第11話
帰宅すると、僕は廊下に差し込む夕暮れの影をまたいで、そのまま台所にむかった。
「ただいま」
母さんがいる。
「あら。おかえり」
母さんはちいさなひとだ。
むかしはもっとちゃきちゃきしていた。
どいつもこいつも神経質な我が家にあって、いわばソトから来た母さんは、まるで違う性質を持っていた。
だけど今となってはもう、何もかもがすりきれて、影のようになっている。
……そうさせたのは、僕にも原因がある。
僕が、母さんを無意識に見下していたのだ。
白髪の混じった髪を後ろでとめて、フレームの太い眼鏡をかけて、その奥の瞳が、やさしくこちらをみた。
……いつぶりだろう。まともにその目を見たのは。
僕は、こみ上げてくる何かをこらえて言った。
「あのさ。些細なことっていうか。唐突なんだけど」
「なあに」
「俺ってさ。小さいころ、何か好きなものとか、あったっけ。遊びとか、そういうの」
母は。戸惑った様子を見せなかった。
ただ受け止めて、少しだけ考えて、言った。
「あなた、ヒーローショーとか好きだったのよ。よく連れてったわ。人形も持ってたし。なんとかマンとか、なんとかレンジャーとか、そういうの」
「……」
それについて、どのように思い出せるかは、このあとの僕の仕事であって、母さんのすることではない。
……じゅうぶんだった、それだけで。
勝手口から差し込んでくる夕日で追い詰められて、グリルの影にいる母さんに、そのちいさなひとに、礼を述べて、僕は部屋に戻った。
僕の生活。ここにある確かなもの。
僕は、変わりつつある。
それをおそれていない。
◇
僕が、調べたことを教えると、那由多は喜んだ。
「おまえやっぱ、おもしろいよ」
子供向けの特撮番組が好きな、ありふれた子供だったと思うのだけど。
ただ少し、父親に従順すぎただけの。
でも、彼はそれを面白いと言った。
かつてはいぶかったその言葉。
いまは、まるで水のように僕に染み込んでくる。
僕が立っている場所を肯定されるような、そんな気持ちになる。
僕は、うれしかった。那由多と居て。
夏季休暇が着実に近づいてくる。
空にはおおきな入道雲が浮かんで、青空はますます底が抜けたようないろになっていく。
陽の光はまるで全部を呑み込んで焼き尽くすように降り注いで、そのはざまを、遠い蝉の混声合唱が埋めていく。
僕と那由多の日々が、様相を変えることはなかった。
朝、学校に来て。
昼休み、詩集を読んでいるそばに、彼が居て。
夕方、一緒に帰るだけだ。
それ以外に接触する場面はまるでないし、それ以外での那由多は、僕にとってはまるでちがう那由多だ。
だけど、それでもよかった。
那由多は引き続いて、僕のことを色々知りたがった。
僕はもう、教えることが苦ではなくなっている。
それどころか、少しずつ癒されている。
自分の解剖手術を、自分でやっているようなものなのに。
だけど、那由多は――僕が切り拓いた胎の臓腑を見ても、おそらくは。
いや、本当に勝手な想像だけど。
……きれいないろだと、言ってくれそうな気がして。
「……なんかおまえ、いま、すげー変な笑顔」
……僕は、あわてて首を振るのだった。
◇
僕たちの関係がどれだけ進んでいようと、世界の滅びの進行は止まらないようだった。
なにせ、毎日が、厭になるはなしであふれている。
近頃もっぱら、朝の生徒たちの話題に上るのは、僕たちの学校がある地域で起きる行方不明事件だった。
〇〇市にて、〇〇さんが〇〇日以降、行方が分からなくなっています。
そんなニュースが、張り紙が、目だっている。ひとつ、ふたつぐらいなら、みんな無視をするだろう。〇〇市は広いのだから。
でも、それがみっつ以上になってくると、さすがに何かの連続性を感じずにはいられなくなる。
というわけで、誰もが変わらぬ日常を過ごすなかで、不安な影は、僕たちの世代に、絶えず覆いかぶさってくる。
「こわいよな」
僕が言った。
彼は。
「ああ、きいてなかった」
と言った。
◇
肝心なのは、それらのニュース自体がどうというわけではなくって、それを受けての、みんなの様子だった。
せいぜい朝のうちに雑談の種になるぐらいのもので、それ以降はどうでもいい。
自分が対象になることはないと決め込んでいるらしい。
僕にとっては、いらだちでしかない。
じゃあ、どうするんだ。行方不明の話が、「連続殺人」に切り替わったら。
殺人じゃなくて、疫病だったら、爆弾だったらどうするんだ。
これほどまでに破滅の要因になりうる話が並んでいるのに、誰もがその二文字を避けようとしている。
いつかどうにかなるさと、平身低頭して耐えている。
それが美徳だっていうのか。僕はまっぴらごめんだ。
「きみは、どう思う……那由多」
「俺は。俺はさ……そういうの、よくわかんねぇなぁ」
それは知っている那由多だ。
知っているけど、知りたくない側の、那由多のポーズだ。
僕は舌打ちをする。
彼の正面に出る、言ってやる。
「わからないばっかりじゃないか。もう我慢ならないぞ」
「な、なんだよ」
「君の家、連れてけよ。僕のこと聞いてばっかじゃ不公平だ」
……その時は、暑さでやられていたのかもしれない。
だから、その行動が、その後の僕らを変えてしまったことにも、気付いていなかったのだ。
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