第6話

 起床する。

 顔を洗って食卓について食事をする。

 そこにはほかに誰が居たのだろう。

 準備をしていると寝室から呻き声が聞こえた。

 聞かなかったことにする。家を出る。


 電車。他の多くの生徒たち。

 イヤホンを突っ込んで音楽をながす。眠い。歌詞が頭に入らない。

 登校する。


 始業前の時間は、学業から逃げるため、そうするのが最大限の抵抗と言わんばかりに、皆楽しそうに話している。

 僕は面倒だからそんなことはしない。ただ座って、朝の準備をする。

 いつもならそこで、突っ伏してわずかでも眠ってしまうが、その日は、その日以降はちがった。


 僕は無意識に、水城那由多の姿をさがしている。

 僕は席を立ちあがり、あたりを見渡す。


 そのとき僕は、彼の姿がそこにはなく、また、あの日のように―ーどこか現実離れした光の空間、階段の踊り場などにあることを期待した。

 そうすれば、彼に一喜一憂する必要もない。

 もしくは――彼がいないことを期待した。

 そうすれば、もう余計なことを考える必要もない。


 しかし彼は居る。

 また、後ろから羽交い絞めにされて首を絞められている生徒がいる。

 その周囲で笑っている者たちがいる。

 そのなかに、那由多がいる。一緒になっている。

 一緒になって、世界の中に溶け込んで、いた。


 ……そのまま、彼に心底失望していればよかったのに。

 そこで僕は。

 一瞬、彼とまた、目が合った。

 ように思った。


 僕は気のせいであると信じるため、休憩時間になると、トイレに行った。


 そこには誰も居ない。日中、わざわざ電灯をつけるなんて殊勝さが男子トイレにあるはずもない。

 とりあえずで用を足して、出ようとした。


 足音。影が差し込んで。

 顔を上げると――そこに、那由多がいる。

 後ろで腕を組んで、目を細めて、歯を見せて笑いかけてくる。


「みいつけたぁ」

「……っ」


 僕は、彼からにげた。

 いやな予感が的中した。

 ――もう、彼から隠れる場所がない。



 それから夕方まで、僕は彼と目を合わさなかったし、彼もまた、こちらにアプローチを仕掛けてはこなかった。

 ……僕はどこか、満たされないものを感じていた。

 その事実に腹が立った。

 腹が立ったまま、その感情を放り出してしまうのは、まるで逃げであるかのように思えたから、僕はそのままの状態で帰ることを決めた。


 また、同じようなルートで、同じような歩き方で帰って。

 音のしない家のなかを歩いて、二階にあがって。

 父といっしょに、散歩にでた。


 夕暮れのなか、父と横並びになった。

 父は僕より少し背が高いから、背中が見えた。

 むかし、もっと大きくみえた背中。


「ねえ」

「どうした」

「……なんでもない」


 僕は父に、何かをたずねたかったのだろうか。

 夕闇が僕らをさらったので、家に帰った。



 僕が学校に行くと、やっぱりそこに那由多がいて。

 だけど、それは僕と会っていないときの那由多だ。

 死のにおいがしないときの那由多だ。

 女子生徒に囲まれていたり、男子生徒たちと笑い合っていたりする水城那由多だ。


 ――僕は、何を考えているんだ。


 また振り出しに戻るのか。

 そしてまた、同じ問いかけを心のなかで繰り返すのか。

 非効率きわまりない。


「……よし」


 ……今日こそ僕は、彼に会わないようにする。



「ばぁ」


 だけど、彼は居た。

 僕の目の前に、廊下のただなかで現れた。

 とっさに僕は、彼の『ふだんの』取り巻きたちが、僕などという得体のしれない存在にかまけている那由多を連れ去ってしまうことを期待した。

 だけど、誰も僕らの邂逅を気にせずに通り過ぎていく。


「くひひ」

「……ッ!」


 僕は彼の横を通り過ぎて、逃げることにした。

 いまはただ、物理的に。


 ――遠くのそらに、入道雲が浮かんでいて、ときどき旅客機が白い尾をたなびかせてとんでいく。

 昼のまどろみ、建造途中のビルの真上にあるクレーンが分針かわりになって動く。

 規則正しく仕切られた窓枠のある校舎という巨大な灰色の四角のなかで、僕たちは追跡劇を行った。


「なんで、逃げるんだよ」

「君が、目に入ってくるからだ」

「わけ、わかんねっ」


 そしてとうとう、角を曲がった先で、後ろを振り向いても、彼が見えなくなった。

 ……僕は、彼に勝ったのだ。

 息を切らして、膝に手を突きながら、ちいさな優越感をいだいて――……。


「じゃあさ、もっと目に入ってやるよ」


 那由多。

 目の前にいた。

 どうやって先回りしたのだろう。

 一瞬、考えようとしたが、すぐにあきらめた。


 こいつは、水城那由多だ。

 きっと、なんだって、できてしまう。

 僕にはもはや、そう思えてしまう。彼のことを。


 また、チャイムが鳴る。


「おい水城、何やってんだ」


 彼の『友人』がこちらを見つけた。

 僕などは目に入っていなかった。

 那由多はステップを踏むように彼のところに行って、一足先に教室に戻る。


 数秒間取り残されることになった僕に、彼は後ろを振り向いて、少し手をひらひらと振って、小さく「またな」と口を動かした。

 勝手なやつだ。本当に身勝手で、むちゃくちゃだ。


 彼がまた、というのだから、本当にまた会うのだろう。

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