第7話

 だから僕は、放課後――そのまま帰宅することはなかった。

 教室に残っていた。

 むろん、残る理由をクラス委員に告げるのが面倒だったので、一回出てから、忘れ物を取りに来たというていで、誰も居ないその場所に戻ってきたのだ。


 席に座る。

 風がカーテンをそよがせながら入ってくる。

 運動場から部活動の連中のこえがする。

 それ以外は、時計の音が響いている。


 ……それなりの時間がたった。

 僕は帰ろうとした。


 帰ろうとした、というその時に、彼が来た。

 たぶんどこかで、わかっていたのだろう。


「なんで、ここだって」

「魔法使えんの。おれ」


 那由多は、薄くはいりこんできた夕方の色をしている。

 そして、そのふざけた言葉を、どこか、そうでないと受け取ってしまう僕がいる。

 この空間が現実から隔絶されて、二人だけのものになってしまう感覚。

 今この時だけは、そう思えてしまう。

 僕は、一歩進む。


「なんでだ」

「だから、おれ、」

「そういうことじゃ、ない。なんで、僕なんだ」


 核心に至る問いかけであることは承知していたが、もはや止められもしなかった。

 すると彼は、本当にはじめて――そんな顔を。

 少し、虚を突かれたような顔をしてみせて。

 それから、これもまたはじめてのことで。

 ちょっと、考えるように間を取って、顎に指をあてて、首をかしげてから、言った。


「おまえはひとりだろ。おれもひとりだから――仲良くなれるかなって」


 それはきっと何気ない一言に違いなかった。


「……あ、」


 だけどその瞬間、僕は理解する。彼は本気でそう言っている。

 なぜならそのとき、僕らの周囲から音が消えて、夕闇が、彼の背中に覆いかぶさるように襲っていたからだ。

 まぎれもなくその瞬間、僕には彼が孤独でちっぽけな存在に見えた。

 見えてしまったのだ。

 そこには、何か説明のしようのない、彼の本質のようなものが見えた気がした。

 このような場所でしか、彼は実体を得られないのだ。

 日中の明るい光のなかでは、彼は溶け切ってしまう。

 今ここで、世界が存在に厳しくなる時間になってからでしか、彼は彼であることを周囲に証明できないのだとしたら。

 僕が、ずっとそれに気付いていなかっただけのことなのだ。


 なにかがうごく。

 僕は、彼に歩み寄ることが、もしかしたら。できるのかもしれない。

 その先でどうなる。彼に歩み寄って、それでどうなる。考えることはいくらでも出来たかもしれない。

 だが、それは無駄なことだと思えた。

 僕はうまれてはじめて、衝動だけで、動いてみようとさえ、思えた――。


「みずしろ、……」


 その時。

 教室の後ろ側のドアが開いた。

 打ち水があびせられた。


 あらわれたのは、女子生徒だった。確か同じクラスだったような。

 息が上がっていて呆然としている、手をドアにかけたまま。そして、ああ、反対の手には、かわいらしいデザインの手紙だ。

その視線は一度僕に向けられて、次は、那由多に。

 ……那由多に。その口が開いて、呪いの言葉を吐こうとしているのが分かった。

 こうして永遠がきえさった。


「……」


 僕は那由多を見た。

 ……途端に彼は、いつもの、教室で見る彼に、すっかり戻っていた。本当に別人のようなのだ。


「ははは、悪い、おれ、」

「……」


 その時、メールの着信音が響いたのはありがたかった。

 この、くそくだらない、陳腐な場所を抜け出す口実ができたからだ。

 要件が、父の具合が悪い、というようなものであってもだ。


 僕は、なるべく彼を見ないようにして、可及的速やかにその場を離れる。

 彼は追いかけてこない。

 なぜならその女子生徒がいて、彼に何かを伝えようとしていたからだ。

 邪魔なのは僕なのだ、彼女にとっても、『今の』彼にとっても。

 感謝するがいいさ。


 ……そうして、玄関まで出てきたとき。

 雨が降り始めていた。

 校庭に矢のように降り注ぐ冷たい水が、運動部の連中に悲鳴をあげさせて、撤退させている。

 視界が、その縦線に覆われていく。


 僕は傘を持っていなかった。

 口元から笑みがこぼれる。

 おあつらえ向きだ。まさにぴったりだ。

 一歩踏み出そうとした。

 濡れるなら濡れ切ってしまえ。

 乾いているところとそうでないところの境目が分からないようになれば、不快感もすぐになくなる、それで風邪を引いて、呼吸器に疾患ができて、そのまま死んでしまえれば一番いい。

 笑い出しそうになりながら、僕は――……。


「サコタっ」


 後ろから、声。

 振り返らなくたってわかるのに、僕は振り返る。


 那由多。

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