第12話

「え、ええー……」


 見たことのない、顔。

 じじつ彼は少し赤面しているようにさえ見えた。

 それは衝撃で、彼がそんな顔をするなんて、とうぜん思いもしていなかったから。

 僕はその顔をいつまでも見つめていて、それを彼の弱みにしてしまおうとさえ思っていたが。


「じゃ、じゃあ……いいよ。いいってことに、してやるよ」


 彼はあっさりそう言った。

 じゃあ、と言葉を続けようとした僕に、指をさして、ひとこと。


「そのかわり、ルールまもってくれ」

「ルール?」

「おれの部屋。あるものには、触らないでくれ。お茶くらいは出すけど」

「どうして」

「どうしても、だ」


 そのことばで、冷静になれたことを思い出す。

 そのまま彼が、何もかもを受け入れていたら――それは彼ではない。


 僕には準備が必要だった。

 いよいよ僕は、彼の知らない領域に踏み込むのだ。

 そうなったあとは、僕たちの関係に、名前がついてしまうだろう。

 だからその言葉に、おとなしく従うことにした。


 そうして、決行の時間がやってきた。

 夕方に、帰る準備をしていると、一足先にそれを終えた彼が、待っている。

 僕は彼の後ろについていって、帰路につく。


 だが奇妙だ。

 奇妙に感じるのは、僕がそう思っているからだ。

 彼はいつも以上に足早で、流れていく景色も、まるで違うように見えた。


 通っていく車も、人々も学生も喧騒も、まるで書き割りのように曖昧に見えて、ただただ流れていった。

 平面に、少ない色使いで、まるで影のように。

 僕は彼に追いすがる一心だったから、僕らの足元がまるで奇妙な影の伸び方をしているのに、注意を払うことも難しかった。


 電車に乗る。

 客たちもみな、ピクトグラムのように見えて。僕には彼しか見えていない。

 座席に、隣同士で座る。

 きょうぐらいは、何も聴くまい。

 窓が、何度となく通り過ぎる跨線橋の影を橙色の車内に投射していく。

 その影が顔にかかる。隣を見る。


 彼の表情はうかがい知れない――だが、いつもと違う。緊張しているのだろうか。

 それは僕にも伝わってきて、無言のうちに降車する。

 終点。彼の家がある場所だ。


 そこは住宅街から外れた場所。

 言ってしまえばへき地だ。

 駅を降りるとわずかなタクシーだけがとまっているロータリーがあって、その奥には低層の住宅地や工場がまばらに散らばっていて、はざまを雑草だらけの空き地が埋めている。

 ロータリーを超えた先にあった商店街は大半がシャッターを閉めていて、通っていく者たちもわずかな大人や老人ばかり。

 遠くに他の街の音が聞こえるが、あくまで、他の街に過ぎない。

 商店街を過ぎて、いくつかにわかれた、廃線を含む踏切を乗り越えて。

 その場所にたどり着く。


 公営住宅、というのだろうか。よく知らないけれど。

 灰色の四角の構造物が、規則正しく、ただし限りなく無機質に並んでいる。

 手前には駐車場と公園があったが、例外なく赤さびが浮いていて、誰もいない。

 長い影法師を垂らしながら、那由多は、その中に吸い込まれるように入っていった。

 ものがなしい、ばしょだ。

 僕はその雰囲気にあてられて、ちょっと心細いような、奇妙な気持ちになったまま、彼に続いた。


 彼がカギを開けて、中に入る。

 広がって、いたのは。


 ワンルーム。

 打ちっぱなしのコンクリートのかべ。

 わずかにある本棚には、教科書と参考書が並んでいるだけ。

 横を見れば、トイレとシャワー室に繋がる扉があるだけ。壁には古びたガスコンロがあって、その横に、時代に取り残された丸い冷蔵庫がある。

 そして、着替えが、たわんだ糸につるされていて、向こう側のベランダのカーテンはどこまでも薄く、反対側の住宅があっさりと一望できてしまう。

 くらい。天井から、ちいさな電球があるだけ。

 彼はそれを灯して、部屋の端にあるベッドを指さして。


「まあ、ちょっとすわっててくれ。お茶のパックぐらいは、あったと思うんだけど。ちょっと待ってな……」


 声が遠ざかる。

 僕には何も言えない。

 ここについて、いったい何を言うことが出来る。


 これが、水城那由多の部屋。

 あの、水城那由多の部屋なのだ。

 その名を冠する、僕がこれまで見てきたすべてのその名を持つ人物を無理やりつなぎ合わせようとすると、激しくめまいがしそうになる。

 だが、行き着く先は、この場所だ――コンクリートの、廃墟同然の、伽藍洞の、このばしょだ。


 ああ、それは。

 僕の知る、水城那由多だ。あの路地裏の少年だ。

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