第2話
僕が軽蔑すべき存在は、僕によって簡単に定義づけられるようになった。
それは、僕による世界の定義づけからはみ出るような存在だということだ。
世界とは、絶えず崩壊していく宇宙の過程を切り取って、目の前に突き出されたものだ。
ゆえにそれは理不尽で、誰も抗うことのできない多種多様な運命が内包されている。
だからそのなかで、どれだけ積極的な営為をみせたところで徒労に終わるし、むしろ、その事実を直視することなく、終わることのない祭りに興じるような連中を、僕は軽視する。
なぜ、そんなふうに思うようになったのかはここでは語らない。
いまは重要ではない。
とにかく僕にとって世界とは、つまり、『僕にとっての世界』とは、苦しみと悲しみに満ちている、灰色の世界であって。
いつも何か焦りのようなものを感じながらも、刹那的な悦び――他者を侵害するもの――に魅入られることもなく、生き抜いていかねばならないひとつのばしょなのだから。
だから僕は、僕を侵略してくるような連中から自分を護らなきゃいけないし、ぎゃくに、僕が誰かを侵略するようなリスクも、極限まで避けていかねばならないと思うようになっていた。
そのどちらかが、そしてどちらもができなければ、もはや生きていてもしかたがない。
だから僕は自然と、あくまでも『生きていくために』、埋没、という方法を選ぶようになった。
意識的に、というよりは、自然と。
生存戦略のためにその方式を採用したに過ぎない僕は、毎日を傍観者として過ごすようになった。
世界の周縁に立つこと。決して自分からは立ち入らないこと。誰にも関心を持たないし、持ってもらおうとも思わない。
もう一度言おう。
僕の軽蔑すべき存在は、そんな僕のスタンスからはみ出すような存在だ。
それは簡単にみつけられる。教室のいたるところに存在している。
――女子生徒の身体的特徴について、ひそひそと話し合う連中。
――一見してひ弱に見える、読書が趣味の生徒を、後ろから羽交い絞めにして、ぐえっと呻くのを楽しんでいる連中。
――そんな彼らを見て見ぬふりをするのが処世術である、教師。
まるでそうすることが、世界の崩壊を、滅びを防ぐことに繋がるとでも言いたげな。夜が明けることが分かっているのに、祭りに興じているような、空虚な。
――水城那由多も、僕が最初に出会った時からあの日までは、そんな連中のなかにいたのだ。
日本人の英語教師が、単語の発音を間違えるたび、電子辞書で正しい発音を鳴らしてみせる生徒。くすくす笑い。教師は気付かない。
那由多も一緒になってわらっている。
クラスで一番にヤりたいやつはだれか。あいつ、あの先輩と付き合ってるらしいぜ、それでこの間カラオケで、ああ、その話のさなかにも那由多はいる。
通りがかったファストフード店のなかで、髪を染めた男たちと女たちが、テーブルにゴミをまき散らしながらさわいでいる。そのなかにも、那由多がいる。
せかいのあかるいところに、那由多はいる。そこに僕はいない。
だから僕も、那由多を侮蔑すべきだったのだ。
はやく、那由多を自分の世界から追い出すべきだったのだ。
なのに――気付けば、それができなくなっていた。
ぼくのあたまのなかは不快なノイズでいっぱいになり、それらぜんぶが、那由多のあの髪、かけた奥歯、骨っぽい二の腕、制汗剤のにおいにとってかわるようになっていた。
よく眠れなくなっていった。
身体の内側に不快なぬるぬるした触手が入り込んで、それが不思議な麻痺の効果のある粘液を流し込んでくるような、そんな感覚だった――。
……疲れた。
日々、那由多の姿を追っているから。
夕方近い、おわりの授業。僕は窓際でまどろんでいる。
布団のなかより、かえって心地いい眠りがやってくるかもしれない。橙色の光に机が照らされて、全部がとけこんでいく。
思考が麻痺してくると、冷静さが訪れて、警句が浮かぶ。
それで、ねつがさめてくる。
ひとを、すきになってはいけない。
いままで、それをしようとして、しそうになって、して、なにがあった。
どんなくろうをしてきた?
記憶をさかのぼる。
期待と、その先の失望。
ああ、そうだった、あぶないあぶない。
ねむい、ねてしまおう。
……どうせ、帰ったら、父の世話をしなきゃいけないんだ。
――その時。
前の方の席に座って、担任の寵愛を受けている真っ最中の銀髪の少年が。
那由多が、こちらに目を合わせた。
顔を上げたときに、偶然そうなったのか。
わからない。
しかし彼は、こちらを向いて、目を離さずに。
声を出さずに、僕に言った。ように思えた。
――”ね、る、な、よ”。
その一瞬だけまわりから音がすべて消えて、しかしそれが終わればすぐに元通りになって。
その時にはもう、彼は前を向いていて。
僕は、再び眠れなくなっていた。
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