第8話

 なぜだ、なぜそこにいる。

 そしてなぜ、息を切らしている。

 まるで必死なようじゃないか。

 きみが必死になることなど、なにひとつ、ありはしないというのに……。

 僕は、泣きそうになる。


「なんでだよ」

「なにが」

「なんでそこにいるんだ」

「おまえが、かさ、持ってないみたいだから」

「そうじゃないだろ」


 すでに、わかっている。

 簡単にそういうことを言えてしまう存在なのだ、那由多は。

 あまりにも僕にとって、何もかもが、満たされるようなやりとりを、こんな風に言えてしまうやつなんだ。

 だから、この直後のやりとりも、簡単に予想できた。


「あの女の子は、どうしたんだよ」

「断ってきたよ。おれ、あんまり知らなかったし」

「ばっか、やろう――」


 僕は、彼に向かっていくのではなく。

 逆に、雨の中に踏み出した。


「ばかやろう、ばかやろう」

「何やってんだ、傘あるって言おうとしたのに」

「ばかやろう、そんなだから、きみはどうしようもないんだよ」


 今この場で、雨音が聴覚を蹂躙している今ここでなら、何もかもが吐き出せる。

 だから、言った。


「オヤジが、もうだめなんだ。毎日毎日布団にこもってて、たまに起き上がったと思ったら、俺は死ぬ、俺は死ぬんだって。根拠はネットの変な記事だよ。なんでIT企業に居た人間がそんなのに引っかかるんだよ、本当にバカみたいだ」


 とめどなく。


「そんなオヤジがいて、僕がいるんだ、畜生。僕はあの男がこわいんだ、ずっと。まだ働いてた時のあの男の怒鳴り声も、励ましもぜんぶおぼえてる。学校をここにしたのも、オヤジが公立は掃きだめだなんて言うからで。大学だってオヤジの希望するところに行こうとしてる。僕はまじめに生きなきゃいけないんだ。そうしてその先で、オヤジと同じように……ああああああ、あんな、あんな男に僕の人生はずっと、きっとこの先も…………」


 頭をかきむしって後ろを振り返っても、彼は変わらずそこにいる。

 そこにいて、異論をさしはさむこともなく、僕の話を聞いている。


「君にわかるはずもないだろ。そんな僕が、君なんかと一緒にいていいはずがないんだ。僕は君に狂わされっぱなしだ、これ以上僕の前に来るな、二度とごめんだ、二度と、みじめになりたくない……これ以上、よごれたくない、だから、消えろ、消えろ、消えろよ……」


 ――彼をそこで振り切って、二度と会わないようになってしまえば、苦しまずに済んだのに。


 なのに、彼はそこで。

 足を踏み出して。

 気付けば、僕の後ろ側で、僕と同じように、雨と泥に、まみれていた。


「ひゃああ、とんでもない豪雨だな。風邪ひいちゃうぞ、これ。くひひ」


 彼は事実、雨に打たれていた。

 僕と同じように。

 薄い白のシャツの真下に、彼の地肌の色がすこし見えた。

 その中で彼は、べったりと貼りついた髪と一緒に笑っていた。

 先ほどまで僕があれほど懸命に訴えていた『深刻な話』など、はじめからなかったとでもいうように。


「……っ」


 傘は玄関に置いていた。彼はその身ひとつで、僕の内側にやってきた。

 もう、たまらなかった。


 ――僕は彼を振り切るために、ゆうだちの中を駆けだした。

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