第4話

 就業のチャイムが鳴る。

 すこしすずしい風が入ってきて、みんな席を立つ。

 いたるところでカバンの留め具の音が聞こえる。

 そのまま部活に向かう者、しばらく談笑している者。

 僕はいずれでもなかった。


 足早に教室をあとにする。

 駅に向かう。

 改札を通る。

 乗り込む。

 席は埋まっていたので立っている、つりかわをもつ。


 イヤホンを耳にねじ込む。

 同じ学年の、知らない連中の声が遠くに聞こえる、鼻先に窓がある。まぶしい。

 かわり映えのしない田園と住宅地の交差が通り過ぎていく。


 駅を降りる。

 改札を通る。

 大通りを横切ってニュータウンに入って、斜めにおりていく通学路を通って、途中数人の地元の人間とすれ違って。

 鍵を使って、玄関を開けた。


「おかえり」


 声がした。母のものだ。今日はもう、仕事が終わっていたらしい。

 僕はただいま、と返す。

 夕食の準備のにおいがしているが、母の姿は見えない。

 そのまま西陽のさす二階にあがって、手を洗う。

 自室に荷物を放り込んで、着替える。

 ……薄暗い部屋のなかで、じっと立っていると、また、声だけが聞こえた。


「おとうさん、今日は出てないの。悪いけど……頼むわね」

「……」


 瞬間。

 こぶしを、ぎゅっと、握っていた。

 が、すぐに弛緩させて。

 さんざん悩みぬいたあと、小さく、「うん」とだけ言って、自室を出た。

 そのまま、両親の寝室のふすまをあけた。


 薄暗い和室に布団が敷いてあって、そこに、小さな盛り上がりがある。

 僕はそっと入って、声をかける。


「父さん。ただいま」


 ――そのまま、返事がないことを、一瞬考えてみる。だが。


「うん」


 その短い返事。

 まるで幼子のような。

 六十を前にした男が、そのような声を出す。僕は眉をひそめる。

 盛り上がりはおきあがって、かけぶとんがはがれおちる。


 僕は顔を俯けて見ないようにする。

 ねずみ色のパジャマとひどいねぐせが、一日の大半の時間、彼にへばりついている。

 そんなさまを、誰が見たいものか。


「散歩、行こう。ずっとこもってたら、悪いよ」


 つとめてやさしく言った。

 彼は目をこすって、また「うん」と言った。


 全力で拒絶して、布団の上で転げまわる男の姿をまた想像した。それはやはり不快なものだったが、そうはならなかった。

 あるいは、どうせなら、そうなってほしかったのか。


 部屋を出て玄関に。彼が準備をしている音が聞こえる。

 十分後、彼は上下ジャージ姿ででてきた。

 ぶしょうひげに、少し傾いた指紋だらけの眼鏡。

 こちらを見ているのか見ていないのかわからない表情。

 むかし、よくこの男と似ていると言われたが、そのありさまでは、無理があるだろう。


「行こうか」

「うん」

「……」


 玄関を開けると、台所から「行ってらっしゃい」と、亡霊のような声が聞こえた。


 僕は父と歩いている。

 夕暮れの住宅地を、まんなかにある公園まで。

 ときおり車が通り、子供たちが走り抜けていく以外は静かなものだ。

 ざわめきや騒音はすべて、街の向こう側から。

 いまは、長い影法師が二つ、僕たちのすぐそばにあるだけ。


 歩く。追い抜かないようにしながら、並んで歩く。

 沈黙。何もしゃべらない。

 ……何度か、何かを言おうと思ったが、それをするほうがこわかった。


 そう。

 僕はまだ、父が怖い。

 でもそれは、もはや別種の怖さだ。


 父は、あの日以降、べつのいきものになった。


「ちょっと、まってくれ」

「何」

「もうちょっと、ゆっくり」


 ……そう言ってついてくる男を見て、僕は腹の奥から、何かがこみ上げてくるのを感じる。

 黒い茫洋とした姿が、僕を親のようにして、ついてくる。

 親は、あんただというのに。


 公園には誰も居なかった。

 砂場にはいくつかの遊んだ形跡があった。

 僕が先導するかたちで、特に理由もなく、ベンチにすわった。

 ブランコに行くということも考えたが、それを『義務』と考えられてしまっては面倒だ。

 だから僕らは、ただ、座ることにした。

 横並びで。


 遠くの街の声を聞いている。長い影が伸びている。

 初夏といえど、橙色に藍色が混じり始める時間帯となれば、少し寒い。


「さむいね、ちょっと」

「うん」

「ちょっとしたら、帰ろうか」

「うん」


 僕たちは黙っている。

 そのままでも、よかったが。

 口を開いたのは、隣の男だった。


「最近」

「えっ」

「さいきん、どうだ。学校とか」


「普通だよ、別に。特に問題はない」


 ぴしゃりと。言ってしまった。

 さえぎるように。傷ついてやしないか。気になって顔色をうかがった。


 ……何もなかった。

 安堵するが、不安だったので。


「聞いてくれて、ありがとう」


 付け焼刃の、ことば。

 彼は小さくうなずいたぐらいで、何も言わなかった。


 ……そろそろ、帰ろうか。

 帰ってしまおう。

 ひとりに、なりたい――。


「おまえ」


 また、声。


「おまえ、なにか。考えてるか」


 何を。

 言われたのだろう。分からない。

 だがそれは棘のようになって、にわかに食い込んできた。


「何って――」

「将来、だ。お前。進路とか。母さんに、考えて……はなしてるか」


 それははっきりと、父の声だった。

 まぎれもなく、意思を持った声だった。


 僕は全身が総毛だつ。

 父の声、そう、父の声だ。

 僕に山の上から降り注ぎ、全身を硬直させ貫いて、託宣のように命令を下す、あの声だ。

 隣の男が、急激に実存をともなってくる。

 呼吸が荒くなる。

 何を言うべきか、何を返すべきかが、高速で渦を巻き始める。


「あ、ええっと――」


 ……けれども。助け舟は、向こうからきた。


「まあ。お前のことだから、大丈夫だとは思うけど。してるなら、いい。忘れてくれ」


 そんなことを言った。

 父としての言葉を聞くと、僕は磔になる。それを本人も知っている、あるいは自分が『こうなって』から、ようやく自覚したのか。そういうことを努めて言うようになったのだ。

 それ以上、何も言うつもりはないらしかった。


 途端に。

 僕のなかに、反感が芽生えてくる。

 それは先ほどまでの反動だ。


 ――あんた、そんなこと息子に言えるような立場かよ。

 ――今の自分を見てみろよ。

 ――僕がこのままいけば。あんたになるんだぞ。

 ――ぜったいにごめんだ。僕は。


 ――僕は。あんたにだけは、なりたくない。


 僕は立ち上がる。


「帰ろうか」

「うん」


 もう彼を見ない。

 なるべく足早に公園をあとにする。

 後ろをついてくる男が何か小声で言っても聞こえないように、耳をほじるふりをして、穴をふさいだ。


 食卓に着いた時点で、僕は決意を固めている。

 おごそかな決意を。

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