第8話-幸せ家族の団欒
とある水曜日、晴翔は早退した。
体調が悪い訳ではない。矯正器具を外すだけなのだが、どうしても土曜や学校が終わってからの時間に予約が取れず、泣く泣く早退することを選んだのだ。
晴翔にとって早退はよくあるとこである。
貧血や発熱は月に一、二度晴翔を襲い、彼の進級を危うくさせていた。
体調が優れないまま車に揺られ、それによって悪化する吐き気に見舞われるばかりの早退なのだが、この日は違った。
体調はすこぶる良いし、天気もかんかん照りの太陽を浴びるわけでもなく、気温が茹だる程暑いということもなく、何もかもが晴翔のためを思って働いているような、心地の良い日であった。
矯正器具を外したとて、何もしない訳ではない。リテーナーで元の位置に戻ろうとする歯を固定しなければならないし、メンテナンスもある。
それでも、晴翔にとっては器具が外れるというだけで、十分に幸せなことだった。
器具が汚れるからと食べずにいたカレーライス。絡まるからと我慢していたラーメンやパスタ。
本当は食感の硬いベーコンエピやバゲットも食べたいし、閑架の父が焼いたスコーンも食べたい。クロテッドクリームと合わせると絶品なのだ。
我慢していた反動で、胃袋のキャパシティなんて無視をして、全部食べてしまいそうだ。
……とはいえ、晴翔も流石にそれは無理だと理解している。
歯科医院へと向かう晴翔の頭の中は「今日はコレを食べる」「明日はアレ」「明後日は……」と、食べたいものを食べられる分だけ、どの順番で食べるかを決める事で頭の中はいっぱいだった。
自動ドアの開く音と、駄々を捏ねる子をあやす母親の声、小さく流れるワイドショーで繰り広げられる濁声の批評。
それらを他所に、晴翔は受付に診察券を出した。
「こんにちはー、掛けてお待ちくださーい」
定型句で対応する受付の女性に言われるがまま、晴翔はソファーの空いているスペースに身体を小さくして座り込んだ。
駄々を捏ねていた女の子と目が合って、ジッ……と見詰められる。小さな子どもの相手なんて殆どした事がない晴翔は困惑し、とりあえず笑ってみた。が、それでもジッ……と眉ひとつ動かさずに見詰められ、晴翔は少しばかりのショックを受けた。
終わる頃に、母が迎えに来ることになっている。そのあとは久しぶりに外食をしようと話していて、晴翔は楽しみで堪らなかった。
「木崎さーん」
「あ、はい」
返事をして立ち上がる。
***
「法令線気になる」
「あら、ママとお揃いね」
「母さんはそんなに目立ってないよ。俺のヤバい」
「晴翔も気にし過ぎだよ。二人ともとってもキュートだ」
「年頃の息子にキュートはないんじゃない」
矯正器具を外し終えた晴翔は母と行きつけのイタリアンへ向かう途中、会社へ戻るところだったらしい父と遭遇した。どの道父も店で落ち合う予定であったから、このまま行こう、となった。
今は帰りの車内である。
ちなみに、今日は晴翔の『脳内食べたいものリスト』の『パスタ』を食した。
器具を外す目処が付いた日、晴翔は帰宅して早々母に「器具外れたらパスタ食いたい!」と、小学生男子のように目を輝かせて要望していたのだ。
母は当然それを快諾し、家族気に入りのイタリアンで実現させたのだった。
晴翔が矯正をしていたつ間も訪れていたのだが、いつもリゾットを注文していたため、晴翔はこの店のパスタを食すのは実に二年ぶりのことだった。
「でも、店辞めちゃうなんて勿体ないよね」
「仕方ないさ、実家の農家を継ぐって言うんだから、立派だよ」
「そうね。どこかで買えるのかしらね」
「また今度、閉めちゃう前に行って聞いてみようか」
「そうしましょ」
件のイタリアンは、どうやら年内を目処に店を畳むらしく、懇意にしていた木崎一家に店主は早めの知らせたのだ。
心優しい親子は揃って表情を曇らせたものの、今のように「立派だね」「応援してます」と、少し先にある店主の門出を喜んだ。
「そうだ、ダイニングテーブルの脚が少しガタガタしてたけど、買い替えたくない?」
後部座席に横たわってスマホで英単語の暗記をしていた晴翔だが、問われて自宅の大きなシカモアのダイニングテーブルを思い出した。
「いやー、気にはなるけど、そこまで」
「ママはお家にいる時間が長いから、替えられるなら替えたいな。ご飯の度に落ち着かないのはイヤよ」
「パパもママと同じだなぁ。それでなんだけど、近々日本ではなかなかお目にかかれないインテリアブランドの展示会があるんだ。晴翔も遊ぶ予定がないなら、週末みんなで見に行かない?」
この二人が買い替えたいと言うのであれば、それは実行される。晴翔は深く考えず「いいんじゃない」と答え、あわよくば自身の部屋のミニテーブルを買ってもらおうとしていた。
矯正器具が外れて、念願の頬が落ちる程美味しいパスタを食べた晴翔は、彼のことなどすっかり忘れていた。
そのくらい、この日晴翔は心穏やかで幸せな夜を過ごしたのだ。
***
優しい笑みで晴翔を見詰める黒曜石は、至福である、と語っていた。
「器具が外れたんだね。今はリテーナーをしているのかな?」
「うん。一昨日取れた」
「そうか。昨日は正面から顔を見ていないから気が付かなかったけれど、いいね。小さな口がとてもキュートだ」
「きゅーと」
放課後、追いかけ回される事はなくなったものの、頻繁に晴翔の隣、少し離れたところにダビドが座るようになった。
他愛のない会話をして、少しずつ晴翔はダビドを知る事ができた。
スペインとのハーフだが、イタリアに住んでいた為にイタリア語が堪能である事。それは彼のスペイン人の母も同じらしい事。六月の末にある中間試験が終わってから編入試験を受ける事。
「だから、もう少ししたら僕は正式にここの生徒なんだ」
「……正式な生徒じゃないなら、まだ出入り自由じゃないよね」
「ああ、だからいつも入校証をしているだろう?」
と、自慢げにダビドはネームストラップに入れられた『入校許可証 樋泉学園高等学校』とプリントしてある厚紙を晴翔に見せた。
晴翔は困った顔でそれを見て「めんどくさくないの?」と問い掛ける。
「まぁ、面倒ではあるが最近では事務員も僕を覚えているようで、なにも言わずともノートを拡げてくれるんだ」
「へー」
至極興味がなかった。
追いかけ回されないだけいいのだが、練習中の謙吾の視線が幾度となくこちらに送られているのを晴翔は分かっていた。
謙吾の告白への返事は、まだしていない。
あの慣れた、身体に馴染んだ空気がぎこちなくなってしまう事を晴翔は恐れていた。
返事をしていない事が謙吾を苛立たせている訳ではないのだが、やっとのことで告白した日とダビドが体育館に入り浸るようになったのは、奇しくも同日である。
数日間、晴翔の視線を独り占め——実際には英語の単語帳や数学の課題に向けられている——できていたと言うのに、ダビドに邪魔されていると感じられて、謙吾はそれに腹を立てていた。
それでも、部活の時間は晴翔を気にしつつも真剣に練習し、正規の活動時間が終わっても他の部員と同じように自主練習も欠かさず行っていた。
今はまだ、自主練習の時間である。
「なぜ、ハルトくんはあの男を遠去けないんだい?」
少しばかり遠回しな言い方であるが、晴翔は謙吾のことだとすぐに理解した。謙吾もダビドも互いのことを決して名前で呼ばないからだ。
「……幼馴染だから?」
晴翔は少しだけ考える素振りをして見せたものの、それ以外の理由がない、と言うように断言した。が、語尾は上がり調子で疑問系になっている。
それだけなのに、なんでそんなこと聞くの。
そう言っているかのようだった。
「それだけ?」
晴翔のキョトンとした顔が、納得していないように見えたダビドは聞き返し、彼のリアクションを待つ。
「え、うん……なんで?」
友人のような二人のやり取りは、事情を知らない者が見れば極自然である。
だが、ここに謙吾を交えたなら、どうだろう。
「晴翔、帰ろ」
あの日と、抑え込んでいた想いを晴翔に告げた日と同じように、謙吾は階下から愛しい人を呼ぶ。
努めて優しい声色で、ダビドへの嫌悪感を必死に隠した眼差しで。
「あ、うん。じゃ」
バサバサと帰り支度をし、晴翔は細腕にスクールバッグを引っ掛け立ち上がる。
短く、まるで明日も会うのが当然であるかのように、ダビドに別れを告げた。
「ああ、また明日」
「いや、明日休みだろ」
今日は金曜日。
唯一それを覚えていたのは謙吾で、口角を上げてダビドに吐き捨てる。
「あ、そっか」
「……そうなのか」
「そうだよ」
じゃあな、と勝ち誇ったように晴翔の肩に腕を回し、謙吾は部室までの道を辿る。
「まだ準備してねぇんじゃん」
「いーじゃん?細かいこと言わないの」
「俺外で待ってるから」
「おけおけ、すぐ行くね」
ニコニコと機嫌良さそうに微笑んで、謙吾は幸せそうにした。
実際幸せだった。正直なところ、色好い返事などもらえなくても良いと考えていた。
もらえるのなら欲しいところだが、欲を丸出しにした自身を前にした後でも、晴翔の態度が変わらないことが謙吾にとって幸福だった。
「明日も部活?」
「そうだよー。晴翔は?なんか予定あんの?」
「家具の展示会?に行く。ダイニングテーブル買い替えるってさ」
へぇ、と呟いたのだが、謙吾の中で引っ掛かった。
家具の展示会、どこかで聞いたような……、と。
だが、それは思い出されず。
「いいの見付かるといいね」
と、優しく微笑むに終わった。
***
朝から機嫌のいい父に起こされ、晴翔は少しだけ機嫌が悪かった。
しかし、今日は家族で出掛ける日である。
「展示会にはきっと知り合いもいるから、ちゃんとした服を着るんだよ。菅生さんに繕ってもらったやつにしなさい。あれは晴翔に良く似合うし、パパのお気に入りです!」
と、ニコニコ笑顔で至極機嫌の良い父に言われ、晴翔は寝惚け眼を擦りながら「わかった」と返すのがやっとだった。
「あと一時間で出るからね。ちゃんと用意するんだよ」
「んー……」
のそのそと布団から顔を出し、ドアの方を見遣ると、父が笑顔で部屋から出ていくのが見えた。
あんなに楽しみにしてるなんて、と晴翔は冷たくあしらったことに居心地の悪さを覚えた。
父は父で、息子が年頃でありながら心優しいことを理解しているので、ちょっとしたかわいい反抗期、くらいにしか思っていない。
ただ低血圧で朝に弱いだけなのだが。
まだまだ眠たい晴翔だが、父の期待に応えるべく、ゆっくりと身体を起こして目を擦る。
ふぅ、と小さく息を吐いて、伸びをして。
「やるかー……」
と、やる気なさそうに呟いて、晴翔はそろりそろりと白い脚をカーペットに下した。
菅生典昭の父は、テイラーである。普段は自身の店でオーダーメイドスーツを仕立てているのだが、デザイナーである妻が描いた理想を現実のものとするための縫製係でもあった。
典昭はそんな夫婦の影響もあって、裁縫が昔から得意だった。
ダビドのスーツの仕立ての良さに気が付けるだけの目もあり、夫婦は彼に求められるがままアドバイスをしていた。たとえそれが文化祭で着るような衣装だろうと、友人へとプレゼントする、なんてことのないケースの類だとしても。
ブランドのモデルには、身長が一八二センチあり見目も整っている・ギャラ不要な典昭と、その彼女で身長が一六七センチある閑架をメインに使う事が多い。あまりベタベタとしたがらない二人は、ジェンダーレスな服をスラリと着させて並べるにはいいのだが、明らかなペアルック・ラブラブカップルを連想させるには味気ないので、そこはカップルインフルエンサーとして徐々に人気を上げてきている、結衣と勇哉が担当しいた。
二人の笑顔は眩しくザ・陽キャで、若者達にその存在を知らしめるいい起爆剤となった。
木崎家は当然、菅生夫婦が立ち上げたブランド『adattarsizm』を贔屓にしていた。
息子の友人が深く関わるブランドとなると、親バカな晴翔の父は「うちの晴翔を‼︎」と、当然推した。
色白、華奢、同年代の男子としては低いといえる一六二センチという身長。
ジェンダーレスモデルとして使うならいいのだろうが、ブランドディレクターである典昭の母には刺さらず。
「パーツモデルならどう?手にペンだこがなくて綺麗だし。あとは、そうね。首、色白で喉仏も目立たないから、チョーカーなんか付けてもいいわね。脚も、典昭や勇哉みたいにゴツゴツしてないし背も低いから、キッズモデルの代わりとか」
「それは流石に……」
「じゃあパーツモデルね。決まり」
と、パーツモデルとして起用されることが決まったのだった。
ちなみに、晴翔のクローゼットにある服はadattarsizmのものばかりなのだが、大半はメンズのSサイズか、トップスに限ってはキッズサイズの一六〇もある。
そんな中から、晴翔は薄いパープルのシャツと、グレージュのニットベスト、シャツよりも幾分か色の深いパープルのスラックスを選ぶ。
晴翔の父のお気に入りとはこのセットのことで、これにブラウンのローファをいつも合わせられるのだ。
まだ顔も洗っていない晴翔だが、スラックスとインナーシャツを着て、シャツとベストは抱えて部屋から出ると、リビングへと向かう。
「おはよ」
「おはよう。あら、またそのセット?」
晴翔が手にしている服を見て、母は少し目を丸くする。毎回ではないのだが、家族で出かけるとなった時、着ている率が高いと思ったのだ。
「父さんがこれ着ろって」
「ホントにお気に入りなのね」
クスリと微笑んだ母は、新聞に目を落としている夫を見る。彼は真剣に読んでいるらしく、晴翔がリビングまで来たことに気が付いてすらいなかった。
「無視してもいいのよ?」
「別に、何着るか決めてなかったしいいよ」
「なに話してるの……ああ、やっと来たね。早く準備しなさい。あとー……三〇分で出るよ」
「早まった」
「早くしなさーい」
まだまだ覚醒しない晴翔は、そんなに時間経ったっけ、と思いながら父に少しだけ反抗し、脱衣所へと向かった。
歯を磨き、顔を洗い。
晴翔は着々と身支度を済ませていき、寝癖も直し終えると、薄いパープルのシャツに袖を通した。
シャツの裾をスラックスにしまい込み、整えてからリビングへ戻ると、ソファーに掛けていたベストを、すっぽりと頭から被った。
「できたの?」
「できた」
「ご飯は何がいい?」
「あんまお腹空いてないよ」
「パパは志戸さんのカフェに行きたいなぁ」
「今日は休みだよ」
「なんだって⁈」
父の大声に晴翔とその妻は肩を跳ねさせ、そんなに?、と顔を見合わせる。
「なんか、家族で出かけるって」
「ふふ、うちと同じね」
「そうなのかぁ、それは仕方ないね」
残念、と呟いて時計を気にしてみせた。特に理由はない。
「今から作ってもらうのもなぁ」
「ママのとっておきならあるけど」
「とっておき?」
「なに?」
「カップラーメン。たまーに食べたくなっちゃうの」
「食べ過ぎなければいいんじゃない?」
「ママはもっと栄養あるもの食べないと!」
「ご飯、どうします?」
妻の言葉に夫は押し黙り。
「とりあえず、テーブルを見に行こう」
と、やっとのことで紡いだ。
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