第9話-抜け駆けと挑発
父さんの運転する車は揺籠で、母さんの笑う声は子守唄だった。
小さい時は車に乗ると泣き止んで、深い眠りに就くのに、エンジンが止まるとぐずりだして、泣いて、二人を困らせたらしい。
パパ、ママ、なんて随分昔から呼んでいないのに、二人はその呼び名がお気に入りらしくて今でも一人称は変わらない。
少しだけ、恥ずかしい。
父は会社役員だし、母も社会人経験はあるから外ではちゃんとしているのに、家族だけ、もしくは仲の良い人達だけとなると、いつものふわふわした空気をすぐに纏う。
そんな二人が、俺は大好きだ。
「晴翔、起きてるかい?」
「ん、起きてる」
少しだけ眠いのを我慢して車に揺られていると、父さんがふわふわとしていそうな柔らかい声で問い掛ける。
「展示会って、どこでやってるの?」
「いつも使っているホテルの大広間だよ。大広間?宴会場?まぁ、基本は海外でしか取り扱っていないみたいだから、東京に店舗はないんだろうね」
「へー」
あんまり興味はないから、二人の趣味に合ういいのがあれば、それにしたらいいと思う。
俺にとって居心地のいい家は、母さんと父さんの居心地のいい家だから。
「かなり混んでるなぁ」
ホテルのエントランスはすぐそこに見えるのに、車の進みはかなりゆっくりで、バタバタとホテルのスタッフさん達が行ったり来たりをしていて、車の入りが多い事を顕していた。
「人気なんだね」
「うちの社長夫妻も見えるって話だよ。今日来るのかは分からないけど」」
「いつ会ったきりだっけ?」
「会長の奥様の誕生日パーティじゃないかな?」
「そうかも。二月だったかしら?お元気よねぇ」
「会長はしばらくご旅行に行かれてるらしいよ」
「いいわねぇ。ホカンスもゆっくり出来ていいけれど、たまにはどこか行きたいわね」
ゆっくりと、けれど着実に進みゆく車の列に揺られる。
「眠くなってきた」
「晴翔は赤ちゃんの時から変わらないなぁ」
「そんなことないし」
「そうよ、晴翔も立派な男子高校生なんだから」
「そうなんだよなぁ。まだ小学生でもいいのになぁ」
「なにもよくないんだけど」
成長しているのにずっと子ども扱いをする父さんと、ちゃんと成長を認めているのに少し揶揄うような母さん。
優しい声や細められる目元から、愛情を感じる。
「さーぁ、やっと我が家の番だ」
「パパが一番子どもみたいね」
「母さんに同感」
しっかりと背筋を伸ばしているのに、どこかリラックスした様子のホテルマンが見えて、父さんは楽しそうに声を上げる。
ホテルマンは柔和な笑みを浮かべると、深々と頭を下げた。
車を停車させると、顔を上げたホテルマンが助手席のドアを開け、母さんが降りると、今度は後部座席のドアも開けてくれた。
「ありがとうございます」
笑顔でお礼を言うと、同じように笑顔を返してくれる。それでも仕事をしている人らしく、父さんを気に掛けているようだった。
降りてから少しすると、エンジンが切れる。
ホテルマンは、待ってましたと言わんばかりに運転席へと向かい、ドアを開け、父さんが降りるのを待った。
「ようこそお越しくださいました。本日はご宿泊でしょうか?」
バタン、と静かではあるもののしっかりとした音でドアを閉め、ホテルマンは父に問い掛ける。
「いや、展示会を見に。やってるでしょ?」
「ええ、先程の方もそちら目当てで。……お預かりするお荷物はございますか?」
「大丈夫です」
「では、キーをお預かり致します。木崎様、でお間違いございませんか?」
「わざとらしいなぁ。合ってます、木崎です。よろしくね」
ニコニコと明るい笑顔の父さんに釣られて、ホテルマンも破顔する。母さんはそれを優しく見守っていた。
「もう覚えられちゃってるものね」
「月一では来てるもんね」
「ここでもイジられるのはなぁ、そんなにイジりやすいかなぁ」
「そうだと思うよ。結衣とかは父さんのことマスコットだと思ってるよ、あれ」
「ゆっチはそんな気がする」
のんパパと同じで、父さんも結衣の事はゆっチと呼んでいる。母さんもそう呼ぶから、うちはッッコミ不在の無法地帯だ。平和だけど。
「あ、折角だからブュッフェの予約に空きがあるか聞いてみようか」
「人気だし無理じゃない?」
「聞くだけ聞いてみようよ」
ロビーにはたくさんの人がいた。
朝食を楽しんだ人、ブュッフェを楽しみに行く人、チェックアウトをして、タクシーが来るまでの時間を潰す人、寛げるソファーで新聞を広げる人。
この穏やかな光景が好きだった。……のに——
「ハルトくん!」
今日は聞かないだろう、とたかを括っていた声が響いて、さっと血の気が引いていく。
「なん、なんで」
声が上擦って、足は逃げ出そうとして、身体は重心を後ろにして、今にも走り出そうとしている。
刷り込まれた悲しいクセだ。
「晴翔、お友達?」
「あ、いや、ちが……」
カツカツと靴底を鳴らしながら、一直線に俺目掛けてやって来るあの人は、きっと満面の笑みだ。
俺はまだ、あの人を見付けられていない。
「ど、どこに、いるっ……」
「晴翔?落ち着きなさい、パパもママもいるから」
嫌いな訳じゃない。もう最近はあの人自身への怖さも薄れている。それでも、やはりこの人が多い中でも瞬時に俺を見付け出す執着だけは、それだけは怖いと思ってしまう。
もうすぐそこまで来ている、と言うところで振り向くと、あの身体の大きな、獰猛そうでいて、その実穏やかな人がいた。
彼は嬉しそうな顔で俺を見てからゆっくりと、丁寧に一礼した。
(王子様、みたい)
御伽話のワンシーンのように。
「こんな所で会えるなんて……運命としか言いようがないとは、思わないかい?」
ゆっくりと顔を上げると俺の両手を取って、ギュッと握る。熱い温度に、心臓が跳ねる。
「晴翔……?その、お友達……で、あってる……?」
パパ初めて会うんだけど、と目を丸くした父さんが問い掛けてきて、どう答えようかと思考を巡らせる。
友達?いや、最近少し話をするだけ。仲が良いとかじゃない。付き纏われてる。じゃあ、それって——
「ス、ストーカ——」
「ハルトくんのご両親ですね!
「はぁ……」
日内ダビドは、それ以上話さないように、とでも言うように、俺の口元に人差し指を立てた。
それに父さんと母さんはびっくりしていて、この人の話している事は殆ど耳に入ってきていないようだった。
「あ、待って?」
「ええ、いくらでも」
「あの、え?……日内さん?」
「ええ、日内です」
その言葉を聞いて、父さんは少し考えてからジャケットの内ポケットに入れていた紙切れを取り出した。
カサカサと広げていくと、それには『招待状』とある。
「これの?」
「ああ、お受け取りいただけたのですね!安心しました。私が父に頼んで送らせたのですが、それがあるとセミオーダー家具も優先的にお受け出来ますから——」
「あ、あの、待って?」
「ええ、いかがされましたか?」
「あー……どこかで、会ったことありました?」
と、他所行きの窺うような顔付きで父さんは言って、へへ、と困ったように笑う。
「いえ、今が初めてです」
「あ、そう……晴翔が、住所教えたの?」
「教えてない」
「こちらで調べさせていただきました」
「あー……そう」
目を丸くしたまま、父さんは諦めたように返事をして、わざわざありがとう、と招待状への礼を言う。
「ぜひごゆっくりご覧ください。父も喜びます」
「あ、ああ。そうさせていただくよ」
「失礼しますね」
母さんが柔らかく微笑んで、クイッと父さんの腕を引いた。
三人揃って背を向けようとした時、手を掴まれた。
「……なに?」
きっと父さんと同じ表情をしているに違いない。
***
息子を引き止められ、木崎夫妻は困惑した。それは晴翔も同じで、少しばかり考えてから、両親に顔だけ向け、
「向こうで話してきていい?」
と、念の為聞いてみた。
「あー……あ、じゃあ、パパ達はブュッフェが空いてるか聞いてくるね」
「わかった」
引き止められたとて、時間を作る必要はなかった。だが、邪険に扱うのも気が引けて、結局ダビドの願いを叶える形になってしまった。
晴翔の私服を見てダビドは、らしくない、と直感で思った。
晴翔ならパープルは選ばない、と本能的に理解していて、実際晴翔の趣味はグレーやブラウン、ネイビーと言った彩度の低いものだった。
だが、晴翔にはこの薄いパープルがよく似合っていた。それもあり、ダビドは自分の中にあった考えを訂正した。
「よく、似合っているね」
「ああ、服?典昭の親がやってるブランドのだよ」
ダビドは目を少し伏せ、典昭の顔を思い出そうとした。
すらりと背の高いシルエットは思い出せるのだが、顔は輪郭すらはっきりとしない。晴翔だけを注視していたから、ダビドはその周りにいた——時に、彼の前に立ちはだかった青年達のことなど、覚えていないのだ。
よって、ダビドは早々に典昭の顔を思い出すことは諦め、晴翔との会話に集中しようと決めた。
「親がやってるブランド?adattarsizmのデザイナーなのかい?」
「うん。典昭の母さんがデザイナーで、父さんが作る方やってる。おじさんはテイラーだから、オーダーメイドスーツの店もやってる」
「ああ、彼が」
テイラーと聞いて、やっと典昭の顔が浮かんだ。とはいえ、ダビドの記憶の中にある典昭の顔は、嫌悪感を露わにしたものばかりだった。普段は怒ることも殆どない、静かで優しい青年である。
「目が肥えている訳だ」
「典昭はセンスいいよ。これもシャツとスラックスの色選んでくれたの、典昭だし」
ふにゃりと微笑む晴翔は心底嬉しそうだった。週明けに顔を合わせた際には、きっと典昭に報告するのだろう。
「なんか、あったんじゃないの?」
「……そうだね。ハルトくんに、聞きたいことがあったんだ」
「なに?」
恐怖心が薄れていることもあり、晴翔は両親に『ストーカー』と紹介しようとした男の話に耳を傾けた。
「アスミ・ケンゴには、いつ返事をするんだい?」
キン、と耳鳴りがして晴翔の周りから一瞬、音が消えた。
それと同時に、様々な言葉が浮かんで晴翔は適切な物を選ぼうと必死に考えたのだが、どれが正解か分からず。
「なんで、知ってるの」
と、震える声で言った。
ダビドは晴翔が動揺していることを理解していたのだが、それはそれとして、純粋に問いへの答えを求めた。
「あの男が、僕に言わないとでも?随分と余裕そうに報告してくれたよ。君に想いを伝えた、あとは返事を待つだけ。その間君があの男を無視することはできない、とね。なぜそう言い切れるのか疑問だったが、ハルトくん、君は優し過ぎる」
濁流のように流れ込んでくる言葉を、晴翔は必死に咀嚼した。咀嚼し、飲み込もうとしても喉につっかえ、咽せてしまう。そんな言葉ばかりが、いつもは穏やかに、ただ自身の話と晴翔への好意を伝えるだけの唇から紡がれている。
「あの男は、君のそんな優しさに漬け込んでいるんだよ。あんなの、ただの醜い執着だ。君だって、それは理解しているんじゃないのかい?」
「あ、アンタは、関係ないじゃん。俺と謙吾のことなんだからッ——」
「関係ない……?」
晴翔は恐怖した。
ダビドはこれまでに見せたことのない怒りを露わにし、晴翔の腕を強く掴んだのだ。
「関係ないなんて、なぜ言える?僕はこんなにもハルトくんを想っているのに。僕は君を愛している。それなのに抜け駆けをされた挙句に挑発まで。僕は怒っているんだ。本当なら、今すぐにでもここから連れ出したいとまで思っているんだよ?」
「アンタのそれだって、し、執着だろ」
「あんな男のものと一緒にしないでくれ。誰彼構わず威嚇して、君だってそれが異常だと分かっていただろう。それなのに——」
「すまないんだけどー……もう、いいかな?」
間延びした、穏やかな声が制止する。
晴翔は見ずとも、声の主が父であると分かっていた。
「あれ?のん?」
「やほ」
そして、その隣には見目の整ったスタイルの良い志戸一家がおり、晴翔は素っ頓狂な声を上げた。
「なんか騒いでんなーって思ったら、アンタなにしてんの」
「コラコラコラ、閑架、滅多な口利くもんじゃないよ」
「……とりあえず、晴翔も行くよ。みんなで周ろって話になったから」
「え、あ……うん」
穏やかで強引な閑架に圧倒され、晴翔は返事をし、従うしかなくなった。
「そういうことだから、ごめん。また……いや、しばらく、体育館には来ないで」
お願い、と最後に告げ、晴翔はダビドの手を柔く掴み、自身の腕を離すよう促した。
じんわりと熱く、少しだけ痛み、ダビドの想いのようだと、晴翔は思った。
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