第11話

 帰宅すると、僕は廊下に差し込む夕暮れの影をまたいで、そのまま台所にむかった。


「ただいま」


 母さんがいる。


「あら。おかえり」


 母さんはちいさなひとだ。

 むかしはもっとちゃきちゃきしていた。

 どいつもこいつも神経質な我が家にあって、いわばソトから来た母さんは、まるで違う性質を持っていた。

 だけど今となってはもう、何もかもがすりきれて、影のようになっている。

 ……そうさせたのは、僕にも原因がある。

 僕が、母さんを無意識に見下していたのだ。


 白髪の混じった髪を後ろでとめて、フレームの太い眼鏡をかけて、その奥の瞳が、やさしくこちらをみた。

 ……いつぶりだろう。まともにその目を見たのは。


 僕は、こみ上げてくる何かをこらえて言った。


「あのさ。些細なことっていうか。唐突なんだけど」

「なあに」

「俺ってさ。小さいころ、何か好きなものとか、あったっけ。遊びとか、そういうの」


 母は。戸惑った様子を見せなかった。

 ただ受け止めて、少しだけ考えて、言った。


「あなた、ヒーローショーとか好きだったのよ。よく連れてったわ。人形も持ってたし。なんとかマンとか、なんとかレンジャーとか、そういうの」

「……」


 それについて、どのように思い出せるかは、このあとの僕の仕事であって、母さんのすることではない。

 ……じゅうぶんだった、それだけで。


 勝手口から差し込んでくる夕日で追い詰められて、グリルの影にいる母さんに、そのちいさなひとに、礼を述べて、僕は部屋に戻った。

 僕の生活。ここにある確かなもの。


 僕は、変わりつつある。

 それをおそれていない。



 僕が、調べたことを教えると、那由多は喜んだ。


「おまえやっぱ、おもしろいよ」


 子供向けの特撮番組が好きな、ありふれた子供だったと思うのだけど。

 ただ少し、父親に従順すぎただけの。

 でも、彼はそれを面白いと言った。

 かつてはいぶかったその言葉。


 いまは、まるで水のように僕に染み込んでくる。

 僕が立っている場所を肯定されるような、そんな気持ちになる。

 僕は、うれしかった。那由多と居て。


 夏季休暇が着実に近づいてくる。

 空にはおおきな入道雲が浮かんで、青空はますます底が抜けたようないろになっていく。

 陽の光はまるで全部を呑み込んで焼き尽くすように降り注いで、そのはざまを、遠い蝉の混声合唱が埋めていく。


 僕と那由多の日々が、様相を変えることはなかった。

 朝、学校に来て。

 昼休み、詩集を読んでいるそばに、彼が居て。

 夕方、一緒に帰るだけだ。

 それ以外に接触する場面はまるでないし、それ以外での那由多は、僕にとってはまるでちがう那由多だ。

 だけど、それでもよかった。


 那由多は引き続いて、僕のことを色々知りたがった。

 僕はもう、教えることが苦ではなくなっている。

 それどころか、少しずつ癒されている。

 自分の解剖手術を、自分でやっているようなものなのに。

 だけど、那由多は――僕が切り拓いた胎の臓腑を見ても、おそらくは。

 いや、本当に勝手な想像だけど。

 ……きれいないろだと、言ってくれそうな気がして。


「……なんかおまえ、いま、すげー変な笑顔」


 ……僕は、あわてて首を振るのだった。



 僕たちの関係がどれだけ進んでいようと、世界の滅びの進行は止まらないようだった。

 なにせ、毎日が、厭になるはなしであふれている。


 近頃もっぱら、朝の生徒たちの話題に上るのは、僕たちの学校がある地域で起きる行方不明事件だった。


 〇〇市にて、〇〇さんが〇〇日以降、行方が分からなくなっています。


 そんなニュースが、張り紙が、目だっている。ひとつ、ふたつぐらいなら、みんな無視をするだろう。〇〇市は広いのだから。

 でも、それがみっつ以上になってくると、さすがに何かの連続性を感じずにはいられなくなる。

 というわけで、誰もが変わらぬ日常を過ごすなかで、不安な影は、僕たちの世代に、絶えず覆いかぶさってくる。


「こわいよな」


 僕が言った。

 彼は。


「ああ、きいてなかった」


 と言った。



 肝心なのは、それらのニュース自体がどうというわけではなくって、それを受けての、みんなの様子だった。

 せいぜい朝のうちに雑談の種になるぐらいのもので、それ以降はどうでもいい。

 自分が対象になることはないと決め込んでいるらしい。

 僕にとっては、いらだちでしかない。


 じゃあ、どうするんだ。行方不明の話が、「連続殺人」に切り替わったら。

 殺人じゃなくて、疫病だったら、爆弾だったらどうするんだ。


 これほどまでに破滅の要因になりうる話が並んでいるのに、誰もがその二文字を避けようとしている。

 いつかどうにかなるさと、平身低頭して耐えている。

 それが美徳だっていうのか。僕はまっぴらごめんだ。


「きみは、どう思う……那由多」

「俺は。俺はさ……そういうの、よくわかんねぇなぁ」


 それは知っている那由多だ。

 知っているけど、知りたくない側の、那由多のポーズだ。

 僕は舌打ちをする。

 彼の正面に出る、言ってやる。


「わからないばっかりじゃないか。もう我慢ならないぞ」

「な、なんだよ」

「君の家、連れてけよ。僕のこと聞いてばっかじゃ不公平だ」


 ……その時は、暑さでやられていたのかもしれない。


 だから、その行動が、その後の僕らを変えてしまったことにも、気付いていなかったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る