第9話

 雨が夕暮れの街を濡らす。

 車が歩道にしぶきをまき散らし、女子学生たちが頭にカバンを載せながら楽しげな悲鳴を上げている。

 スーツ姿の男たちが軒先に隠れて電話している。


 そんな中を、僕は走っていた。

 そのすぐ後ろを、彼が追いかけてくる。

 見られていることも聞かれていることもわかっていながら、僕たちはあの校庭と地続きに、大きな声でやりとりをする。


「ついてくるなよっ」

「うるせー、おれのすきにさせろっ」

「すきにってなんだよ、そうやって僕を振り回すのが、君のすきなことなのかっ」

「どう答えてほしいんだよ、それにっ」

「……っ、ああああ」


 そのまま素直に、家に向かってやるものか。

 僕は角をいくつか曲がって、彼を振り切ろうとする。

 しかし悲しいかな、体力がついていかない。彼は僕を見失わない。決して。


「おまえ、おれのこと知らないし、信じてないだろ」

「ああ、そうだっ」

「なんでだ」

「君は僕をおもちゃにしたいだけだっ」

「ちがう、おれは本当にお前のこと、気に入ってんだよっ」

「なんでだ、一緒だとか、そんなの、意味が分からない、僕と君は、全然違う、信じられるわけ、ないだろ――」

「だったら、」


 片腕がとまる。掴まれた。

 ふりかえる。彼がいる。

 存外に強い力。その華奢なからだからは想像もつかないほど。

 真剣な表情。それに僕は射貫かれる。

 そんな表情を、まっすぐに僕に。そんな顔も出来るのか、君は――。


「信じさせてやる」


 そして君は、僕を、すぐそばの路地裏に引っ張り込んだ。



 室外機がうるさくうなっている。

 トタンからしずくが垂れている。らくがきと、汚いゴミが散っている。

 そのはざまの、わずかな結界。

 僕らはその薄暗い影のなか、二人だけでいる。


 お互いに消耗しきっていた。

 水城那由多が部活に入っているという話はついぞ聞いたことがない。

 だから息が上がっているのも不自然ではない。


 僕らは僕らだけのその狭い場所で、互いの荒い息遣いを聞いた。

 顔を上げる。

 彼がいた。すぐ間近に。

 においは分からない。

 するとすれば『そと』のにおいで、彼のではない。

 でも、彼はそこに実在している。


「見せてやるよ、いま」

「何を」


 彼は、耳に髪をかける。そして薄く目を閉じる。

 その所作に、なにかの神聖さのようなものを感じる。少し、どきりとする。

 

 ……その時、また着信が聞こえる。

 僕は彼の姿から逃げるように、平然を装って確認しようとしたが。


 腕が伸びてきて、ポケットに触れる僕の手を覆い隠した。

 彼の顔が首元まで近づいていて、互いが密着するぎりぎりになった。


「出ないで」

「えっ――」


 確かに彼はそうささやいた。

 幻聴かどうか、確かめるまもなく。


 彼は、僕の目の前で。

 シャツの前を、はだけた。


「じゃあん」


 そうして僕は、絶句する。

 彼の身体に、その骨っぽい首筋から薄い胸板、へそから、細い腰にかけて、あったもの。

 刻まれて、いたもの。


「なんで、そんな」

「ここに、最初にきたとき。『あいつら』に、つけられた」

 

 おぞましい想像がこみ上げる。

 それは、今僕らがいるこの場所で膨れ上がる。

 すえたにおい、よどんだ空気。絶え間ない機械の音の濁流。


 その中で、那由多は笑う。

 目と、口が真っ黒に見えて、僕はゾッとする。

 君は一体、どれほどのことを、これまで。


「なんで君が、君なんかが。そんな目に遭わなくちゃいけないんだ」


 君は僕に近づいてくる。

 僕の胸に手を当てて、その高鳴りを感じ取ってみせる。

 君は笑ってみせる――目元と口の端がつり上がったそれは……言葉を選ばなくていいなら。

 淫靡に、みえた。


「おれの顔、綺麗だろ」

「……女みたいだ。きみは、女みたいなこと、言ってる」

「そうかもな。確かめてみるか」

「やめろ、バカ」

「くっ、ひひ、ははははっは」


 身体をのけぞらせて那由多は笑った。

 まるでナナフシがもだえるようだ。壁に影絵が踊る。


「おれは、おれは必死だったんだよ、いままで。必死に、今のおれになった。それはおれの生存に必要なことだったんだ」


 それは彼がひとりで演じる舞台だった、僕は最前列に居る客。


「だけど、服の下まではごまかせない。どれだけ厚着をしても、いつかは溢れてくることは、目に見えてた。おれはいい加減に、限界だったんだ」


 いま、水城那由多が、これほどまでに近くにいる。

 彼の長広舌は現実離れしているのに、これまでよりもよっぽど、彼をすぐそばに感じられた。


「そんななか、おれはお前に出会った。お前がそのままでお前なことが、おれにはうらやましい。お前は、つよいんだ」

「強い……僕が?」

「ああそうだ、お前は強い」

「馬鹿を言うな、僕のどこが強いんだ」

「毎日死にたいと思ってるくせに、全然死にそうにないところだ」

「それは弱さだ」

「誰も彼もを見下してるくせに、本当は一番自分のことが嫌いなところだ」

「それだって、強さじゃない、僕の弱さだ……」

「ひとりでいるのが自分を守ることだって思ってるのに、本当は誰よりも、誰かを求めてるってことだ」

「それだって僕だ、僕の弱さだ、君は一体、――」

「……ありがとう」


 とん、と。

 彼の頭が、僕の胸に押し付けられた。

 それでバランスをくずして、僕らは二人して、その場でしゃがみこんだ。


 ……すべて、さらけだされてしまった。

 途方もない虚脱感。

 ただ、それと同時に――なにかが、熱いなにかが、僕のなかにいる。


「これで楽になる……おれは、お前を救ってやれる。お前は、おれを満たしてくれる」


 誰かにあこがれるということは。

 その誰かとひとつになることで、そのさかいめが、分からなくなることで。


 僕らは確かにその場でそうなって、始まった。

 だけどそれは、始まりとおわりさえ、ひとつになることだった。

 僕はまだ気付いていなかった。

 では、彼はどうだったのか。


「世界を、ふたりじめしようぜ」


 彼は僕の顎を、ほんの少し上にあげて、笑った。

 目覚め切っていない彼に対する疑問は宙づりにされたまま。

 僕は、彼の甘い味をおぼえた。



 六月がおわって、七月がはじまる。

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