第一章 その婚約に物申す!

 サフィール宮殿。広い敷地の中に、贅を尽くした造りで、白い壁に、光の加減で様々な色に反射する青い屋根が特徴だ。

 俺自身、この宮殿に初めて入るわけではないが、俺の身分ではそうそう入る機会はない。最初は、俺が5歳のときだった。あれは、皇帝の新年のあいさつで貴族たちが集められたときに俺が父に随行した。

 謁見の間の端の端の方に立たされていた記憶がおぼろげながらある。皇帝一家を遠くから眺めて、こういう人達なんだと幼心に思った気がする。あの時、ルーは皇后陛下の後ろに隠れていて、皇帝陛下のあいさつが終わるころに皇帝、皇后両陛下から前に出るように背中を押されていたのを今思い出した。

 二度目は、論文大会の授賞式の時だから5年前になる。俺が書いた論文が優秀賞を取ったということで、皇帝陛下自らメダルを授与されたのを覚えている。皇帝陛下から少し離れたところから、ルーが小さく手を振っていた。

 そして、今回が三度目だ。まさかこんな用事で宮殿に入るとは昨日の夕方まで想定していなかった。

「お帰りなさいませ。マリー=ルイーズ皇太女殿下」

「出迎えご苦労様です」

 馬車から降りた俺たちを出迎えたのは、ギラルディエール公爵家の嫡男ファビアンだった。ギラルディエール公爵家は、代々、帝国の大臣クラスを任されている大貴族の筆頭だ。ファビアン公子は、年の頃なら俺たちと同じくらい。艶やかな銀髪に緑の目、端正な顔立ち、背も高く、さぞかし女性にモテることだろう。錯覚だと思うが、ファビアン公子の周囲がキラキラしているようにも見える。

「そこの下男、マリー=ルイーズ皇太女殿下から離れろ。」

 ファビアン公子は、虫けらでも見たかのように冷酷な顔をした。

 下男…。多分俺のことだろう。いや、いいんだ。あながち間違いでもない。

 キラキラ公子様の言に従って、俺はルーから手を離そうとした。だが、すぐにものすごい力で引き戻された。ルー、剣術で鍛えた握力をここで発揮しないでほしい。

「ファビアン、私の婚約者に失礼なことを言わないでください。今すぐ、この場で謝りなさい」

 俺の腕をつかんだまま、ルーは怒りをあらわにした。俺のために怒ってくれるのはありがたいが、ルーにつかまれた腕が痛い。

「なにっ、この見るからに冴えない男が皇太女殿下の婚約者候補だと⁈皇太女殿下をたぶらかすほどの男とはどんなものかと思いきや、こんなちんけな男とは。笑わせてくれる」

 馬車を降りる前に魔法を掛けなおしていつもの内気なロラン君の姿になっているから、キラキラ公子様にそんな感想を言われても仕方がないし、悔しいとも全く思わない。

「一度ならずも二度までも!ファビアン、私はあなたを許しませんよ」

 ルーのほほは紅潮し、言葉の一つ一つに怒気がこもる。

「皇太女殿下、どうか今一度お考え直しください!この者は、貴族の最底辺の男爵家三男。しかもただの男爵家ではなく不義男爵家の者ですよ。平民と何代にもわたって交わり、ここ数代前からは金で買った爵位を振りかざす偽物貴族と血縁関係を結ぶろくでもない一族です。こんな男が皇太女殿下を幸せにできようはずがありません」

「ロランへの侮蔑は、私への侮蔑とみなします。侮辱罪で牢に閉じ込めますよ」

「いいえ、皇太女殿下。これは殿下への忠義から、あえてお諫めしているのです。諫臣を牢獄に閉じ込めるとは、殿下の器量を疑われますよ。どうか、どうかお考え直しください」

 ファビアン公子は、地面に頭を擦り付けんほどの勢いで跪いた。差別意識はともかく、本気でルーを諫めているつもりらしい。

「あなたを牢に閉じ込めるのは撤回します。ですが、私の答えは変わりません」

 ファビアン公子に一瞥もすることなく、ルーは歩きだした。馬車の中であんなにも優しい表情をしていたルーがこんな冷たい表情ができるのかと俺は身震いした。

「ならば」

 ファビアン公子はおもむろに、俺に手袋を投げつけた。

「ファビアン・ラウル・シュヴァリエ・ギラルディエール、貴様に決闘を申し込む。私が勝ったら、貴様は皇太女殿下の婚約の申し出を辞退しろ。そして二度とこの宮殿に入るな」

 ルーの説得に失敗したから、今度は俺か。勘弁してほしい。

「ルー、どうしたらいい」

 助けを求めるべく、ルーの方を向くと

「ロラン、この決闘、受けなさい。わざと負けたら許さないから」

 俺の考えそうなことを先回りして釘を刺しにきた。俺を婚約者に指名したことといい、決闘のことといい、俺に拒否権がないのは気のせいだろうか。



 宮殿のエントランスで決闘するのはふさわしくないということで、一般兵士の訓練場を借用することになった。あまりじろじろ見てはいけないと思いながらも、チラチラをこちらの様子を見る一般兵士たちの微妙な視線が気になる。

「ルールは、簡単だ。この模造剣を首から上に当てるか、相手が降参するかのどちらかで勝利だ。なお、魔法の使用は禁止とする」

 キラキラ公子様は、一般兵士のギャラリーを気にすることなく高らかにルール説明した。

「理解できたか」

 キラキラ公子様が小馬鹿にしたような表情で俺の顔を覗き見た。

「承知しました。決闘と言えば立会人は誰がするのでしょうか」

「そうだな…。おい、誰か立会人をしたい者はいるか」

 キラキラ公子様がキラキラオーラ全開で一般兵士たちに声を掛けると全員蜘蛛の子を散らすように離れていった。皇太女殿下と筆頭貴族の令息がらみの案件なんて、畏れ多くて関わりたくないのだろう。一般兵士たちは完全に訓練場を出ていったかと言えばそうではなく、決闘の行方は気になるらしくこちらの様子がギリギリ見えるところに位置取っているところが少し笑えてくる。

「ふむ、ここには腑抜けしかいないようだな。さて、どうしたものか」

 失礼なことを言いつつ悩まし気に下あごに手を当てたキラキラ公子様、いちいち絵になるところが若干イラっときた。

「ならば、私が立会人を務めます。文句は言わせませんよ」

「皇太女殿下、あの男の肩を持たないように頼みますよ」

「分かっています」

 ルーの顔は、またしても冷たい表情になっていた。

「勝負の前に、貴様が負けたときに言い訳されると面倒だから、お互いの武器を確認しようじゃないか」

 言い方は一々ムカつくが、フェアにこだわる公子様のようだ。あえて反対する理由もないので、お互いが手に取った武器を交換し確認する。

「準備はいいですね。勝負、始め!」

 キラキラ公子様の実力のほどは…と。剣筋は悪くない、スピードと手数の多さで相手のペースを崩すタイプのようだ。きっと良い剣術の師範から指導を受けたのだろう。ただ、悪く言えば、型に忠実で動きが読みやすいため、俺自身、最小限の動きで公子様の剣捌きを流している。

「どうした。あまりにも実力が違いすぎて、防戦しかできないのか。貴様は」

 防戦しかできないのではなくて、公子様の隙ができるのを待っているのと、隙が生じないまでも公子様の体力が落ちるのを待っているだけなのだが。

 俺の剣の実力は、その辺の剣術を習っただけのお貴族様よりも強い。とはいえ、うちの一番上の兄よりは数段落ちるくらいのレベルだ。

 当家の家訓は、『目立たず、堅実に』だが、他にもある。

 家訓その2は『生き残る手段はいくらでも持っておけ』だ。

 当家は残念ながら、いつ爵位没収、領地返上させられるか分かったものではない。だからこそ露頭に迷わないために伸ばせる実力は際限なく伸ばすように幼いころから育てられている。

 また、当家はなぜか変り者が寄り付く性質らしく、代々、実力はあるが宮仕えに向かない性格の変り者が仕官してくる。俺たち兄弟もそんな者たちに揉まれて育った。

 ちなみに当家の兄弟間の剣の実力だが、一番上の兄が兄弟の中では一番強い。次兄は、元々身体が弱いため剣術には向いていない。次兄の場合、もしものことを想定して必要最低限覚えた程度だ。俺には弟が二人いるが、少し年が離れているので実力はこれからというところだが、二人とも筋がいいのでいつか追い越されるかもしれない。

 ランク付けすると

ルー(聖剣装備)>【越えられない壁】>長兄>>俺>>>ファビアン公子>>弟たち>次兄>一般人

 こんなところだろう。つまり、ルーと剣で勝負した場合、俺はルーに余裕で負けるレベルだ。

「少しは反撃したらどうだ。この弱虫が」

 キラキラ公子様がしきりに挑発してくるが、乗った方が負けだ。俺は持久戦が得意なのでお構いなく。こちらは実践向き、乱戦上等の剣技を身に着けてしまったので、正統派まっしぐらのキラキラ公子様に手のうちをさらすと卑怯だと罵られそうで少々面倒くさい。

「貴様のような男がなぜ皇太女殿下をたぶらかせたのか全くもって解せん」

「奇遇ですね。僕もそれが謎なんです。もしよろしければ、一緒に謎解きしませんか」

「……馬鹿にしているのか貴様!!」

 決して馬鹿にしてはいない。本当に謎だからだ。婚約者に指名された理由を聞きにこの宮殿に連れてこられたのに、その理由を聞けずに何故か頭に血が上った公子様相手に決闘をしているのだから、俺としては訳が分からない。

「皇太女殿下の純潔を汚される前に、貴様を追い出さねばならぬ!」

 しかし、まぁ攻撃をしながらペラペラと口が回る公子様だ。頭に血が上ってきた辺りから一撃一撃は重くなってきたが、その分動きが単純になっている。そろそろ、隙を突いて転倒させるか。

「先ほどまで皇太女殿下と貴様は二人きりで馬車に乗っていたな。もしや、すでに皇太女殿下に淫らな行為をしたのではあるまいな」

 思い当たる節がないわけではないが、これ以上公子様を怒らせたくないのでポーカーフェイスを決め込もうと思ったのだが、

 思ったのだが!

 ルーが赤面して身をよじっていたのが見えた。ちょっと、ルー、俺の足をひっぱるようなことをしないでくれるか。仮にも決闘の立会人だろ!

「マ、マリー=ルイーズ皇太女殿下!やはりあの男に何かされたのですね」

 ルーのせいで、キラキラ公子様がさらにヒートアップしてしまった。見て見ぬふりを決め込んでいたはずの兵士たちが何か面白いことが起こりそうだと思ってそろりそろりと集まってきた。

「おい、貴様!皇太女殿下に何をした!洗いざらい吐け」

「くっ!」

 ファビアン公子はこれまでとは段違いに速く、力強い剣撃を繰り出してきた。防ぎきれないとは言わないが、一太刀、一太刀が重く、受ける度に腕にじわじわとダメージが加わる。

「この嘘つき野郎が!地獄に落としてやる」

 ファビアン公子は連撃を俺に浴びせまくった後、俺から少し離れて勝負を決めようと力を溜め始めた。そして、俺に向かって一気に駆け出してくる!

「待ちなさい!ファビアン、地獄に落ちるべきは私です」

 遠くまで響く、ルーの透き通った声だった。

「皇太女殿下は、この男に騙されているのです。殿下は悪くありません」

「私は嫌がるロランを押さえつけて無理矢理口づけをしました!悪いのは私です」

 最後の方は叫びに近いルーの自白だった。



 時が止まる経験をしたことがあるだろうか。俺は今まさにその経験をしたような気がする。訓練場には、ルー、ファビアン公子、一般兵士たち約10人と俺がいた。この場にいた人間すべてがルーの自白に耳を疑い、少しも動くことができなかった。まるで時が止まったかような状態だった。

 しかし、このままではルーの信用失墜につながってしまう。俺は遠のきかけた意識を無理矢理戻し、口を開いた。

「えっっっと、ルー、そこまでひどい状況じゃなかったと思うよ。突然のことだったから驚いたけど」

「あ、あの皇太女殿下、大変心苦しいのですが状況をお聞かせ願いたく…」

 ファビアン公子はようやく意識を取り戻したが、目の焦点が合っていない。

 殿下の純潔を守ると息巻いていたはずが、よもやこんなことになっていたとは。ファビアン公子には、受け止めきれないほどの衝撃の事実だろう。

「分かりました。皇太女たるもの、私には説明義務があります。ではファビアン、耳を少々。ロラン、決闘は中止としますので休憩してくださいね」

 これで決闘は中止だな。ふー、やれやれ。キラキラ公子様の剣を何度も受けたせいで、腕がジンジンと痛む。腕が腫れるほどではないので回復魔法を使うまでもないが。

 俺が訓練場の端に座りこんで休憩していると二人の兵士が近づいてきた。片方は、背は低めだがガタイのいい三十代後半くらいの男、もう片方は、少しひょろっとした背の高い三十代前半の男だ。典型的な凸凹コンビという感じだ。

「すごい決闘だったな。兄ちゃん、ロランって言ったか。よくあの公子様の攻撃を受け切ったな。だが、少しは自分から攻撃したらどうなんだい」

 ガタイのいい方が俺に話し掛けると

「いやいや、このお兄さん、本当はもっと強いんじゃないかい。どのくらい強いかはちょっとよく分からなかったが、あえて公子様を泳がせていたんじゃないか」

 俺が答えるよりも前に間髪入れずにひょろっとした方が合いの手を入れる。

「はは。よくお気づきで。最後の方は、公子様があんなに力任せの攻撃をするとは思っていなかったので少々誤算でした。あのまま受け続けていたら少し危なかったかもしれません」

 俺は苦笑いをしながら、あたりさわりのない程度に答えた。

「公子様が兄ちゃんを悪者みたいに言っていたが、どう考えても殿下の方が兄ちゃんより強そうだもんなぁ。俺は戦場で殿下を見かけたが、あれは鬼のような強さ、いや鬼も泣き出すレベルだったぜ。そんな殿下が兄ちゃんに手籠めにされるっていうのは考えにくいよな」

「そりゃあそうだ。殿下がお兄さんみたいなのがタイプだったとは意外だったね。同じ隊に上層部の情報を掴んでいる奴がいてな。そいつの話だと、お兄さんを婚約者にするって話を聞きつけた将軍連中が殿下に思いとどまるように駆け込んできたらしいんだが、武人らしく勝負しましょうって殿下が言って、将軍連中と殿下が試合をしたんだが、殿下の圧勝だったんだとよ」

「そいつはすっげえや。兄ちゃん殿下に愛されてるな」

「愛の力は偉大なり!ってか」

 凸凹コンビは、俺を差し置いて盛り上がり始めた。

 将軍たちは、有事となれば万単位の兵士を指揮するだけでなく、将軍単体でも一騎当千、それ以上の強さを誇るはずなのだが、そんな将軍たちを相手に圧勝するルーの強さは計り知れない。

 それよりも、ルーがそんな無茶までして俺との婚姻をまとめようしているのが増々分からない。

「兄ちゃんさぁ、そこまでして殿下は兄ちゃんを欲しいんだよ。そこで、だ。兄ちゃんは殿下のことをどう思っているか知りたいねぇ。公子様の言う通り、殿下を言葉巧みにだまして誑かしたとか言わないよな。ガッハッハ」

 ガタイのいい方改め、凹の方が俺の背中をバンバン叩く。一発一発が地味に痛い。なぜ、さっき出会った奴に俺の気持ちを話さねばならないのか。お前に話すくらいなら、どんなに恥ずかしくてもルーに話す。

「こういうのは、赤の他人の方が話しやすいかもしれないよ。お兄さんはどう思っているんだい」

 ひょろっとした方改め、凸はどや顔で俺の肩に手を置いた。こいつらを無視するのは簡単だが、さらに絡まれてもたまらん。はぁ~、気は進まないが少し話してやるか。

「マリー=ルイーズ皇太女殿下は、大変すばらしい方です。ですが、男爵家三男の僕にとってはあまりにも遠い存在すぎて。大した後ろ盾もない、何の権力もない、生家の評判も悪い、そんな僕を夫にしても殿下にとって何もメリットがありません。メリットがないばかりかデメリットばかりです。だから、馬車で殿下とご一緒したときに、僕はふさわしくないので辞退したいくらいだと言いかけたのですが…」

「分かった!そこで殿下が兄ちゃんの手足をふん締まって無理矢理チューしたわけだな!こりゃあ、手籠めにされるのは殿下じゃなく、兄ちゃんの方だな。ガッハッハ」

 おい、凹、大筋間違ってはいないが、話全体に品がなさすぎるぞ。ルーがこれまで築いてきたイメージが壊れるからやめて欲しい。

「おいおい、お兄さんが困っているぞ。俺たちと違って貴族の坊ちゃんだから、こういう会話に慣れていないんだ。気をつけろよ」

 凸の方がまだ常識人だったようだ。

「ガッハッハ、悪かったな兄ちゃん!殿下とお幸せにな」

 凹はまたしても俺の背中をバンバン叩いた。背中が赤くなるレベルの強さだな、これ。

「お兄さんと話ができて良かったよ。うちの息子が大きくなったら、『お父さんは女帝陛下の御夫君と若いころに話したことがあるんだぞ。』って自慢してやろうかな」

 ひとしきり話して満足したのか、凸凹コンビはにこやかな顔で去って行った。

 今回の婚姻話について新たな情報を得たのは良かったが、ルーを怒らせたらヤバそうなことも分かった。凸凹コンビの認識では俺がルーの未来の夫に勝手に決定されていたのはどうなんだろう。ルーからの手紙を読む限り、ほぼ決定事項扱いだが、まだ俺は婚約者に指名されただけだ。



「なるほど、大体事情は分かりました。皇太女殿下、あの者と二人だけで話をしたいのですがよろしいですか」

 キラキラ公子様がちらりと俺の方に視線を向けると

「ええ、構いませんが彼を傷つけるようなことは…」

 ルーが警戒心を露わにした。

「許しませんよ、ですか。承知しております。少しお話するだけですのでご安心を」

 ファビアン公子は、ルーとどんな会話をしたのか知らないが、決闘前の険のある雰囲気というか、不義男爵家死すべしとでも言わんばかりの雰囲気は和らいだようだ。

「ロラン殿と言ったか。どうも私は貴殿のことを少々誤解していたようだ」

 ファビアン公子は俺に近づくなり少し申し訳なさそうな顔をした。

「いえ、当家の評判を考えれば私が殿下の婚約者にはふさわしくないと思うのも当然だと思います」

 ファビアン公子はもはや俺に喧嘩を吹っ掛ける風もなさそうなので俺も穏やかに対応した。

「少なくとも、貴殿が皇太女殿下を誑かして婚姻を纏めようとしたわけではなさそうだ」

「……、ご理解いただけてありがとうございます」

「しかし…」

 キラキラ公子様は、俺をじろじろと上から下まで眺め、

「正直言って殿下が惚れこむほどの人物に見えないのだが。少なくとも見た目は冴えない」

 腑に落ちないという顔をして呟いた。

 普通なら失礼なことを言っていると思うが、冴えないを売りにして衝突を避けて生きてきた俺としては上手く騙せていると思えばいいだろうか。

「マリー=ルイーズ皇太女殿下が外見のみで人を評価するわけではないが、それにしても自分が惚れた相手なら見た目の好みが多少なりとも入っていてもおかしくはないのだが」

 なおも、腑に落ちない風にキラキラ公子様は呟く。ルーの相手が俺というのが不満なんだろうな。

「その点については、僕も何と申し上げて良いのか。公子様、マリー=ルイーズ皇太女殿下はどのような外見の男性を好むのでしょうか?もし差支えなければ教えていただけないでしょうか」

 ルーに聞こえないようにこそっとファビアン公子に問いかけた。

 今更聞いても仕様がない気もするが、ルーの好みが若干気になったのと、仮に俺がルーから身を引くことも想定して俺よりもふさわしい相手を勧めるのに情報が欲しくなった。

「ふむ。私もそこまで詳しいわけではないが、皇太女殿下が5歳くらいのときに、初代皇帝様の若かりし頃の肖像画を眺めて『私、こういう人と結婚する!』としきりに…」

 ちょ、ちょ、ちょ、キラキラ公子様、せっかくコッソリ聞いたのにわざとデカい声で答えなくても……。見た目の冴えない俺にショックを与えるつもりなのかもしれないが、全く効果がないぞ、それ。

「ファ、ファビアン!いつの話をしているのですか!ロラン、もう行きますよ」

 話の流れが怪しくなったのを感じ取ったルーが声を荒げ、俺はルーに引きずられるように訓練場を後にした。

 ルーの好みのタイプが初代皇帝…。この話が本当なら、ルーは期せずして好みのタイプを引き当てたことになる。そういえば、俺の本当の姿を見たときのルーは、どこか愛おしそうにしていたような気がする。長年姿を偽ってきたのに、怒るどころか眩しい笑顔を俺に見せてきた。

「ロランよ、私はお前のことを認めたわけではない。いつか必ず再戦を申し込むから首を洗って待っていろ!」

 背中越しにファビアン公子の高らかな再戦宣言が聞こえたような気がした。再戦、そんな機会がないことを願いたい。



「この後の予定ですが、一緒に昼食をと思ったのですがロランはお風呂に入った方がよさそうですね」

 ルーに言う通り、ファビアン公子相手に防戦一方とは言え、汗をかかなかったわけではないし、訓練場の地面は土だから靴も服も土で汚れてしまっている。

「兵士が入るような共同浴場とかってあるのかな」

 と俺が聞くと

「何を言っているのですか、ロラン。皇族専用の大浴場を使いなさい」

 ルーは満面の笑みを浮かべた。

「いやいや。僕、皇族じゃないし」

「じきにそうなります」

「現時点では評判の悪い男爵家三男だし。僕が使ったと聞いたら風呂を使いたくなくなる皇族がいるかも」

「まだそんな身分のことを気にして。ロランは私が招いた大事な客人ですよ。客人に失礼な対応をさせるのですか」

 そこまで言われたら、反論にしようもない。俺はおとなしくルーに従うことにした。訓練場から大浴場までは多少の距離があり、宮殿で働くメイドや使用人とすれ違ったが誰も彼もが俺を探るような視線を向けていた。皇太女殿下が薄汚れた冴えない男を連れて歩いていたら誰だって気にはなるだろうな。俺も逆の立場だったら「殿下の後ろを歩いている男は誰だ」と思う。ルーは気にせず、通りすがる者たちに笑顔を振りまいて歩いていた。

 道中、かなり痛い視線を浴びながらたどり着いた大浴場は、皇族専用と言うだけあって広大で絢爛豪華なものだった。こんなのが現実にあるのかとぼんやりと眺めてしまった。

「ロラン、どうかしましたか」

 ルーが俺を心配そうにのぞき込んだ。

「すごいお風呂だなと思って」

「そうでしょう。他国の要人を招いたときにも使えるように設えたものですから。私達も自由に使えるわけではないのですよ」

 ルーの話によると、昔の皇族は毎日のように使っていたらしいが、これだけ広いとお湯をはるのも時間がかかるし、そのあとの掃除もかなりの人数と時間を要するので皇族であっても毎日は使わないものらしい。普段は、自室に併設されている浴室を使うそうだ。ルーとしては仕事が忙しく、自室でささっと済ませたいので不満はないらしい。

「皇族でも毎日使えるわけじゃないのに、僕が使っていいの」

「ええ、私の大事な客人ですからいつでも入れるように準備させていたのですよ」

 こんな俺に何から何までルーの心遣いは本当に身に染みる。

「では、あとはお願いしますね」

 ルーが一声かけると、使用人らしき男が複数人現れた。

「ルー。この人たちは一体」

「ロランの身体を洗ったり、入浴の手伝いをしたりする者たちですよ」

 わー。上流階級あるある。

『入浴、着替えに使用人がやってくる。』

 ちなみに、当家にそんな使用人はいない。領地にある屋敷は、執事、使用人、メイド各一人で管理しているし、帝都に至ってはクローデル家の屋敷を間借りしている状況なので使用人が一人いれば十分だ。もし何らかの行事があって人手が必要ならクローデル家から使用人を借りている。

 それに、当家はいつ取り潰しにあってもおかしくない立場なので、一人で着替えができない、風呂に入れないという貴族ぶったことはしない。自分の身の周りのことは自分でできる。俺自身、掃除も洗濯も料理もお手のものだし、必要とあれば野宿も可能だ。

 そんな環境で育った俺としては、使用人たちは果たして必要なのか?と疑問に思う。皇族のおもてなしとしては当たり前のことなのかもしれないが、見ず知らずの他人に身体を磨かれたり、タオルで拭いてもらったりされるのはかなり気恥ずかしい。

 俺自身の問題として、俺は魔法で髪型、髪の色や瞳の色を変えてはいるが、顔の造作そのものを魔法で変えているわけではない。髪を洗われているときに素顔を完全にさらすことになる。そうなると、勘付かれる可能性がなくはない。

「ルー、心遣いはありがたいんだけど、使用人さんたちに下がってもらってもいいだろうか」

「この者たちに何か不手際がありましたか」

 遠慮がちに俺が声を掛けるとルーが小首を傾げた。育った環境が違いすぎて、俺の言っていることがよく分からないらしい。

「いやー、そういうことじゃないんだよ。ルーは慣れているかもしれないけど、うちにはそういう使用人がいないから、一人で風呂に入ることが多くて」

「???」

 ルーがきょとんとした顔をしている。

「ルーの気遣いはありがたいんだけど、せっかくこんなにすごいお風呂だから一人で心おきな~く楽しみたいわけで」

「いえいえ、ロラン様、我らのことは単なる風景と思っていただければ」

 おい、使用人その1、余計なことは言わなくていいんだよ!風景と思えと言われても気になるだろうが!

「自分の身の周りのことは自分できるようにしているから、この人たちの手を煩わせる必要がないわけで。むしろ、そのままそっとしてもらった方が落ち着くというか…」

 ダメだ、育った環境が違い過ぎて俺の言っていることがルーに全く響いていない。だんだん俺の言っていることがグダグダになってきた。

「よくは分かりませんが、ロランは誰にも邪魔されずにお風呂を楽しみたいし、お手伝いも不要ということですね」

 ルーは納得できていないが俺がそういうから仕方ないという風で、使用人たちを下がらせた。

「では、ロラン、お風呂から上がったらこの廊下の突き当りの私の執務室まで来てくださいね」

 今まで手紙のやり取りをしてお互いを知っていたつもりになっていたけど、小市民の俺にとって、皇族のお姫様とのお付き合いは骨が折れる。



 広い広い湯船の端に、いかにもなライオン型の彫刻があり、その口から温かいお湯が流れ出ている。柱の装飾も凝りに凝っていて見ごたえがある。温泉をどこかから引いてきているのか泉質もとても良い。どんな効能があるのか後でルーに聞いてみよう。大浴場は宮殿の最上階に位置するため、大きな窓からは帝都がよく見える。見晴らしも最高だ。

 宮殿よりも高い建物が近くにないので、素っ裸の俺の姿は多分見えないはず。

 どの点をとってもここは天国かと錯覚してもおかしくはないくらい。こんなすごいところを独り占めできるとは。使用人さんたちに下がってもらって大正解だ!あんなのがいたら、気が休まらない。

「いや~、極楽極楽」

 いつにない体験をしたせいか妙なテンションになった俺は、湯船の端から端まで泳いでみた。お、あっちにも別の湯船があるぞ。

 さっきまで入っていた湯船より小ぶりだが、そこにはバラの花がこれでもかと浮かんでいた。うわっ、これもいかにも上流貴族の風呂!確かにこれは毎日入ったら金がかかりそう。

 昔の皇帝は美女を何人も侍らせてこの入浴を楽しんでいたのだろうかと下世話なことを想像してしまった。

 ひとしきりお風呂を楽しんだ俺だが、ルーを待たせているわけだし、あまり長居も良くない。少し名残惜しいがお風呂から上がることにしよう。

 いつか自分がじーさんになった時に「じーちゃんは、昔、宮殿の大浴場で泳いだことがあるんだぞ」なんて自慢しているかもしれない。

 ロランじーさん、どんな爺さんになっているだろうか。先のことはよく分からないな。それよりも現実の世界に戻らなくては。



 脱衣場に移動した俺は信じられない事態に陥った。

 着替えが、ない!ない!嘘だろ!

 お風呂に入る前に使用人さんたちがこの籠の中に用意してくれたのを見たから用意し忘れたということはない。

 それどころか、俺が着てきた上着はそこのハンガーにかけてあったはずなのにそれも綺麗になくなっている。

 着替えの代わりに入っていたのは、タオルが一枚と真っ白な女性用の下着が1セット、そして


『貴様は皇太女殿下の婚約者にふさわしくない。今すぐこの宮殿から出ていけ』


という新聞の文字を切り抜いて作ったようなメモと大浴場から宮殿の正門までの帰り道を書いた地図が置いてあった。

 これは、宮廷いじめ?恋愛小説にありがちな、貧乏な令嬢が有力貴族の令嬢から嫌がらせを受けるとかいう、あれか?

 まさか、自分がそういう目に遭うとは想定していなかった。これは俺の認識が甘すぎたな。この宮殿は敵地だと思って行動した方が良いのかもしれない。

 この宮殿に不慣れな俺を思って、ご丁寧に帰りの道順を書いた地図を用意するとは、嫌がらせしている割に妙に親切な奴だ。

 この下着が着替えの代わりに入っていたということは、女性用の下着を着て宮殿を出ていけということだろうか。どう見ても俺のサイズに合うわけがないのでこれを着て出ていけるわけがない。

 何か他に手がかりはないかと籠の中をごそごそと探っているとメモが一枚はらりと落ちてきた。


『せめてもの手向けに皇太女殿下の下着を持ち帰ることを許す』


 この下着、俺への土産のつもりなのか。メモには皇太女殿下の下着と書いてあるが本当にそうなのだろうか。

 俺は何となく下着を広げてみる。正直女性の下着に詳しくないが、何となくサイズ的にルーっぽいような気はする。材質も良さそうだし、レースや全体的なデザインもとても上品そうだ。よく見ると、新品ではなく使った感じは出ているな。洗濯されているようなので、清潔な状態だ。

 ルーには、この下着のように上品なデザインもいいが、大胆なデザインの下着も着こなせるんじゃ……いやいや何を考えている、冷静になれ、俺。友人に欲情するなんて、最低だ!というか、女性用の下着を広げたり畳んだりしているこの姿、変態そのものじゃないか。こんな姿、絶対にルーに見られたくない。

 しかし、宮殿から出ていけと言われても、全裸もしくはタオル一枚腰に巻いて手には女性用の下着を持って移動したらすぐに捕まるだろう。土産を用意して帰り道を案内してくれても無駄だろうが。俺にこんな仕打ちをした奴は何を考えているのか。

 それとも、俺が宮殿から出ていくかどうかは別として絶望的な状況に陥らせて俺が困っている姿をどこかで監視して楽しみたいだけなのか。

 さて、どうしたものか。

 俺が取れる手段としては、

① 長湯してのぼせた振りをして適当なところで倒れて助けが来るのを待つ

② ドアを叩くなり、ドアから顔だけ出すなりして人を呼ぶ

③ どうにかしてルーの執務室に行く

この三つだな。

 ②が一番簡単だが果たして俺の声掛けに反応してくれる奴がいるだろうか。駆け付けた奴が俺の着替えをすり替えた犯人ならもうひと騒ぎ起こされそうだ。①も比較的簡単だが、俺を心配したルーが駆け付けてくれればいいが、②と同様、誰がやってくるか分かったものではない。となると、③の方法しかないか。

 では、③を取るとしても具体的にどうしたものか。

③の1 全速力で廊下を走ってルーの執務室に行く

③の2 廊下を歩いた使用人を捕まえて制服を奪い取ってルーの執務室に行く

③の3 魔法で堂々とルーの執務室に行く

 ③の1は論外だな。ルーの執務室までに誰にも出会わない保証はない。ルーの執務室が同じ階の突き当りと言ってもここから結構な距離がある。全裸の変態としてしょっ引かれることになるのは、今後の俺の人生からして避けたいし、こんなことで両親にも迷惑を掛けたくない。③の2は、あまりにも平和的な解決ではない。諜報員として潜入したのならば普通に取りうる手段ではあるが、今後も世話になるかもしれない場所で(できれば世話にならずに済む方がいいが)取るべき手段ではない。

 そうなると自ずと取るべき手段は③の3となる。これ、魔力を相当消耗する。

 普段から使っている変装魔法は、髪や目を別の色にというように元々あるものを変化させている。これは、中程度の魔法が使えて、魔力量がある程度あれば、そこまで魔力を消耗する魔法ではない。もっとも、だれもかれもが魔法で変装していたら社会が混乱するため、この魔法はあまり知らされていない。また、一日中使い続けられる人物となるとこの国ではほんの一握りとなるだろう。

 さらにそれよりも魔法の才能と膨大な魔力量を必要となるのが認識阻害魔法である。認識阻害魔法のうち、一番高度なのは透明人間化する魔法である。俺はこの魔法を使えないことはないが、魔法で姿が消えても、気配が消えていないと他者に気が付かれる可能性がある。ましてや、武道をたしなむ人間なら姿が見えずとも気配で分かってしまう場合がある。正直こんな落ち着かない状況でこの魔法を使ったところで俺自身の気配を消しきる自信がない。

 今回の場合、俺自身の姿を消す必要性はどこにもない。となると、全裸であることさえばれなければいい。一番高度な魔法を使って魔力を無駄にするより、多少魔法のレベルは落ちるが俺が服を着ていると周囲に錯覚させて堂々と歩いてルーの執務室に行けば問題ない。

 ただし、認識阻害魔法は、変装魔法のように一度発動すればしばらく効果が続くものではなく、俺を視認できる範囲全て錯覚させるべく魔法を常に展開し続けなければいけないのが難点である。執務室にたどり着くまでに俺の魔力は持つはずなので魔力と集中力が切れる前にルーの執務室に入り込むことが肝要だ。あとは、ルーに事情を話して何とかしてもらおう。とはいえ、ルーに全裸を見られるのは恥ずかしいので執務室に入ったらすぐに何かの物陰に隠れなくては。

 俺が魔法を色々と使えるのは、元々の魔法の才能があったのと6歳のときに俺がたまたま拾った浮浪者の爺さんがエクレール王国の大賢者で、その指導を受けることができたという偶然の産物である。

 この爺さん、俺が拾ったというより、爺さんの方から「君!魔法に興味ないかい」と芝居がかった雰囲気で声を掛けてきた。通りかかった俺を見て、爺さん的にピンとくるものがあったのだと思う。

 見るからに怪しいと思ったが、浮浪者にしては、背筋がきれい過ぎた、食べるものがなくてお腹が鳴っているのに毅然としていた姿に違和感を覚えた俺は、クローデル家の屋敷の者を呼び出して爺さんを一時保護した。

 商人として財を成したクローデル家は、顔が広く、この爺さんが誰なのか知っていた。この爺さんがエクレール王国の大賢者であることがすぐに判明した。

 爺さんは、魔術大国の国内の権力闘争に嫌気がさして、祖国を出てグランフルールにいる遠縁の者を頼って移ってきたが、遠縁の者は既に亡くなっており、途方に暮れていたところスリに遭ってお金をなくし、いつの間にか浮浪者になってしまったらしい。

 この爺さん、エクレール王国の大臣の息子でお金に困らない生活をしていたようだ。そのせいで生活力がなかったことも浮浪者になってしまった要因の一つと考えられる。ただ、そのおかげで俺は、爺さんから魔法だけでなくマナーも教えてもらった。当家における爺さんの立ち位置は魔法だけでなく、マナーも教えてもらえる、便利な家庭教師である。

 そんな爺さんの信条は『どんなときもエレガントに』だ。

 さて、爺さんから教えてもらった魔法を使うことにしよう。何度か使ったことはあるが、こんな状態で使うのは初めてだ。堂々と歩いていたら、誰かに裸なのが見抜かれたらどうしよう。どこかの国の童話で服を着ていると騙されて、裸で歩いている王様が笑われるというのがあったな。

 そんな話はどうでもいい、魔法の発動に集中しなくては。

 俺は大きく深呼吸し、服を着た状態の俺をイメージしながら魔法を発動させた。よし、これで大丈夫のはずだ。念のため確認するか。俺は、おそるおそる脱衣場の鏡の前に立つと、正装をした猫背のロラン君の姿が写っていた。

 すっかり安心した俺は脱衣場を出て廊下に立った。ルーの執務室は、この廊下の突き当りだが、結構遠いな。それだけこの宮殿が大きいということか。

 この辺りは主に皇族の居住スペースだから、こんなところを俺の知り合いが通りかかることはないだろうし、さっさと歩いて行けば特に何事もなくルーの執務室に行けるはずだ。

 行き交うメイドや使用人は俺の姿を気にするふうもなく、たまたま目が合った人も不審な目をしていない。よし、このまま堂々と歩いて行こう!

「おや、ロラン君じゃないか。こんなところで奇遇だね」

 魔法を展開する集中力は切らさずに俺は振り向いた。

 五十代くらいの細身の男、背は低く、鷲鼻が少々目立つ顔立ち。俺にそんな知り合いいただろうかと記録の糸を辿っていると、

「今年は、優秀な学生が入ってくると楽しみにしていたのだが、まさか君が皇太女殿下と婚約することになるとはね。いや~残念。」

 男は俺に話し掛けているのか大きな独り言なのか判別が付かない調子で喋っている。

「大学としては損失だが、私自身は皇帝陛下の命令で君の教育係に任ぜられたから君とまた顔を合わせることもあるだろう」

 思い出した。このオッサン、帝都大学の教授で俺が面接を受けたときの面接官だ。名前は、オディロン・デュトワ。政策学の権威で帝国の有識者会議に何度も招聘されている人物だが、この教授、面接のときもそうだったが話が長いんだ。面接のとき、もう一人の面接官が早く切り上げろと言わんばかりの表情で青筋立てて苛立っていたのに教授は完全無視だったのを思い出した。強引でもいいからさっさと切り上げないと俺の集中力と魔力が尽きてしまう…。

「そうだったのですか。お世話になります。あの、教授、出会って早々申し訳ありませんが殿下に至急執務室に向かうように言われておりまして」

 これで失礼します、と早足で去ろうと思っていたのだが、

「奇遇だね、実は私も殿下にお会いする用事があってな。君の件で陛下に謁見したあと、陛下から今なら殿下とロラン君が一緒にいるだろうから、そちらに顔を出すようにと仰せつかっているのだよ。まさか、君に先に会うことになるとは。それにしても、この宮殿は大きいな。どこを歩いているのか分からなくなりそうだ」

 まさか行先まで一緒だった!執務室に滑り込めばセーフだと思っていたのに。焦る俺の気も知らず、教授は超ゆったりペースで廊下を歩いている。このまま話に合わせていたら歩くのも止めそうな勢いだ。

「そ、そうですか。教授、すみませんが殿下に頼まれた用件はすぐ済みますのでちょっと先に行かせてもらえますか」

「ハハハ、結婚前からもう殿下の尻に引かれているわけか。良い、良い。世の中、妻の言う通りにした方が上手くいくぞ」

 それは教授の実体験ですかと聞きそうになったが、話が長くなりそうなので足早に去ることにした。



「ルー、助けてくれ」

 俺は執務室の扉が開くやいなや、執務室に身体を滑り込ませた。部屋の中を見回し、応接用のソファの影に隠れる。幸い、部屋にはルー以外の人間はいなかったので魔法を解いた。

「ロラン、どうかしたのですか」

 ルーが俺の下に近づく足音が聞こえる。

「こっちに来ちゃだめだ。今、全裸なんだ」

「えっ。ロラン、服を着ていまし…」

 ルーの足が止まる。ルーが理解できないのも無理はない。ついさっきまで服を着ていたように見えたのだから。

「ここまでは魔法で何とかごまかした。実は、僕の服が脱衣場から盗まれた。その代わりに入っていたのがこれだ」

 俺は、精一杯腕を伸ばしてソファの背もたれの上側からメモを二つ差し出し、ルーはそれを受け取った。

「これは…」

 多分、下着のくだりでさらに困惑しているだろうな。顔は見えないけど声が若干震えているのが分かる。

「もう読んだから分かると思うけど、これはルーの物かな」

 俺はタオルに丁寧に包んだ女性用の下着一式を差し出す。下着の盗難なんて、気持ち悪いだろうな。

「……、間違いありません。私の物です。寝室からいつ盗まれたのでしょう。寝室には私か専属の女官であるセリーヌくらいしか入れないのに」

「ルーの寝室には専属の女官しか入れないということ?」

「寝室の鍵は私とセリーヌしか持っていません。私かセリーヌのどちらかがいれば、入ることはできますが。部屋の掃除はセリーヌの立会なしにはできませんし、掃除のときに妙なことをすればセリーヌの目が光っているのでうかつなことはできません。それ以外となると、私のごく近しい親族で、この宮殿に住んでいる者くらいなら私かセリーヌがいるときに入ることはできると思いますが、今この宮殿に住んでいる皇族は両親と私くらいです。ほかの親族は他家に嫁いでここには住んでいませんので」

 そうなると誰でも入れるということはないか。女官さんが盗んだのなら話は簡単なのだが。

「女官さんは、ルーの婚約に反対だった?」

「そんなことはありません。むしろ喜んでいました。ロランと今まで手紙のやり取りができたのはイネスとセリーヌのおかげです。彼女は私の最大の協力者と言っても過言ではありません」

 ルーの言葉の端々に女官さんと固い信頼関係が結ばれていると感じられる。とはいえ、犯人ではないと断定は禁物だ。昨日届けられたルーからの手紙はセリーヌが持ってきたものなんだろうな。

「皇帝陛下や皇后陛下はこの婚約にまだ反対しているという線はないだろうか」

「ロランを婚約者に指名するのを最初は父も母も反対していましたが、私が半年掛けて説得しましたので、そのようなことはないかと」

 半年掛けて説得?エクレール王国の王子との婚約解消が半年前ということは、婚約解消から今まで婚約者候補を探していたんじゃなくて、最初から俺一択でルーが説得し続けていたということか。なぜそこまで俺を指名したかったのだろうか…。

 今はそんなことを考えている暇はない。

「以前この宮殿に住んでいたルーの親族が最近戻ってきたことは」

「!……一人心当たりがいます。まさか」

 姿は見えないものの、ルーが小刻みに震えているのが地面から伝わってきた。

「ルー、落ち着いて。その人かどうかは…」

 俺がルーに語り掛けようとした瞬間、執務室にのっそ、のっそと近づく足音が聞こえてきた。すっかり忘れていたが、教授が挨拶に来るんだった。

「ルー、もうすぐ帝都大学のデュトワ教授が俺たちに挨拶しに来る。どこか隠れさせてもらえないだろうか。俺の服を盗んだ犯人捜しはその後で」

「分かりました。では、そこの執務机の下に隠れてください」

「ありがとう。ルー」

 俺はすくっと立ち上がり、さっきまで隠れていたソファの横を過ぎようとした。

「教授には僕がいない理由を適当に…、あ」

 俺の視線の先には、耳まで赤くなったルーが立ち尽くしているのが見えた。俺は急いでいたあまり全裸のまま立ち上がってしまったのだった。

「ロ、ロラン。せめてそこのタオルで腰回りくらい隠してください」

 うん、思いっきり前の方も含めて俺の裸体をルーに見られてしまった。焦るとろくなことがない。

 こんな恥ずかしい姿を他人に見られて俺はもうお嫁に行けない…。

 それも問題だが、それよりも俺の裸を見せられたルーの精神的ダメージはいかばかりであろうか。

 おぞましいものを見せられたとルーに罵倒されても甘んじて受けるつもりだ。何をしたら許してもらえるだろうか。

 今日ここに、不義男爵家に新たな不名誉なエピソードが加わった。両親にどう詫びればいいのか。

「す、すまない。見苦しいものを見せてしまった」

「いえっ。そんなことは…」

 俺がびくびくしながら謝ると、ルーは俺を罵倒することはなく、恥ずかしそうにしつつもチラチラと何度も俺の身体を横目で観察していた。

 その反応は一体なんだろうか。恥ずかしさが倍増するからあまり見ないでほしい。

 コンコンッ。

 執務室のドアを叩く音がした。

「失礼します。マリー=ルイーズ皇太女殿下はいらっしゃいますかな」

 ドアの向こうからデュトワ教授の声がした。

 俺は、もはや隠しても仕方ない気がするが、急いで腰にタオルを巻いて執務机の方に移動した。執務室机の下に隠れてから、一呼吸する。

 そういえば、このタオル、ルーの下着を包んでいたやつだったと考えるとなんとも言えない気分になる。

「ロランって、意外といい身体…。やだっ、私ったらなんてことを。そんなこと考えている場合ではないですのに」

 ルーが小声でつぶやいたが聞こえなかったことにしよう。



「何とか乗り切りましたね」

「あの話の長い教授が思ったより早く帰ってくれて助かった。ルーの対応が上手かったからかな」

 デュトワ教授が去ったので俺は執務机の下から出た。

「いえ、回数をこなせばあの程度ロランにもできますよ」

 なるほど、うん、そんなものなのか。そんなことはないような気がするが。

 ルーは俺の姿を見るも、あまりじろじろ見てはいけないと思ったのか両手を顔に当てながら俺と反対の方向に身体を向けた。

「さて、僕の服を盗んだ犯人捜しをしたいところだけど、その前に使用人の服でもなんでもいいから手配してもらえないだろうか」

 夏の終わりとはいえ、腰にタオル一枚の姿は少し寒いし、ルーが直視できない感じになっているので何とかしたい。

 今からまともな服を手配するのも大変そうだし、使用人の制服くらいならすぐ手に入りそうな気がする。

「客人として招いたのに、使用人の格好だなんてそんな失礼なことはさせられません。ちゃんとした服を用意させます。セリーヌ!」

「殿下、お呼びでしょうか」

 ルーの呼びかけに応じて、執務室の奥にある、廊下と接していない扉から女性が現れた。年は二十台半ばくらい、シンプルなモノトーンのドレスと大きな眼鏡を着用した少し小柄な細見の女性、この人がセリーヌという女官だろう。

「ロランに服を用意してもらえないかしら」

「かしこまりました。では、ロラン様失礼いたします」

 セリーヌは、目にも止まらぬ速さで俺を採寸した後、風のように執務室を出ていった。どうやったのか分からないが執務室の扉を閉める音は全く聞こえなかった。

「大丈夫です。セリーヌの仕事は確かですから」

 俺に若干不安な雰囲気を見て取ったのか、ルーが優しく語り掛けた。

「あまりの速さに驚いたけど、セリーヌさんってどんな人?」

「ロランにも彼女のことを知ってもらった方がいいでしょうね。彼女の名前はセリーヌ・ド・リール」

 セリーヌの姓を聞いた瞬間に俺はめまいを感じた。

「セリーヌさんってリール侯爵家と所縁がある方なのかな」

「ええ。現当主の四女ですね」

 ルーの身の回りの世話をしている女官だからある程度の身分のある女性だろうとは思ったが、まさか侯爵家の人間だったとは。

 リール侯爵家のせめて遠戚か何かであってくれと思ったら、セリーヌ、いやセリーヌ様は思いっきり直系の偉い方だった。どう転んでも俺の身分の方が低い。

 そんな人に服を調達させに行っているとは本当に申し訳ない。タオル一枚の姿でなければ自分で調達に行きたいくらいだ。

「ロラン。どうかしましたか」

 ルーが心配そうに俺の顔を覗き込む。ぼさぼさの前髪で目を覆っているので俺の表情を読めないでいるようだ。

「いや、何でもない。話を続けてもらってもいいかな」

「セリーヌは私が十歳のときから女官として仕えています。少しの情報から次に取るべき行動を予測したり、私の様子を観察して適切な対応をしてくれたりする、非常に有能な人です。彼女をよく知らない人間からすると少々近寄りがたい雰囲気があるようですが、たまに笑う顔がとても可愛らしいのですよ」

 セリーヌ様を語る、ルーの表情が柔らかで俺の口元が思わず緩んでしまう。

「お待たせしました」

 セリーヌ様は大量の服を下げた移動式ハンガーラックを引き連れて執務室に戻ってきた。

「ロラン様にお気に召すものがあればよいのですが」

 ハンガーラックに掛けられた服はどれも高級そうなものばかりだった。どれ一つをとっても俺が今日着てきた服よりもよっぽど上等なのではないだろうか。どれを選ぶべきなのだろうか、困ったな。貴族教育を受けたとは言え、感覚が庶民に近い俺にはどれを選んでいいのかさっぱりだ。

「ルー、俺に似合いそうなものを選んでもらえないかな」

「えっ、私が選んで良いのですか」

 ルーが弾むような足取りでハンガーラックに近づく。

 こういうのは女性が選ぶのが一番だ。決して俺が選ぶのが面倒になったわけではない。下手なものを選んでルーに幻滅されるよりいいと考えた行動だ。

「これも似合いそう。あとこれも…。迷ってしまいます」

「殿下。早く決めないとロラン様がいつまでも着替えられませんよ」

「それもそうですね」

 セリーヌ様にうながされながらルーは一つの服を選んだ。

 それは、紺色の布地に、上着の襟を銀色で縁取った服だった。今日のルーの青と銀を基調としたドレスと色のトーンとデザインが若干似通っていた。

「これはどうでしょうか」

 ルーが上目遣いで俺を見た。

 絶世の美女の上目遣い。これは危険だ。大抵の男は、いや、ほとんどの男は堕ちる!

「………いいんじゃないかな」

 吹っ飛びかける理性を何とか引き戻す。もう少し気の利いた返事はできないかと自分でも思うがこれが限界だ。

「良かった」

 安心した笑顔をルーは振りまく。

 上目遣いからのまばゆい笑顔、追い打ちを掛けるのはやめて欲しい。本当に理性がどこかに行ってしまいそうだ。どことは言わないが鎮まれ、俺!

「ありがとう、ルー。ところで、どこか着替えられる場所は…」

「でしたら、そちらに衝立を置きますのでその裏側で」

 ルーの言葉を聞いて、セリーヌ様が執務室の隅に置いてあった衝立を持ち上げようとした。

「セリーヌ様、申し訳ありません。僕が運びます」

 自分の用事で重労働させるのは忍びないので俺はセリーヌ様から衝立を取り上げて、さっさと移動した。

「ロラン様、私のことをセリーヌ様と呼びましたか」

「はい」

「私のことは呼び捨てで結構です。名前を呼ばなくても『そこの女官』で十分なくらいです」

 セリーヌ様の片眉がピクリと動く。

「いえ、そういうわけには…。僕はほぼ庶民みたいなものですし」

 俺の身分で、リール侯爵家の令嬢を顎で使えるわけがない。

「私はリール侯爵家の出身ではありますが、所詮は妾腹の娘です。私に気遣いは無用。ロラン様、いいですか。昨日の今日のことですから、自覚がないのも致し方ありませんがあえて厳しく申し上げます。あなたは殿下の隣に立つ方なのですよ。卑屈な態度では周囲に示しがつきません。皇族の一員としてふさわしいふるまいをなさってください」

 セリーヌ様に叱られてしまった。確かに、次期女帝陛下の夫が隣で誰彼構わず卑屈な態度を取っていたら示しがつかないとは思う。

 しかしながら、俺はルーとの婚約をなかったものにしたいと思っているので皇族の一員としてふさわしいふるまいと言われてもなぁ。

 次期女帝の夫という肩書は俺には荷が重すぎる。これからグランフルール分家をよく思わない貴族たちと嫌というほど会うことになるだろう。俺がその者たちを屈服させるほどの能力も後ろ盾もない。

 今ですら、着替えを盗まれるという嫌がらせを受けて、なんの対応もできずに、ルーのところに逃げ込むので精一杯だったくらいだ。

 婚約しても最初のうちはルーが守ってくれはするだろう。すぐに俺の存在がルーにとって負担となり、いつかは重荷となってルーを苦しめることになる。

 ルーと再会して数時間程度だが、俺はルーにどんどん惹かれているのを感じている。今ならまだ引き返せる、ルーを多少悲しませるだろうがこの婚約話をなかったことにしなくては。

 俺とルーの身分が違い過ぎて、俺から辞退を申し出ても皇室に恥をかかせることになるし、それが理由でグランフルール分家も手痛い仕打ちを受けることになる。皇室に恥をかかせることなく、穏便に済む方法はないものか。

「ロラン、あなたがこれまで置かれていた立場を考えればそのような対応をするのも分かりますが、毅然とした態度で臨むようにしてください」

 セリーヌ様のお叱りにどう答えようかと思っていたところに、ルーからセリーヌ様への援護射撃が来てしまった。

「すぐにはできないかもしれませんが、善処しますね。セリーヌさ…。いやセリーヌ。」

 ついうっかりセリーヌ様と言いかけたところに、セリーヌの眼鏡が光ったように見えたのは俺の目の錯覚だろうか。

「では、お着替えをお持ちしますね」

 セリーヌが着替えを持って俺の後をついてくる。衝立の前まで移動してもセリーヌが下がろうとしない。

「セリーヌ。もう下がっていいですよ」

「ロラン様、何をおっしゃっているのですか。私は着替えのお手伝いをするために残っております。さあ、衝立の裏側に移動してください」

 やっぱりそういうことか。

「いえ、結構です。自分で着替えられますのでお構いなく」

 俺は衝立の裏側に移動し、衝立の上から手を伸ばして着替えを受け取ろうとした。

「そういうわけにはいきません。この後も予定が詰まっておりますので早く着替えましょう。腰に巻いたタオルをお取りしますね」

 セリーヌが俺の前に立ち、タオルに手をかけようとする。

 冗談じゃない!

 ルーのときですら恥ずかしさで顔から火が出そうな状況だったのに、なぜ初対面の女性に下半身をさらさなければならないのか!

「いや、本当に結構ですから」

 タオルがずれないように俺は必死に両腕で腰回りを守った。

「仕方ありませんね。下着を着用されましたらお声かけください」

 セリーヌには俺の必死さが分からないらしく、何を恥ずかしがっているのかと言わんばかりの雰囲気だった。

 それにしても、俺の着替えを盗んだ奴は誰だ。やっぱりルーの親族の誰かなのだろうか。いろいろあってルーに聞くタイミングを逸してしまった。

 あの服は、帝都大学の合格祝いに父が仕立ててくれたものだった。できることなら、返してもらいたい。

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