第12話-愛とは言えない

 無事ダイニングテーブルの注文を済ませた木崎家は、あのあと気に入りのベーカリーカフェで食事を楽しみ帰路についた。

 週が明け、今日は月曜日である。

 真夏に片足を突っ込んだ茹だる暑い日、晴翔は空調のない体育館のギャラリーで、汗を流す謙吾を見ながら考えていた。

 ちゃんと、返事しなきゃ。

 ダビドは、今日は姿を現していない。

 しばらく来ないで、とは言ったし、ジュストにも一週間くらい、なんて伝えたが、ジュストの話を聞いたあとでは、正直明日来ても受け入れるつもりでいた。

 勉強をしながらでもただ謙吾を待つ時間より、ダビドと言葉を交わした時間は充実していたのだ。

 何度目かの溜息を吐いて、晴翔は古典の単語帳に目を落とした。何度もこうしているのだが、単語は頭に入ってこず、ただ目の前を流れていくだけである。

 晴翔が上の空な様子である事に、当然のことだが謙吾は気が付いていた。朝からずっとそんな調子であるから、謙吾は聞き兼ねていた。

 テーブル、いいのあった?

 と、軽く聞けばいいはずなのに、それが出来ない。なぜなら、謙吾は土曜の部活終わりに閑架と偶然会っていたのだ。

 その時に、ストーカー男が晴翔に何か言ってたよ、と恐ろしい事を聞かされており、謙吾は謙吾で落ち着かないでいた。

 晴翔が変な決心をしていませんように。今の関係を続けられますように。全て有耶無耶になりますように。

 そんな願いばかりが渦を巻いて、謙吾は部活に打ち込むことで気を紛らわせた。

 日は暮れつつある。

 傾いた日が射し込む体育館の中にあって、シャトルはその姿を眩ませる。

「木崎ー!ごめんけどカーテン閉めて!」

「え、ああ、オッケー」

 呼ばれて顔を上げ、単語帳を置いて言われるがままカーテンを次々と閉めていく。

 段々と暗くなっていく体育館は、暗くなるごとに本来の照明の明るさを取り戻した。

 止まっていた部員達の動きが戻る。

 ぼんやりと晴翔を見詰めていた謙吾もグリップを握り直し、シャトルを打ち上げた。

 晴翔は再びギャラリーに座り込み、単語帳を開いた。ぼんやりとした頭で別の事を考える。

「はーると、晴翔ー」

 次に晴翔が気が付いたのは、自主練習の時間も終わり、謙吾の帰り支度も万全となった後であった。一、二時間ではあるが、居眠りをしていたのだ。

「晴翔ー?起きたかにゃ?」

「……寝てた」

「うん。知ってるよー」

 おはよ、と不安はないとでも言うような笑顔を貼り付けて、謙吾は自身の居場所はここであると信じて、晴翔の隣に座っていた。

「謙吾、あのさ——」

「もう暗いし、早よ帰ろ。腹減ったし」

 晴翔の言葉を遮って、謙吾は立ち上がる。

「え、ああ……うん」

 そして、晴翔は理解した。

 あの人が言ってたの、本当だ、と。

 有耶無耶なまま、俺の返事がはっきりしていないうちは、謙吾は今の関係でいられると信じている。

 晴翔はどうするのが正しいのか考えた。

 謙吾の望み通り、有耶無耶なままにしてしまうのも、本人が望むのならいいのだろう。

 しかし、それは晴翔にとっても良い事なのだろうか?

 もしかしたら、この先誰かを好きになるかもしれない。謙吾以外の人との時間を大切にしたいとと思う日が来るかもしれない。

 その時には、必ず謙吾が障壁となる。

 今までもあったことだ。

 晴翔が交際を承諾した女子達は、大体が「一緒にいたら好きになれるかも」という淡い期待を抱いた人達だった。

 それら全て台無しにしたのは、他の誰でもない、謙吾である。

 そう考えた時、やはりちゃんと話さなければならない、と晴翔は思い、体育館から生徒用玄関までの道程の中で、言葉を必死に纏めていた。

 もう間も無く、下駄箱前である。

「なんか、いいのあった?」

 先手を打ったのは謙吾だった。


***


「安海ってずるいよね」

 突然投げつけられたのはとんでもない言葉だった。

 土曜の部活はいつもより内容が濃い。午前中にロードワーク、終わったらみっちり基礎練、十二時に軽く飯食って、少し休んだらまたアップからスタートして総当たりのゲームを、延々とコートとメンバーを変えながら続ける。

 晴翔は今頃出掛けてんのかな、とか考えていたのに。

「……なにが?」

 女バドの二年生エースがガットのテンションを確認しながら、なんでもないようなことのように投げてきた言葉は不愉快なものだった。

「機嫌悪いの?俺なんかした?」

「いや、じゃなくて。安海、木崎の幼馴染ポジ利用してるよねって話」

「実際そうだし、なんか悪い?」

「なんでキレてんの」

 ずるいことなんてしていない。

 俺は晴翔の幼馴染だ。ずっと守ってきた。

「晴翔のなに知ってんだよ」

「身体弱い事とか?今も結構早退するらしいし、小学校の時ちょっとイジメられてたんだってね」

「ああ、アレね。最低だよな」

「なんで守ってあげなかったの?」

「クラス違ったんだよ」

「なるほどね」

「……で?」

 たったそれだけで晴翔を知った気になっている。

「晴翔の事好きなの?」

「そうだけど」

「は」

「なに?悪い?」

「練習再開するぞー」

 顧問の声に返事をして、スポドリをひと口飲んで立ち上がる。

 最後に投げつけられた言葉に胸が騒ついて、落ち着かない。

 ミスショットに気を付けないと、とそればかりに気を取られて決め切れない。

 いつもならストレートで勝てる同級生に一セットを取られ、無駄な力が入っていると自覚した。

 晴翔を好き?あいつが?ああ、クラス同じか。いや、それならこっそりやれよ。すぐ気付くけど。

 絶対、渡さないけど。

「ッシャア!」

 シャトルがフロアに落ちた。反射的に声を上げていた。

「立て直すん早」

「さすがだわー」

 なんて言っている同級生の声が聞こえて、落ちぶれてなんかやるものか、と食い縛る。

 スポーツ特待は窮屈だった。

 バドは好きだけど、そこまでガチでやっていた訳ではない。それなのに何校からか推薦が来て、一般入試じゃ難しいと思っていた晴翔の志望校がその中にあったから、軽い気持ちで進学を決めた。

 スポーツ特待生だけのクラスだから、気持ちはまだ楽だった。中学の対戦相手もいた。個人戦ならまだライバルだが、負けなしだし、と少し見下していた。

 実際、今も模擬戦で勝った。

 勉強は少し赤点のハードルが低くなるだけで、授業は正直、たまに何を言ってるのか分からない。

 それでも、晴翔に聞けば教えてくれるし、最悪他の奴に聞けばいい。

 馬鹿じゃないとは言っても、やっぱりそこそこの進学校では下から数えた方が早い時が多くて、何度後悔したか分からない。

「わざわざ樋泉にしなくてよかったのに」

「俺が来くて来たのー。だから、晴翔、おベンキョ教えて?」

「ったく……どこ分かんないの」

 少ない時間でも、晴翔と一緒にいたいだけなんだ。

山碕やまざき

「なに?」

 部活終わり、女バドの二年生エースを呼び止める。振り返ったそいつは少し眉間に皺を寄せている。

「帰る準備終わったら、もっかい体育館来て」

「……わかった」

 意を決したような顔をして、山碕は先輩や同級生と共に女子更衣室へと消えていった。

「なに、麗凪れなとケンカ?」

「違ぇよ。釘刺すだけ」

「は?また木崎絡み?」

「そうだけど」

「お前も懲りないよなぁ」

「つか、木崎って意外と女子にモテるよな」

 汗の処理をしながら無駄話をして、着替えをさっさと済ませる。

「つか、お前木崎に告ったってマジ?」

「……どこ情報」

「なんか、空き教室に連れ込んでるの見たって奴いるって」

「誰かは知らんけど俺も聞いた」

「ふーん、ま、どうでもいいけど」

「え、マジなん」

「どうでもよくね。興味ないっしょ」

「まぁな」

 荷物を纏め終えた奴らはさっさと立ち上がり、お先、と言って帰っていく。

「お疲れー」

「お疲れ様でした」

 と、先輩達に挨拶をして見送って、誰もいなくなった体育館で山碕を待つ。

 照明なんてとっくに先生が消している。それでも、まだ夕方だ。体育館の窓から射し込む西日が眩しい。

 静かに床を踏み締める足音がして、振り返ると山碕がいた。

「……お待たせ」

「別に。……ハァ、めんどくせぇな」

「出た、木崎に絶対見せない顔」

「うるせぇ。晴翔は知らなくていいんだよ」

 汗で薄く湿った髪を掻き上げて、山碕をじっと見る。いつもなら口説いて落として振ってるけれど、こいつにそれはやりたくないし、通用しない。

「俺が晴翔の事の事好きなの、知ってるよな」

「そうだね。だから、なに?」

「手ぇ出すなって事」

「でも、付き合ってないよね」

「うるせぇ、晴翔は俺の晴翔だ。今までも、この先も、ずっと」

「なんで言い切れんの。木崎はアンタのこと好きじゃないかもしれないじゃん」

「そんなの、気付かせなければいい」

「は?」

 意味が分からないと顔に書いて、山碕は目を細める。

「晴翔は、今まで誰かをちゃーんと好きになった事がないお子ちゃまなんだ。だから、まずお前が告ったところで成功する訳がない。俺が邪魔すると見込んでまず必ず振る。最悪、告ってもいいよ。それは許してやる。だって振られるのは分かってるから」

「……何人かは付き合ってたことあるよね」

「アレは晴翔が可能性を信じただけ。俺が別れさせてるって気付いてない時にな。お前も可能性を信じてる時の晴翔相手なら付き合えたかもね。今はもう違う。もう俺が別れるように仕向けてるのにも気付いてるし、離れていくのが悲しいから、最初から全部振るようになってるよ」

「悲しませてんじゃん」

「……そうだね」

 それでもいい。

 晴翔が誰の手にも渡らないなら。

「晴翔が俺を好きじゃなくてもいい。傍にいられればいい。俺じゃない誰かを好きにさえならなければいい。だから、俺は晴翔に好きって感情を教えてあげないの」

 この話を誰かにする時、自分がどんな顔をしているのか分からない。ただ、必ず——

「アンタのそれ、『好き』じゃないよ」

 と、不気味なものでも見たような顔をして言われるのだ。


***


 問われた時、晴翔は「いい事あった?」と聞き間違えていた。

「あー、うん。久しぶりに硬いパン食べたよ。美味かった」

「え、パン?」

「え?」

 晴翔の答えに困惑するも、そうか、硬いパンを食べたのか、と謙吾は思い、愛おしさを覚えた。

「ふふ、ちゃうちゃう。いいのあった?って、テーブルの話。買いに行ったんでしょ?」

「あ、テーブルか!ごめん、いい事あった?って聞かれたんだと思った」

「いや、いーけど、かわいいなぁ」

 上機嫌な謙吾を見て、晴翔は胸が痛んだ。

 もう、こんな笑顔を向けられる事はないかもしれない。謙吾は自分で「優しくない」と言っていた。では、この幼馴染という関係が破綻した時、一体どんな対応をされてしまうのだろう、と胸の奥が騒ついた。

「テーブルね、母さん達の好みの木材で作ってもらうって。優先的に作るけど、早くて年末になるかもってさ」

「オーダーメイドなんだ。人気なん?」

「それもあるけど、ちょっと珍しい木を使うらしい。バードアイ?メープル?だったかな。分かんないけど。あと、元々が結構暗い色調の家具ばっかでさ、うちには合わないなーってなったんだよね」

「ああ、晴翔ん家は全体的にかわいいもんね」

「それ、日内さんにも言われてた」

 しまった、と晴翔は思い、反射的に謙吾を見上げたのだが、晴翔の心配とは裏腹に謙吾は細波のように穏やかな表情だった。

「なんかあった?」

「いや、なんでもない」

 咄嗟に否定して、完全に失ってしまったタイミングを再び探る。

 この時間すらも、謙吾に操られているように晴翔は感じるようになっていて、少しずつ、自分が謙吾よりもダビドを信頼しているのではないか、と思い始めていた。

 あと十分も歩くと、自宅に着く。

「なぁ、謙吾」

 晴翔は意を決した。

 立ち止まり、言葉を整理する。

 その間にも、謙吾は二、三歩進んでいたのだが、ゆったりと、足を止めた。

「俺、謙吾の事を、幼馴染以上には見れない」

 謙吾が言葉を発する前に、晴翔はハッキリとした声で告げた。

 謙吾は振り返らない。

「好きとか、分かんない。今まで女子と深く関わった事ないし、大丈夫かなって思っても、いつも離れてくから、悲しい思いするなら、最初から諦めようと思ってた。けど、俺自身の好きは分かんないけど、謙吾の俺への感情が『好き』じゃないのは、俺分かったよ」

 この時、謙吾は深く後悔した。

 もっと早く、確実にダビドを晴翔から遠去けるべきだった、と。

「だから、きっと俺はこの先、謙吾と一緒にいても多分謙吾を好きになる日は来ないし、誰かを好きになる日も来ない。でも、俺は母さんと父さんとか、のんとか謙吾の父さん母さんも知ってるから、一個言える。俺は誰かと幸せになりたい。誰かをちゃんと好きになって、幸せになりたい」

 だから、ごめん、と晴翔は胸の苦しさに耐えながら肩を震わせて伝えた。

「……晴翔の出した、答え?」

「え……うん」

「誰かに、なにか言われたとかでなく?」

「うん。俺が考えて、俺が出した答え」

「……そっか」

 と、謙吾は力なく頷いて振り返った。

「晴翔が出した答えなら、仕方ないね」

 笑顔のはずなのに、その目は暗く澱んでいて晴翔はゾッとした。

「大丈夫、何もしないよ。今までみたいにベタベタしなくなるだけだから。あ、部活にも、来なくていいよ。なんか、間違ってシャトル打ち上げそうだからさ。ハァ……そっか。振られちゃったか」

 しゃーなし、と呟いて謙吾は晴翔に手を差し伸べた。

「最後にさ、今日だけ、手繋がせて」

 橙と紫の混ざり合った空の中、人通りの少ない道といえど、晴翔はそれに応えられなかった。

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