第3話

 ある時の昼休み。


 僕は、強く日の当たる階段の踊り場に座って詩集をよんでいた。

 足元の段をくだった先では、同級生たちが楽しそうに話しながら通り過ぎている。

 でも、ここは静かなものだ。

 ここから上は屋上だから、この階段には誰も用がない。ほこりがたまって、時折ふわりと舞い上がる。それらはあたたかく白い光に反射する。


 ひどくあつい。そのなかにいる。包まれている。

 だが、ここがいいのだ。

 背中からまた、じわじわと汗が噴き出てくる。ここは僕の世界だ。


 遠くで重なっていく声をメトロノームがわりにして、図書館で借りた、日焼けしたページをめくる。


 意味など分からなくとも、ことばだけが宙に浮いて、染み込んでくる感じがする。     自分の読解力について内省しなくてもいいから、詩集は好きだ。

 この古い紙のなかに自らを溶け込ませていって、いつか時間までも融解していって、チャイムが鳴るまではしばし、とろけた孤独のなかで、ゆっくりと……。


「へえ。なに、読んでんの」


 上から声が聞こえて顔を上げた。

 そこに那由多が居た。

 僕の視界から詩集が消えて、彼だけになった。


 真上の階段から覗き込んでくる彼が影を落としこんでいて、しかしその中でも、彼のグレーの髪は変わらぬ色で、そこだけがむしろ浮いているようで。


「え、あ、」


 声にならない声。

 咄嗟に本を閉じる、文字がそれ以上流れ出ないように。

 そこからもう、階段を転げ落ちてやろうかとさえ考えていたら、影が移動した。

 上からこちら側に。


 するりと。まるで、はじめから段差などなかったかのように。

 彼は、あっさりと。僕のすぐよこまでおりてきた。


「へえ。なに、なに。と、う、ほう、ししゅう。げえ、て。よくわかんないなっ」


 何か言うことばをさがしていると。

 彼の顔が間近にあった。

 コンマ数秒後のはなしで。硬直する。目の前。

 毛穴のひとつひとつまではっきりとみえる。ながいまつげも。


 彼は、制汗剤のかおりにまじって、ほんのすこしだけ、小麦のにおいがした。


「わかんないけど。おまえ、おもしろいよな」


 そのとき、チャイムが鳴って。


「ほかのやつらと、ちがって」


 彼はそう言った。

 同時に、彼は階段をおりていた。


 僕はひだまりに置き去りにされて、彼の背中が遠ざかっていく。

 冷たい世界にきえていく。

 小麦のにおいは、ほんの一瞬の話で。

 彼はもう僕を見ていない。


 すでに、廊下にいるクラスメイトに声をかけられて、教室に向かっている。

 僕に、「遅れるぞ」とか言ったりは、しない。

 だからそれは、いっときの幻と解釈できたかもしれない。


 彼がそこにあらわれたのは、ものすごく奇妙な気がした。

 僕が詩集を読み始めて、チャイムが鳴って教室に戻るという一連の流れは、彼がいなくても成立するからだ。


 なのに、彼はそこにいたのだ。

 何の痕跡ものこさず、その事実だけがあって。

 明日から彼がこなくともおかしくないと思えるぐらい、あっさりと僕の視界から消えた。


「……」


 わからなかった。

 彼は謎だ。謎そのものだ。


 しかし、だからこそ、わかったことがある。

 それはあまりにも唐突に、僕にふりかかった、命題。


 彼は。

 水城那由多からは。


 死のにおいがした。

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