7月
第10話
雨がろくに降らなくなって、気温は開き直ったかのように上昇した。
そんな中にあって、誰もが、鍋のカエルみたいにいつも通りの日常を死守せんとしている。
こと、学校においてもそうだ。
窓際の座席でいることは心地よく、風も吹きこんでくる。
他の生徒は羨ましがっているようだった。
だが、僕はその日も変わらず、授業の声を遠くに聞いていた。
異国の箴言みたいだ。
……父の世話があった。疲れていた。だから本当に眠かった。
残りの時間に眠ってしまえば教師は僕に目をつけて面倒なことになるだろう。だからシャーペンの先を掌に押し付けてなんとか気をそらす。
だがそれもチャイムが鳴るまでのことだ。
僕は十分という空隙を逃さず睡眠に費やそうとした。
だがそこで。
顔を上げると、那由多がいる。
彼は尻を半分だけ机に乗り出して、僕の額を小突いた。
――こいつがいるから、僕は眠れない。
◇
あの日、あのずぶ濡れの宣誓のあと。
那由多はこれまでのような、何か秘め事のような接し方ではなく、僕に対しては、表立ってコミュニケーションをとるようになった。
クラスで上位のヒエラルキーに居る男子が、空気のような、居るのかもわからない、別に誰かを苛立たせるわけでもない、ただなんとなく常々鬱々とした雰囲気を帯びて近寄りがたい男子に好意的なポーズをとっている。奇特な状況。
それを誰かに揶揄されたりすることは、僕も那由多も、経験していなかった。
それはひとえに、那由多がうまくやっているのだろう。それは未知の世界で、二人の世界とはまじわらない。
きっと、まじわっていたとしても、気付かないだろうけれど。
那由多は、僕と一緒に下校するようになった。
夕暮れ、教科書とノートをカバンに詰め込んでいると、先に用意を済ませた那由多が――さも当然のように彼のカバンはぺらぺらだ――目の前にいて、僕を待っている。
……大型犬みたいだ。
そう思うと、瞬間的に、何かとても恥ずかしい形容をしていたように思い、顔を背ける。だが彼は不思議そうに首をかしげる。
準備が整うと、僕は一瞬だけ彼に目を合わせ、何も言い出せない。
彼が、先に教室を出た。僕は、その後ろをついていく。
車の行きかう道、駅構内を進むさなか。
それぞれの場所で、那由多は先に進んでは立ち止まり、振り返り、欠けた歯の笑顔を向ける。
僕にはとてもまぶしい。そんな彼が僕と一緒にいるという違和感。
その違和感は、やがて罪悪感に変わってしまう。
――でも那由多は、それすらお見通しだ。少なくとも一緒に帰るようになってから、そこまで発展したことはない。
なぜなら彼は、僕について、色々知りたがって、質問をぶつけてくるからだ。
特に彼が気になっていたのは、僕の小さいころのことなどだ。つまり、いまの僕を形成した歴史の積み重ねについて。
僕はこれまで、それを振り返るのは苦痛だった。
思い返すたびに、後悔と自責が先立つからだ。
しかし、彼の輝く輪郭のなかにいながら、それを顧みると、不思議なことに、そう苦しいものでもないと思えてしまう。
僕は彼に教えた。
生まれてしばらくは、髪の毛が栗色だったこと。
女の子に間違えられていたこと。
小学校二年生から眼鏡をかけていたこと。
しばらく右耳が難聴で、海に遊びに行けなかったこと。
など。
それらは決して楽しいばかりの話ではなかったし、ドラマチックでもなかった。
しかし、彼はそのひとつひとつを、まるで音楽の旋律を楽しむように聞いていた。合間のリアクションはない。
ただ聞くだけ。だがそれでも、咀嚼して、呑み込んでいることがわかった。
それだけで僕は、まるで存在を肯定されたように感じる。
「じゃあさ、じゃあさ。おまえが、小さいころ好きだったものとか、教えてくれよ」
ふいに、そう言われた。
戸惑ったが、彼は続ける。
「もっと知りたいんだよ、おまえのこと」
……答えに窮する。
困ったことに、まったく思い出せない。おそらくは自分で封印していたつもりだったのだろう。かすみがかかったようだ。
「覚えてない」
「なら、聞いてくれよ。宿題だ」
「だったら……君も教えろよ」
これまでなら、あり得ない感情。
途中の駅でおりる。彼は終点だそうだ。
僕は、気付けば、足取りが軽くなっていた。
発見したのだ、自分自身を。
――自分を、肯定したい、じぶんを。
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