が、あの踊り場で読んでいた本だった。

 どこから入手したのか。

 日に焼けていたり、値札が貼ってあったりしているが、まぎれもなくそのものだ。


「これ……」

「ああ。おれも、ちょっとな」

「……」

「おまえのまえ、してみた。ぜんぜんまだ、読んでないけど。たぶん、そのうち読む」


 ――僕はその時、彼に対してすべてをぶつけてもよかった。捧げてもよかった。

 そうしなかったのは、彼がコンロの傍にあるおんぼろの棚から、グラスを二つ用意しているのが見えたから。

 それでほんの少しだけ冷静さを取り戻し、所在なげに――そう装うように――床に胡坐をかいた。


「ほら」

「えっ」

「例外はある。おれが渡したものの場合はOKだ」

「ああ、ありがとう」


 なんのことはないただの麦茶。

 僕は一気に飲み干すよう努めて、身体を冷やした。

 彼はそんな僕の様子を見て笑って、これまた僕の真似をしたように――一気に飲んで、床の板張りに、コップを置いた。


「……ひひ」


 彼は、笑う。

 その顔に、また影がかかったことで、先ほどまでのうわついたきもちが、すこしだけさめるのがわかった。

 でもそれはいいことだ。

 愛するとは、相手になりたいということ。

 まだはやい。

 僕はあまりにもまだ、彼を知らない。


 そう思っていると、彼のほうから口を開いた。

 主導権が向こうにあることに、気付く暇もなかった。


「ここがおれの全部なんだ。他には何もない」


 ――でも君には人望がある。将来だって、花開いているように見える。


「言ったろ。おれはひとりぼっちだって」


 ――だけど、こんな部屋じゃ、余計にそうなる。


「おれがここにきたとき。おれは、学ぶことから始めようと思った。だから、お前の言う通り、ここは色んなもので、満たされるはずだった」


 ――……。


「だけど。連中は、おれから色んなものを吸い取っていくばかりで、おれには何もくれなかった。おれはいつだって、誰かのおれなんだ」


 彼は冷蔵庫を開ける。


「これは、〇〇っておじさんがくれた、コメと、それから味噌と。生活に困ってるだろうから、って」

「それからこれは。牛乳。これもくれた……あ、期限切れてら」


 ちょっと待って。

 ――ちょっと待ってくれ。


「なんだよ」


 ――きみはいったい、どうやって暮らしている。どんな手段で。


「おまえ。もう忘れたのか……見ただろ、おれの傷。必要なら、スラックスの下も、見せようか」


 そう言った、彼の表情は。

 ひときわ、暗く。

 うっすらとあけられた瞳。少しだけつり上がった、唇。

 影の中に居て。


 そして、電車の音が遠くで聞こえて。僕は呆然として――彼の言ったことを理解した。

 理解してしまった。


 僕は、衝動で動いていた。

 彼の腕を掴んで、ひきよせた。

 あの時とは、真逆。今度は、僕の番だ。

 いまの僕になら、できる。


「ちょっ、お前――」

「連れてってやる」

「は?」

「僕が、色んな所につれていって、君に、いろんなことをさせてやる。それから。この部屋を、もっときたなくしてやる」


 彼が顔を背けて、小さく「できるのかよ」と言った。お前には無理だろ、だってお前は。

 ――知ったことか。


「僕も一緒だ。僕は、君と一緒につよくなる。それでいいだろ」


 そう言った。

 彼は呆然と、目を丸くして。僕の目の前で、崩れ落ちるように、座り込んだ。


「おま、え……」

「言ったろ。世界を二人じめに、するって」


 僕は、彼の頬に手を伸ばした。

 彼はその手に、自分の手を添えて。


 彼の目からは涙が出た。

 それが彼の証で。

 なまあたたかかった。


 また電車が通った。

 橙の部屋が風にゆれて、色彩を微妙に変えるのだった。

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