第4話
拓海は二十八歳になった。まだ同じホテルで働き続けることができている。スタッフの中でも中堅となり、新人教育も任されるようになった。井上と赤石は無事教師とスポーツトレーナーになった。今でもたまに三人で集まって近況報告をする。あと、上田だが。ホテルの仕事は立ち仕事が多い。拓海も例に漏れずぎっくり腰をやった。通院した病院で紗矢がいた。無事に看護師になれたようだ。しかも働く病院も、憧れのあの人と同じらしい。追っかけだなと話すと嬉しそうに笑った。そこから紗矢とは連絡を取るようになった。そして二年前に紗矢は苗字が変わった。
紗矢は今日夜勤のため、まだ帰ってこない。紗矢の分の食事を作り冷蔵庫に入れておく。食卓にはメモも忘れずに。拓海はホテルへと向かった。いつもの朝、小学生が色とりどりのランドセルを背負って歩く。中にはピカピカのランドセルを背負っている子もちらほら。拓海も今日から新卒の教育にあたる。。
「子供、かわいいな…。俺らもそろそろ…」
ガチャンッ
カバンから何かが落ちた。立ち止まって拾い上げると、それは懐中時計だった。
「うわっ、懐かしい!就職してから全然使ってなかったから、どこにあるかも忘れてた。でも…」
俺、カバンに入れたっけ?
急に周囲が騒がしくなった。人々の悲鳴、何かが擦れる音、幾度となく鳴るけたたましいクラクション。
「お兄さん、逃げて‼」
その声に振り返るのと、トラックの鼻っ面が目と鼻の先だった。
拓海が目を開けると、真っ白だった。なんとか上半身を起こし胡坐をかく。天井だけが白いと思ったけれど、どうやら部屋全体が真っ白のようだ。起きたばかりだからだろうか、頭がぼんやりしている。突然記憶がフラッシュバックする。視界いっぱいに広がるトラックのフロント、今まで感じたことのない全身を揺らす衝撃。
「そうだ、トラックに轢かれて…」
急に鳥肌が立つ。死んだ?全身を見てみるが、赤いところはない。痛いところもない、たぶん。訳が分からず動けない。
(どうしてこうなった、何したっけ。そうだ、なんか拾ったんだ、何拾ったっけ…)
考えようと前かがみになると、ポケットで何かがぶつかり合う音が聞こえた。…そうだ、時計を拾ったのだ。昔、森須から受け取った懐中時計を。
「拓海サマ、お久しぶりでございマス♡」
背後で声が聞こえた。しばらく聞いていなかったが、なぜか鮮明に覚えている、あの声。
振り向くと森須がやはり宙に浮いてこちらを向いている。しかし、なぜ今出てくるのか。拓海は生きているのか?
「森須、なんでここにいるんだよ。…ああ、時計の回収に来たのか、最近使ってないもんな。ほら、もう返すよ、今までありがとうな。これのおかげで自分のダメさにも気づけたし、それなりの幸せもわかったよ。本当にありがとう」
拓海は懐中時計を森須に差し出すが、森須は受け取ろうとはしない。浮いたまま不気味に笑っている。
「…なんで黙ってるんだよ!俺はこれから仕事に行かなきゃならないんだよ。時間がないんだ、早くこんな変な場所から出してくれ」
それでもなお黙り続ける森須に、拓海は腹が立ち大股でズンズンと近づいた。森須の顔の位置に時計を差し出し、大きめの声で告げる。
「もうこれは返す、もういらない!時間の大切さが良く分かった!早く受け取れ、そして俺をここから出せ‼」
「出られませんヨ、だって拓海サマはもう死んでるんですカラ♡♡‼」
森須が耐え切れない様子で吹き出し爆笑している。拓海は状況が呑み込めず、動けない。
死んでる?しゃべってるのに?時計をこうして持っているのに?拓海は森須に問う。
「じょ、冗談やめろよ。死んでるわけないじゃないか。こうしてしゃべってるし、どこも痛くない」
「それが生きてるって証拠になるんデスか?幽霊だって化けて出ますヨ」
森須はいたって楽しそうだ。
「まあ、正確には、拓海サマはまだ死んでませんけどね」
見てもらいましょウと、森須は床のほうに人差し指を向けクルクルと回す。すると徐々に白かった床の霧が晴れ、とある景色が映し出された。拓海は愕然とする。人が慌ただしく行きかう部屋、機械がたくさんあり、それが数字を点滅させ、アラームを鳴らす。ベッドがある。目を背けたくなるような全身傷だらけの男が横たわっている。酸素マスクが不規則に曇る、点滴、あれは血圧計か、様々な管が繋がれている男が一人。…拓海だった。
「ほら、まだ死んでないでしょウ?」
「ということはあれか、俺は幽体離脱して自分が死にそうなのを見下ろしてるのか?」
「さすが拓海サマ、ご理解が早くて助かりマス」
森須は恭しく一礼する。まだ生きてる…、だが、これだけは医療的な知識がなくてもわかる。もう生きられない。周囲で走り回っている人の中で見覚えのある人物がいた。紗矢だ。
(そうか、あいつの勤め先に搬送されたのか)
紗矢は泣きそうになりながら、それでも何とか泣くのを我慢して一生懸命処置にあたっている。ああ、ついに泣いてしまった、床に座りこんでしまった。あれはいつも話していた仲の良い同僚か?紗矢を気遣って椅子に座らせる。あんなに泣いているのは付き合ってから見たことがないかもしれない。泣いているより笑ったり怒ったりすることが多い人だった。
「ピ――――――…」
今まで何とか突き出ていた山が、平らかになった。心臓が止まったらしい。医師たちが急いで除細動器を当てる。初めて本物を見たがAEDよりごついな、なんて他人事のように思ってしまう。
(ああ、紗矢が俺の体に飛びつこうとして止められてる)
やがて、医師が紗矢に向かって頭を下げた。
「ご臨終ですネ」
森須がまた指をクルクル回し、風景が霧に包まれる。
「紗矢っ‼」
霧はあっという間に拓海の遺体と紗矢を覆い隠した。森須は手をすり合わせる。
「さて、正式にお亡くなりになったということで、我々も参りましょうカ?」
森須は手を差し伸べてきた。…意味が分からない。
「…すまない、これはさすがにどういうことかわからない」
「ああ、そうですよネ♡いきなり参りましょうと言われてモ。拓海サマの魂をいただきますので、一緒に行きましょうという意味デス」
ますますわからない。
「なんで俺の魂がいただかれなきゃいけないんだよ…時計は返したろ!」
「なんでと言われましてもネー。それがあなたサマの運命としか言いようがありまセン」
森須は空間に指を滑らせる。すると文字が現れた。
「いいですカ?あなたサマは寿命を迎えられましタ。それは生まれた時から決まっていマス。ほら、ここに書いてありでしょウ?『大間拓海、通勤途中にトラックに撥ねられ死亡、享年三十歳』ってネ」
森須が手を振ると分厚い本が現れ、確かにそこには拓海の名前が書いてあった。しかしおかしい。
「おかしくないか?俺は今二十八歳だ、まだ死ぬ年じゃない!」
そうだ、森須は人違いをしている。そう思うしかなかった。
「おかしくはありまセン。だって拓海サマは、その時計ですでに時間を使っていますカラ」
「それだともっとおかしいだろ!あの時計は未来の時間十分を一時間まで引き延ばせるんだろ⁉俺はそんなに沢山の時間を使っていない、ましてや二年分なんて…やっぱり間違ってる‼早く俺をもとの世界に返せ!」
森須の雰囲気が変わった。さっきまでは高級デパートにいそうな店員みたいに丁寧で腰が低かったが、今はまるで借金を取り立てるヤクザのような不穏な雰囲気を醸し出す。
「だから、その分の時間を使ってるんですよ。まあ、確かにあなたが使った未来の時間は、せいぜい一週間程度でしょう。それでも使いましたねー、よくもまあねぇ…。でも、見てくださいよ、ここにしっかり書いてありますよ」
またも空間から明細書のようなものを取り出す。
・使用時間:百七十一時間
・懐中時計レンタル料:三百七十二時間×三十六か月
・懐中時計維持費、その他諸経費:四千二百二十四時間
計一万七千七百八十七時間
「ほら、しっかり書いてありますよ」
森須はヒラヒラト明細書をたなびかせ、拓海に手渡す。全て~時間と明記してあり、果たして本当に二年分の時間が書いてあるかはわからないが、膨大な時間が書いてあることだけはわかった。
「こんな…。お前、嘘をついたな。こんなレンタル料とか、その他の費用とか、言ってなかったじゃないか‼」
拓海は怒りで明細書をくしゃくしゃにした。森須はこれ見よがしに大きなため息をついた。
「ええ?言いがかりはよしてくださいよ。私はしっかり言いましたよ、金銭は、扱いませんとね」
拓海は森須に掴みかかる。
「‼確かに金銭は扱わないと言った…。でもレンタル料のことは一言も言ってなかったじゃないか‼」
「聞かれませんでしたので、我が社に説明義務などはありませんので」
そんな…。拓海の手から膝から徐々に力が抜けていく。ついに床に座り込む。
「そんな…俺は、俺はこれからまだ…」
「そんなにショックを受けないでくださいよ。そもそもあと二年の命だったんですから。二年早まったところで変わりませんって。そもそも、生きる価値のある人間はこんな怪しいものに頼りませんし、ね♡」
森須の高笑いが空間いっぱいに広がった。拓海の脳裏に泣き叫ぶ紗矢の顔が浮かんだ。
(俺が良く考えもしないで、こんな奴と関わったから…。でなきゃ、こんな悲しい思いさせなくて済んだのに…)
拓海の目にも涙が浮かんでは流れ落ちる。
「奥様も気の毒ですよね、こんなしょうもない男に掴まってしまうなんて…。これからもっと良い人に出会えますように」
森須は大げさに祈りを捧げるように膝をつき両手を組んで天を仰ぎ見た。
「さぁ、いつまでもこうしてはいられませんね。行きましょう、拓海様?」
「行くって、どこへ…」
立ち上がろうとする拓海を何かが邪魔した。下から服を引っ張られているようだ。恐る恐る後ろを振り返る。
「うぅわあぁぁ‼」
そこには得体のしれない黒いドロドロを纏った人のようなものが床から生えてきていた。それも一体ではない、何体、何十体、それらが折り重なるように次から次へと湧いてくる。
「ああ、待ちきれずにお迎えに来てくれたみたいですよ、先輩方が」
(俺もこうなるのか⁉)
拓海は必死にすがってくるものを引き剝がそうするが、次から次へと湧いてくるため徐々に引き剥がす手が追い付かなくなる。
「この、死神が‼」
森須に渾身の力で拓海は叫ぶ。
「よくわかりましたね。では、あちらでまたお会いしましょう?いっぱい働いてもらいますから、その人たちのように♡」
拓海は力を振り絞り森須に掴みかかろうとするも、叶わなかった。拓海の体は徐々に白い床に沈んでいった、引きずられていった、のほうが正しいが…。
時間というものは、いくらあっても足りないと思う時が来るでしょう。
そんな時、優しく手を差し伸べてくるものがいるはずです。
誘いに乗るか乗らないかはあなた次第です。
でも、忠告はさせてください。
この世にうまい話はありません。
もし、それがうまい話であった場合、それは…。
この世のものの仕業ではないかもしれません。
あなたはどうしますか?
「お困りのようですネ♡?わたくシ、『前借り屋』の森須が解決いたしますヨ♡?」
ADVANCE 蓮村 遼 @hasutera
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