第7話-独占欲と庇護欲

 ラケットをスイングする音、標的をしっかりと捉えた音、カチャカチャとおもちゃを鳴らすような軽い音で満ちている第二体育館で、晴翔は胡座をかいて床に座り、背を壁に任せて古典の単語帳を読み込んでいた。

 今は放課後である。

 晴翔は謙吾から体育館にあるギャラリーで待っているように言われた日から、その通りにし、謙吾の部活が終わるのを待っていた。

 最近の晴翔はHRが終わると、真っ直ぐスポーツ特待生がひしめく七組の教室を訪ねるようになっていた。当然、晴翔より体格の良い男女で溢れているのだが、晴翔を認めると皆「安海ー」と、謙吾へと顔を向け、ニヤリと笑み、

「ハニー来てんぞ」

 と、言うのが決まりとなった。

 そして、晴翔は決まって「違うっつーの」と、ムッとした顔で否定する。

 謙吾のクラスでは、二人は付き合っているも同然という扱いである。そんな事実は存在しない。

「また来てくれたん?迎え行くのに」

「いいよ、ウチの担任テキトーだから早く終わるし」

「んふ、ありがとー。行こか」

 嬉しくてたまらないという顔で、謙吾は晴翔の背に手を回しエスコートする。誰かが口笛を吹くと、それに呼応して冷やかす声が上がった。

「アレ、どうにかしてくんない?」

「え?いーじゃん。なにがダメ?」

 試すように、謙吾は聞いてみた。

 普通であれば「付き合ってないのに」とか「気分悪いから」とか、そんな言葉が返ってくる。だが、謙吾は知っているのだ。晴翔から出てくるのは、そんな言葉ではない、と。

「恥ずいって。いくら幼馴染でずっと一緒でも、あんなカップルみたいなさ」

 幼馴染。

 謙吾にとっては都合が良いようで悪い関係。

 晴翔と、あのほんわかとした晴翔の両親から信頼されている。

 謙吾の望む形ではない。

 幼馴染から脱却したくて堪らない謙吾は、必死にアピールをしていた。明確に好意を伝えている訳ではないが、晴翔以外はしっかりと理解していた。

 ああ、安海は木崎が好きなんだな、と。

 入学当初から周囲は勘付き、ただ二人を見守っていた。くっ付くのは時間の問題だと思っていたのだ。だが、実際には想定よりもかかっており、高校二年の六月となった今でさえ、その気配は一切ない。

 当然、原因は晴翔の鈍感さにある。

 直接的な言い方をしない限り、晴翔は謙吾の全ての行動を『過保護』で済ませる。今も昔も変わらない、晴翔を想って行動する謙吾のお節介は、全てそれで済まされていた。

 何とも可哀想な男である。

「……じゃあ、なってくれんの?」

「え?」

 踏み出してみよう、と謙吾はこの時決心した。

 今まで献身的にしてきた全ては、自分の『特別』だから晴翔に与えたのだ、と謙吾は言おうと決めた。

「俺ね、実際そんな優しくねぇし、晴翔以外はどーでもいいんだよね」

「……はぁ」

 直球ではない言い回しに晴翔は一度首を傾げ、高い位置にある謙吾の表情を窺おうと見上げる。が、グイッと手首を掴まれ、人のいない講義室へと連れ込まれた。

 ガチャッ、と鍵を掛けた音が響く。

「晴翔を独り占めしたいし、あんなストーカーに触れさせたくもないし、ぶっちゃけのりとかのんとか、あいつらと仲良くしてんのもムカついてる。俺だけの晴翔に、何でできないんだろうって、ずっと考えてた。……もう、いい加減やめたい。やめさせて、お願い」

 箍が外れたように、しかし静かに謙吾は思いの丈を並べる。晴翔は一つ一つをしっかりと聞き取れていないものの、大事な話である事はその真剣な声色から察した。

「俺、晴翔の彼氏になりたい。もっと近くで、晴翔を大事にしたい」

「……は」

 木製のしっかりとした作りのドアの向こう、すぐそこの廊下は人で溢れているのに、晴翔の耳には謙吾の鼓動と息遣いだけがはっきりと聞こえる。それ以外は遠くの世界にあるような、ぼんやりとした音でノイズでしかない。

「……すぐじゃなくていいよ。いつか、答え聞かせて」

 答えられないまま、晴翔は謙吾の腕の中から解放され、その時やっと、ああ、俺は抱き締められていたのか、と理解した。

 見上げると、柔らかい笑みを浮かべる謙吾がいて、それだけがいつも通りだった。

 あれから数日が過ぎた。答えはまだ出ていない。

 それでも、晴翔はHRが終わると謙吾のいる七組を訪ね、部活に励む謙吾をたまに見ながらテスト対策をし、共に家路を辿った。

 晴翔は有耶無耶にしてしまおうかとさえ思っていた。

 意識した事がなかったのだから当然である。

 晴翔にとって謙吾は幼馴染でしかなかった。

 自分の両親と謙吾の両親のように、家族ぐるみの付き合いをする仲になると信じていた。

 彼氏になりたい、なんて今まで言われたことがない。

 小学生の頃に変質者に声を掛けられた事はあるものの、それも謙吾によって何事もなく終わった。

 いや、彼氏って、俺も男だし。

 と、そう答えようと思うものの、謙吾はそれを理解した上で言っていることを晴翔も分かっている。だからこそ、頭を悩ませているのだ。

「やぁ、ご機嫌よう。ハルトくん」

「?!」

 鼓膜を撫でた低音に肩が跳ね、反射的にバッグを抱えて距離を取っていた。

「な、なん、で」

 この約二週間で嫌という程聞いた声を聞き間違えるはずもなく、見た先にいたのは褐色肌の美青年である。

「そんなに怯えないでくれないかい?…‥少し、話をしよう。日内・アントーニオ・ダビド、今年十八になる、君の一つ上の学年だ」

「……一個上?」

 こないだも聞いた、と改めて名乗るダビドを前に、晴翔は眉尻を下げ、どうしたものかと考えた。

 この現場を見れば、きっと謙吾は目くじらを立てて怒るだろう。そして、有りもしない話を——具体的には「晴翔はもう俺のだ」という旨の話を——して、今度は目の前の男に詰め寄られるだろう。と、どう転んでも面倒である事必至の状況を、どうにか打開できないかと頭を悩ませた。

 そんなものある訳がないのだが。

 実際、謙吾は部活中であるからダビドに掴み掛かっていないだけで、彼が春翔の傍にいる事には気が付いている。本当なら今すぐにでも晴翔を自分の背の後ろに隠し、触れるなと言いたいのだが、バドミントンの特待で入学した手前、自主練習といえど部活を疎かにする訳にはいかなかった。

「僕は君に危害を加えるつもりはない。少し話をしたいだけなんだ。その……あの日は、つい舞い上がってしまって、つい……すまなかった」

 しょんぼりとしたような、初めて会った日の高揚したものではなく、散々追いかけられた後、あのスナックが建ち並んでいた通りで聞いたような切実なものだった。

「あー、いや。俺も急だったから、その……」

「ハルトくんは何も悪くない。僕が行けないんだ、いつも、それでジュストに怒られる」

「ジュスト?」

「ああ、いつも僕と一緒にいるだろう。見るからにやる気のなさそうな」

「あ、あのお兄さん」

「そう、僕の二つ上で、兄のような人なんだ」

「へぇ」

 ただ顔を知っているだけ、数日前に助けを求めただけの彼の名前を知り、晴翔は少しだけ安心感を覚えた。

 そして、自身を追う彼らに抱いていた恐怖の正体が『知らない』ことによるものと理解した。

 よって、知っていけば何ともないかもしれない、と呑気に晴翔は考えた。

「で、……話って?」

 だから、晴翔は聞いてみることにした。その必要がないことは、頭では理解している。だが、今目の前にいる、濡れた大型犬のような穏やかな彼の話ならば、耳を傾けてもいいように思えた。

「ありがとう。少し前にも説明したと思うが、ユイとは幼い頃によく遊んでいたんだ。ユイもイタリアにいてね。同じアパートメントに住んでいたんだよ」

 ヤンチャでねぇ、と流暢に話すダビドに、晴翔はただただ感心した。見た目は日本人らしくないし、結衣から聞いた所に依ると、これまで日本に来たことはないらしかった。それなのに、これ程まで話せるとは、と少しの感動を覚えていた。

「すごいね」

「何がだい?」

 弾かれたように疑問符を浮かべつつ、バッグを抱えて座ったままの晴翔の顔を覗き込むダビドの目は優しい。

「日本語って、難しいってよく言うじゃん」

「ああ、とても難しいよ。父と話す時もイタリア語を使う方が多いからね。学ぶのは一苦労だった」

「独学なの?」

「そうだよ。どこか、おかしな話し方をしていただろうか」

「ううん。発音は少し違和感あるけど、文法とかは完璧。だから、すごいなぁって思った」

 人見知りの晴翔だが、会話はせずとも何度も顔を合わせていたからか、ダビドとは難なく話せた。見かけによらず話しやすいと分かり、晴翔は心を開きかけている。

「……ねぇ、俺のこと、どこで知ったの?」

「!……ああ、えっと……昔、アートで賞を取ったことはなかったかい?」

 嬉しい心地でいたダビドは、晴翔に問われ、ブワッと感情が溢れるのを実感したのだが、自制した。

「え……?」

 問われ、晴翔は記憶を辿った。

 思い至ったのは小学生の時の絵画コンクールだった。拙い線で、色使いで描いたのは、病室から見た桜だったのだが、訴えかけるものがあったらしく、大賞ではないものの表彰されたのだ。

「ある、けど……え、あの集合写真、ので?」

「いや、正確には、またまた父の知り合いの子も同じく賞を取っていて、その伝手で知ったんだ」

「そ、なんだ」

 まさかまさかと思いつつ、晴翔はバッグを抱き締めていた腕の力を僅かに緩める。ダビドはそれを認め、柔く笑んだ。

「綺麗だと、思ったんだ」

「……俺が?」

「ああ、僕の母はスペインの生まれだから、お姫様の話をよく聞かせてくれてね。ハプスブルク家は知っているかい?」

「知ってるけど、あんま詳しくはない」

「いい歴史ではないからね。けれど、僕はあの白い肌に魅了されてしまったんだ」

 言いながら、ツ、と手を伸ばしてダビドは晴翔の細腕に触れた。

 静脈が浮き、青白く見える肌は陽に弱い。

「君を見た時、その血を引いているのかと思ったんだ」

「……血?」

 ダビドの言うところを理解できず、晴翔は考えてから聞き返した。

 ゆっくりと頷き、ダビドは幸せそうな顔で晴翔を見詰めた。

「君が、青い血……を引いているのかと思ったんだ。……あまりいい意味で使われることはないが、僕はその歴史すら愛おしく思っているんだ。必要以上に必死で、滑稽だとしても」

 自身の青白い肌を嫌う晴翔にとって、気持ちのいい話ではない。こんなののなにがいいんだ、と眉間に薄く皺を寄せ、口をへの字にした。

「そんな顔をしないでくれ。ハルトくんのコンプレックスなのは知っているが、僕にとってはチャームポイントなんだよ」

「チャームポイントて……」

「晴翔」

 暗くなった体育館に、不機嫌な声が響く。

 しっかりと張られていたネットは緩み、あちらこちらに転がっていたシャトルは綺麗に片付けられている。

「帰ろ」

「ああ、うん」

 晴翔とダビドが静かに言葉を交わしているうちに、男子バドミントン部の本日の活動は終了していたのだ。

 階下には汗の処理も着替えも済ませた謙吾がおり、当然額に青筋を浮かべていた。

「クソストーカー、お前ついに無許可で入ってくるようになったのかよ」

「人聞きが悪いな、僕は校内見学をしていたんだよ」

「……見学?」

「ああ、どんな施設があるのかと思ってね。最近ユイ達と一緒にいないとは思っていたが……なるほど」

 彼の仕業か、と呟いてダビドは呆れたように謙吾を見て溜息を吐く。

「君はハルトくんのなんなんだい?」

「お前には関係ねぇだろ」

「まぁ、そうだな」

 再び溜息を吐き、ダビドは片眉を吊り上げる。渋い顔をして晴翔を見遣り、その肉の薄い頬に手を伸ばした。

「もっと、自由に生きてほしい」

「え?」

 なにを言うのだろう、と晴翔は思い首を傾げた。晴翔が疑問を口にするより早くダビドは立ち上がり、階下へと降りていく。

「今日のところは、これで失礼するよ。またね、ハルトくん」

「え……あ、うん」

 穏やかな別れに戸惑いながら、晴翔はダビドの言葉に頷いた。

 謙吾はこれに不快感を示す。分かりやすく眉間に皺を寄せ、人好きのする顔を歪ませた。

 ダビドはそんな謙吾を見て少し考え、適当な言葉を探した。

「独占欲と、ヘゴ欲は似て非なるものだよ」

「ヘゴ……?」

「あれ、漢字は出てきているんだが……」

「……ッチ、お前には関係ねぇだろ」

 脳内で変換をした謙吾は舌打ちし、ダビドを睨み付ける。だが、そんな謙吾を物ともせず、ダビドは体育館を後にした。

 その背に目もくれず、謙吾はギャラリーへと上がり晴翔肩を柔く抱く。

「晴翔、大丈夫か?」

「大袈裟、なんもされてねぇよ」

「……そ」

 晴翔の中でダビドへの認識に変化が起きたことを悟り、ダビドの言葉を反芻し、謙吾は苛立ちを覚えた。

 分かったような口を利きやがって、と。

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