第6話-木崎晴翔の家族
「ただいま」
リビングからぼんやりと射す白い光は玄関に灯ったオレンジに相殺され、何もないのと同じにされていた。晴翔はその見慣れた灯りに興味を示さず靴を脱ぎ、リビングのドアへと手を伸ばす。
「おかえり。どこか寄ってきたの?」
開かれたドアの向こう。晴翔に似て色白で細身な女性がダイニングテーブルに掛けていた。晴翔の母だ。
彼女も身体が弱く、社会に出ていた数年の間も月に一度は病院へとかかっていた。家庭に入ってからは優しい夫に甘やかされ愛され、保護を受けているからか体調は安定している。だが、流行病には罹りやすく、ちょっとした買い物に行く時でさえマスクを必ずしている。
「ただいま。のんのとこで勉強してきた」
「志戸さんのカフェ?」
「うん」
「そう。今度お礼持って行かなきゃ」
「俺が渡しておくよ」
「じゃあ、明日買ってくるね」
「ありがと……無理しないでね」
晴翔は少し悩んで言葉を選び、一度口元にムッと力を入れた。選ばれた言葉は優しいもので、晴翔の母はそれに嬉しい気持ちになり、ふふふ、と柔らかく笑んで「晴翔もね」と感謝を込めて優しく言う。
晴翔は父と母に似て、優しい子に育った。
両親はそれを心の底から喜んでいて、ふとした拍子に「うちの子、いい子に育ってくれて……」と周囲に溢す程だった。
晴翔は確かに誰に対しても優しい少年で、言葉遣いこそ周囲の少年らと大差ないが言葉の丸さはその倍と感じられる。
誰かを助けようとする姿勢は人一倍ある。断られることの方が多い——それは晴翔の非力さによる——が、必ず感謝された。
例えば、英語の教科担当がノートを回収したノートを職員室へ運ぶよう日直へ指示をしたとする。その日の日直が好きな女の子でもない限り、大抵はそれをそのままに、「あ、よろしく頼むわ」くらいの軽い気持ちで見送って、おのおのその後の時間を過ごしたいように過ごすだろう。一部の邪な男子は「手伝ったらなにかある⁈」とオプションにばかり気が行ってしまい、その下心は見透かされ揶揄われる。
しかし、晴翔はそんなことに構わず声を掛けるのだ。
「手伝うよ。半分持つ」
と。
優しい笑みで薄い色素の唇を引き伸ばし、零れ落ちそうな瞳を束の間、瞼の裏へと細めてしまい込んで。
そして、いつも男子諸君は思うのだ。
やられた!けど、お前女子より非力だから!と。よって、真に日直の女子生徒を想う男子は、晴翔を制して立ち上がり、
「い、いや、木崎だと腕取れるかもだから、俺が行くよ」
と、勇気を振り絞り、羞恥心や緊張に押し負けずに声を上げるのだ。大抵、これは成功する。
女子生徒も、二人から手伝いを申し出られて嬉しくない訳がない。良い気持ちで「じゃあ、いい?」と、微笑んで彼に半分——どころか、どさくさ紛れに三分の二程——を渡し、音符を飛ばしながら彼女は先導し、男子生徒はノートの重さなんて忘れる程舞い上がってその後ろをついて歩く。
これによって交際を始めたカップルは少なくない。晴翔は密かに恋のキューピッドにもなっていた。
晴翔に恋している女子も少なくなかった。
色白で非力で、男らしさと無縁であるし、容姿も整っているとは言い難い。見た人から「眠そう」と言われる目元を頑張って開いてはいるものの、やはり覇気のない印象だ。
それでも、彼女達にとってはそれが良いらしい。
鼻も高くなく、本人は気に入っていないのだが、スッキリとした形が女子からは好まれていた。
笑う時には口元を隠す癖がある。これも一部の女子には人気の仕草である。色白で華奢な身体と相まって、儚げだというのだ。歯列矯正をしているためについた癖なのだが、そんなことは彼女達にとってどうでもよいことであった。今年中には外せるだろう、と歯医者で言われている。晴翔は、今はそればかりが楽しみだった。器具が外れた暁には、カレーやラーメンといった矯正器具を着けている時に食べるのを憚られるものを、たらふく食べることを夢に見ている。「たらふく」といえど、晴翔のそれは勇哉や謙吾の四分目、典昭の五、六分目である。
「お腹は?」
「あんまり空いてない」
「そう。食べたくなったら言ってね」
「うん」
ありがと、とへにゃりと微笑んで見せ、晴翔は自室へと向かう。
可能な限りの教科書をロッカーに置いている晴翔のスクールバッグは、ペラペラに薄い。登下校時に持っているのはルーズリーフとペンケース、電子辞書が入っているだけである。
ノート提出はルーズリーフでは受け付けられないので、板書をルーズリーフに書き写し、勇哉らと勉強会ではノートにそれを整理していた。自宅では問題集や赤本を解いて、理解を深めている。成績はまぁいい方であった。
真面目なわけではなく、これが晴翔に合っている勉強の仕方で、中学の三年間でやっと辿り着いたものだった。
スマートフォンが鳴り、晴翔は何気なく液晶へと目を滑らせた。
典昭からである。が、晴翔はそれにすぐ目を通さず、一度画面を机に伏せ、明日の教科を確認した。
ここのところ、いつもヘトヘトに疲れて帰っているからか、忘れ物が教師から多く注意されていたのだ。それもこれも、原因はあのダビドにある。
体力のない晴翔を追いかけ回し、引き止められた日には質問攻めにするのだ。疲れ果てた晴翔は平常の優しさを忘れ、邪険に扱い、悪感情を隠さず接する。言葉も粗雑になるし、乱暴に拒絶をしてしまう。
晴翔だって、本当ならそんなふうに振る舞いたくない。疲れとストレスから、それをぶつけてしまうだけなのだ。
そして、ダビドが立ち去り、自宅に帰って落ち着いた暖かな布団の中で、晴翔は思い出す。
ダビドの健康的な体温と、包み込む優しい腕を。
今日話してみて、やはり話の通じない相手だと認識した。それと同時に、彼の暴走は行き過ぎた好意からであると確信した。
最初から、確かにダビドは晴翔に好意を伝えていたのだが、晴翔はそれをまともに受け取っておらず、ただ揶揄われているのだと思っていた。だから、ただ不快で、怖くて、会いたくない男だと思い込んでいた。
好意への応え方を、晴翔は知らない。
女子から「付き合ってよ」と、言われようものなら「どこに?」と素で返してしまう天然恋愛フラグクラッシャーなのだ。それが一度や二度ではないし、そう言われた女子達も、なぜかそれで満足してしまうのだ。
「晴翔を汚すとか無理だ」
「業が深すぎる」
「木崎はそのままでいてね」
彼女達は、そう深く思うのだ。
しかし、例外もある。
「好きです。晴翔の優しいとことか、可愛いとことか。……私と、付き合ってください!」
と、意を決してされた、しっかりと文脈から「これは告白だ」と、分かるものだ。
これに、晴翔は決まって、
「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、迷惑かけたくないから、ごめんね」
と、言って断っていた。思わせ振りな間などなく、その場で、だ。
晴翔が迷惑を掛けるのではない。謙吾が掛けるのだ。
結衣にも『強火セコム』と称されている謙吾は、晴翔が誰かに告白されたと知るや否や、その女子を呼び出し、自分へと鞍替えさせようとする。
表面上優しく、逞しいスポーツマンの謙吾に陥落しない女子は、そうそういない。
だが、稀にそうではない女子がいて、粘りに粘って落とそうとする謙吾に嫌気がさし、晴翔から離れていくのだ。
そうなると、晴翔は「またか」と悲しくなり、少しだけ謙吾を嫌いになる。わざわざなぜそんなことをするのだろう、と不思議で仕方なくなるのだが、聞くとまた面倒なことになりそうで、晴翔はずっと理由を聞けずにいた。
簡単なことなのだが。
明日の準備を終え、部屋着に着替えを済ませた晴翔は、今度こそ典昭からのメッセージを開いた。
明日カラオケ行くけど、どうする?
と、短く用件だけがそこにあり、晴翔は同じように短く、やめとく、と返した。
晴翔は暗く狭い空間が苦手だった。幼い頃、隠れんぼをしていて押入れに隠れた時、襖がずれたことで出られなくなってしまったことがある。出られない焦りと恐怖から過呼吸を起こし、晴翔は気を失ってしまったのだ。
トラウマとなるには十分である。
カラオケは暗いし、狭くはないものの空気が籠るあたりが、少しだけあの時の押入れを思い出すのだ。高校に入ってから一度勇哉らと行ってみたのだが、大きな音も相俟って一番苦手な場所となった。
典昭はそれも承知しているので、いつも一緒にいるのに誘わないのはな、という義理から晴翔に声を掛けたに過ぎない。断られるのは分かりきっていた。だから、晴翔の返信を受けた典昭は顔色を変えず、りょ、とさらに短く返し、スマートフォンをソファーの上に伏せるのだ。
典昭なりの気遣いで、最近では勇哉や結衣も真似るようになった。閑架はやらない。
典昭からのメッセージに返信した晴翔は、脱いだスラックスをハンガーに掛け、椅子の背もたれに掛けたワイシャツとインナーを手に部屋を出る。
ペールブルーのTシャツから伸びる細い腕には、最近出来たらしい青痣が肘の内側にある。三日程前、体調を崩した時に採血をしたのだが、その時の看護師は採血があまり得意ではなかった。晴翔の細過ぎる血管を無理に探した結果の痣だった。最終的に手の甲の血管から採ることとなり、晴翔は二度苦い顔をした。
入院着のようなTシャツを外で着ていると、他人から心配されることがままある晴翔だが、薄い色合いが肌の白さを誤魔化すと信じていた。実際のところ、そんなことは全くないのだが。
「母さん、軽く食べたいかも」
「そう、何がいい?」
「パンある?食パン食べたい」
柔らかい食感のものを所望し、内心「自分でやればいいか」と思いつつも晴翔はつい母に頼ってしまう。母も母で、同じことを思いつつ、
「あるある、ちょっと待ってね」
と、キッチンを通りがかった晴翔の手にある洗濯物を見て、これくらい、と甘やかしてしまうのだ。
脱衣所にある籠へと洗濯物を入れた晴翔は手を洗い、うがいをした。少しゴロゴロと痛みがある目元を撫で、原因であるコンタクトレンズを外し、分厚い眼鏡を掛けて一度顔を顰める。グッと強く瞼を閉じ、コンタクトレンズに比べてやや見えづらい視界に目を慣れさせた。
眼鏡のツルに巻き込まれた髪を引き出し、薄茶の髪を整えると、晴翔は浴室へと足を踏み入れる。服は着たままなので、湯浴みをするわけではない。
冷たいタイルに足を置いた晴翔は、眉を吊り上げほんの少し後悔をした。だが、これは彼の習慣で、やらないと気が済まないことである。カランに手を伸ばしシャワーヘッドから水を出すと、晴翔は浴槽にかけ、薄く積もっているかもしれない塵を流した。そして、程良いところでそれを止め、栓をすると蛇口に切り替え湯を貯め始めた。
彼が浸かるためではない。いや、後から入ることは入るのだが、木崎家では大黒柱が一番風呂を浴びるのが常だった。体に良くないとされているが、一番疲れている人を優先させていた。湯は熱過ぎない三八度で用意する決まりだ。
日課を終えた晴翔が脱衣所からリビングへ戻ると、ダイニングテーブルには耳の切り落とされた食パンがすでに用意されていた。
矯正器具による痛みは、今は殆どない。だが、初めのうちに痛がっていた晴翔を見ている母は、つい甘やかして比較的歯ごたえのある耳を切り落として用意してしまうのだ。
「ありがと、もう大丈夫なのに」
「そうだけど、食べやすい方がいいかなって」
と、優しく互いに微笑む。
「ただいまー!もう夜でも蒸すねぇー」
バタバタと慌しい音を立てながら、一人の男性がリビングと玄関を繋ぐドアを開いた。この家の大黒柱、晴翔の父である。
明るく朗らかな人柄で、職場では後輩からもよく慕われている人だ。家族愛が強く、残業は極力しない・させない主義で、自分の仕事はしっかりと時間内に終わらせる、どうしても終わらないと判断した時にはキリの良いところで切り上げる男である。
「木崎さんいるから帰りやすいよね」
と、若手の間で言われているのも、本人は良いことと考えていた。
「おかえりなさい、今日もお疲れ様」
「おかえり、先お風呂行ってきていいよ」
「いつもありがとう。今日は少しゆっくり浸かろうかな」
「うん。追い焚き忘れないでね」
「もちろん」
リビングへと入って来たばかりの大黒柱は、スーツのジャケットとスラックス、ネクタイを妻に任せることなく、自身でハンガーへと掛けた。
「パパったら、またここで脱いで」
「脱衣所で脱ぎなよ」
「いいじゃないか、家族だろ?」
「いや、悪くはないけどさ……」
と、四十を過ぎても茶目っ気のある父にその妻と晴翔は呆れつつ、顔を見合わせる。妻がふぅ、と溜息を吐いた。
「……晴翔が男の子でよかったですね」
「え、敬語ヤだよ?」
「いつも言われてるのに、父さんが開き直るからでしょ」
「そんなにダメー?」
情けない声で言いながら、愛しい妻に冷たくあしらわれ、愛しい息子に諭される。
この幸せな家族が、晴翔にとって、晴翔の母や父にとって何よりも大切な存在だった。
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