第5話 ひょうたん池で

 シートを片付け、マスクを付けた康史郎こうしろうたちは、言問橋ことといばしの方向に向かって歩き、水戸藩しも屋敷の庭園跡である「ひょうたん池」のほとりにやって来た。池の周りは日本庭園になっており、築山のようになっている場所もある。

「ここもずっと周りの工事をしたり、かいぼりをして整備してたんですよ」

 梨里子りりこが康史郎に説明する。

「滝も復活してましたし、本当にきれいになりましたね」

 椿つばきが池を見ながらうなずく。

横澤よこざわさん、どうしてここに来たかったんですか」

 周央すおうの問いかけに、康史郎は池のほとりに揺れる柳の若枝を見ながら話し出した。

柳子りゅうこが亡くなる前、最後の花見に来たときのことだ」


「柳子はガンの治療で入院が決まってた。この柳の枝を触りながら、『「柳緑花紅りゅうりょくかこう」の絵を思い出すわね』と言ってたな」

「『柳はみどり、花はくれない』。征一せいいちおじいさんの絵ね」

 梨里子の言うとおり、康史郎の回想ノートの由来となった『柳緑花紅』は横澤夫妻の再出発を祝って征一が贈った絵のタイトルだ。描かれた親子の姿には、孫の広希ひろきへの思いが込められている、と康史郎は以前梨里子に語っていた。

「すると、突然サッカーボールが池に転がり込んできてな。そこへ3歳くらいの男の子がボールを追いかけてきて、勢い余って転んでしまったんだ」

 康史郎は手に持った杖を握り、池の水面を差した。

「柳子があわてて持ってた杖を放り出して男の子に駆け寄ったんで、わしは柳子の杖を使って池に浮かんだボールを引き寄せようとした。その時、ボールに『とりい しょう』と名前が書いてあるのが見えたんだ」

「つまり、ひ孫さんですか」

 周央が驚いたように康史郎を見た。


「柳子が翔を助け起こしていると、広希と奥さんが追いかけてやってきた。真優美まゆみさんが実家に戻った時、両親からは『もう会わないでほしい」と言われていたけど、毎年真優美さんから届く年賀状の写真で見ていたからすぐ分かったよ。ま、向こうはわしらに気づいたかは分からんがな」

 康史郎は寂しげに言うと、自分の携帯電話を取りだした。

「ボールを引き上げて渡すと、広希は『ありがとう』と言って受け取った。わしはとっさにこれを差し出して、広希にわしと柳子の写真を撮ってほしいと頼んだんだ。広希は一瞬戸惑ったように見えたが、『いいですよ』と言ってくれた。その時撮ったのがこの写真だ」

 康史郎は携帯電話を開くと、柳の木の下で立つ康史郎と柳子の写真を見せた。

「いい写真ですね」

 横からのぞき込んだ梨里子の声に、康史郎は指で目頭を拭うと話し続けた。

「そのまま広希たちとは別れてそれっきりだ。きっと向こうも覚えてないだろう。広希はもう鳥居とりい家の人間だし、迷惑はかけたくない。けど、もしわしが亡くなった後に広希が来たら、この写真の話をしてほしい。わしも柳子も、君たちの幸せを願っているとな」

 康史郎の言葉に周央はうなずいた。

「それは私たちも一緒ですよ、横澤さん」

「そうだわ、折角だから横澤さんの写真をここで撮ってから桜の所に行きましょう」

 梨里子は自分のスマートフォンを取り出すと、椿と周央に呼びかけた。

「お父さんとお母さんも次に撮りますからね」


「横澤さん、マスクは外して、柳の木のそばに立って下さい」

 梨里子の呼びかけに応え、康史郎はマスクを外すと柳の木のそばに立つ。その時、若い男女がひょうたん池に近づいてきた。撮影している梨里子たちに遠慮するように、男性が少し離れたところから柳の木を指さすと言った。

みどり、たぶんここだよ。僕が転んでボールを池に落とした場所」

しょうが3歳の時なのによく覚えてるね」

 女性が男性に話しかけているが、撮影している梨里子の耳には入らない。一方、康史郎はシャッター音が鳴るやいなや、マスクを付けながら小走りに二人に近づいた。

「君たち、さっき『恋人の聖地』にいたな。頼みがあるんだ。わしらの写真を撮ってくれないか」


 康史郎の頼みを聞き入れた翔と翠は、梨里子のスマートフォンを借り、桜の木が植わっている近くの遊歩道で四人を撮ることにした。

「終わったらあたしたちの写真も撮ってくれますか」

 翠が梨里子に自分のスマートフォンを見せながら言う。梨里子は「はい」と答えると康史郎を見た。康史郎は足下に落ちていた何かを拾い、コートのポケットに入れている。

「皆さん、マスクを外して、木の下に並んでください」

 翔の呼びかけで四人はマスクを外すと、周央、椿、康史郎、梨里子の順で木の下に並んだ。

「はい、チーズ」

 撮影した後、梨里子は翠のスマートフォンを受け取ると康史郎に呼びかけた。

「横澤さん、シャッターボタンをお願いします」

 梨里子がピントを合わせたスマートフォンのシャッターボタンを、康史郎が緊張した面持ちで押す。一仕事終えると、康史郎は安堵した表情で二人に呼びかけた。

「二人とも、お幸せにな」

「ありがとうございます」

 翔が頭を下げ、翠が手を振った。


 立ち去る二人を見送った後、梨里子は康史郎に呼びかけた。

「さっき何を拾ってたんですか」

 康史郎がポケットから取り出したのは、まだつぼみが付いている桜の花房だった。蜜をついばんだ鳥が落としたのだろうか。

「柳子と一希かずきへの土産にと思ってな」

 康史郎はそう言うと花房をポケットに戻して呼びかけた。

「今日はいい日だった。そろそろ駅へ戻ろうか」

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